第5話 溺愛の水牢姫
「ゼルフィア」
「何だ」
「俺、やっぱり帰りたい」
「帰ったら私が引きずって戻す」
「優しさは?」
「ここまで連れてきた」
「それを優しさとして提示できるの、魔族社会への適応力が高すぎるんだよなあ!?」
半泣きみたいな声を出しながら歩いているうちに、俺たちは闘場内部の控え区画へ入っていた。分厚い黒石で囲まれた待機所は、外の熱狂が嘘みたいに静かで、空気そのものがぴんと張っている。壁際には赤い術式線が淡く走り、天井近くの燭台では青白い炎が揺れていた。観客席の歓声は遠雷みたいに低く響いているのに、この区画だけは処刑前の楽屋みたいな妙な静けさがある。
すでに何人かの参加者が集まっていた。腕が丸太みたいに太い鬼人の戦士は、椅子へ座ったまま岩を握り潰せそうな圧を放っているし、蛇の下半身を持つ美女は長い尾を床へ滑らせながら、退屈そうに爪を磨いている。全身を骨鎧で覆った騎士に至っては、どこまでが装備でどこからが本人なのか判別できない。ここ、本当に試合前の待機室なのだろうか。殺し合い直前の猛獣展示場ではなく?
そんな物騒な面々の奥で、一人だけ空気の違う女性がいた。
水色の髪。淡く透けるような睫毛。柔らかく垂れた瞳。白い肌の周囲には、薄い水膜みたいな魔力が静かに揺れていて、青を基調にした軽やかな衣装が水面の波紋みたいに光を返している。見た目だけなら、血と歓声の渦巻く闘場より、湖のほとりで竪琴でも奏でているほうが似合いそうだった。
癒し系。清楚。優しそう。
朝から角、牙、蜘蛛脚、骨装飾、炎上思想みたいな情報ばかり浴び続けてきた俺の脳にとって、彼女の存在は久々に現れた「比較的常識寄りの美人」という救済だった。いや、よく考えたら水色の魔力をまとっている時点で十分ファンタジーなのだが、すっかり感覚が麻痺してしまっている。異世界適応とは、たぶんこうやって少しずつ基準が壊れていく現象を指すのだろう。
彼女は俺へ気づくと、ふわりと微笑んだ。春先の水面みたいに穏やかな笑みだった。少なくとも、ゼルフィアが獲物を見る時の捕食者感はない。俺は少しだけ肩の力を抜きかける。
その直後、隣のゼルフィアが小さく舌打ちした。
嫌な予感しかしなかった。
「あら……グレン様」
声まで柔らかかった。耳元へ静かに流れ込んでくる響きが、水面へ指を滑らせた時の波紋みたいに淡く広がる。朝から怒鳴り声と歓声と物騒な単語ばかり浴び続けていた俺の脳は、その穏やかな音だけで一瞬「話の通じるタイプの人だ」と錯覚しかけた。
「お待ちしておりました」
「あ、どうも……」
反射的に会釈しかけた瞬間、手首へ巻きついていたゼルフィアの糸がきゅっと締まった。鋭い痛みではない。ただ、「頭を下げるな」という意思だけがやたら明確に伝わってくる。危ない。うっかり日本人の礼儀正しさを発動していた。異世界では挨拶一つで格付けやら上下関係やらが発生するらしいので、もはや礼儀が地雷原である。
水色の美女はそんな俺たちを見ても気分を害した様子はなく、むしろ嬉しそうに両手を胸の前で合わせた。白い指先の周囲で淡い水膜がふわりと揺れ、空気が少しだけ冷たくなる。
「今日はお相手できて、とても嬉しいです。ずっと前から、あなたの炎は綺麗だと思っていましたの」
「あ、ありがとうございます」
「燃え盛って、暴れて、傷ついて、それでも前へ進もうとする炎。見ているだけで胸が苦しくなります。焼けるように熱いのに、どこか壊れてしまいそうで……だから、いつか私の水の中で静かに休ませて差し上げたいと思っていました」
……あれ?
言葉は優しいし、表情も柔らかい。声なんて寝る前に聞いたら安眠効果がありそうなくらい穏やかだ。なのに話している内容だけ、妙に湿度の高い危険物へ変質している。
「ちなみに、水の中っていうのは比喩ですよね?」
「いいえ」
彼女はにこりと微笑んだ。春の湖みたいに綺麗な笑顔だった。
「私の水牢は、とても穏やかです。苦しくならない程度に呼吸を奪い、怖くならない程度に力を抜き、抗えなくなるまで優しく包みます。暴れる必要も、傷つく必要も、戦う必要もなくなりますわ」
怖い。
説明だけ聞くと介護施設みたいな優しさなのに、実態がじわじわ抵抗力を奪う監禁装置である。しかも本人に悪意が見えないのがさらに怖い。本気で「安らぎを与えたい」と思っている目をしている。捕食者が「暴れないほうが楽ですよ」と微笑みながら獲物へ毛布を掛けてくるタイプの恐怖だ。
俺は思わず半歩後ろへ下がった。
すると隣のゼルフィアが、氷みたいに冷えた声で言った。
「フィオナ。私の前で発情するな」
待って。
今の会話、求愛判定だったの?
「まあ、ゼルフィア様。相変わらず棘のあるお言葉ですこと。グレン様を糸で縛って連れてくる方に言われると、少しだけ説得力に欠けますわね」
フィオナは口元へ指先を添え、くすくすと上品に笑った。声は柔らかい。仕草も優雅。なのに内容だけがじわじわ怖い。例えるなら、高級ホテルのラウンジで出された紅茶の中身が実は睡眠薬入りだったと知った時みたいな恐怖である。
「私の糸は拘束だ」
ゼルフィアは表情ひとつ変えずに言い返す。
「私の水は保護です」
「同じだろう」
「違いますわ。糸は締めつけるもの。でも水は包むものですもの。怯えている方ほど、優しく沈めて差し上げないと」
会話の温度は穏やかなのに、単語の内容だけが終始監禁寄りである。俺を挟んで、拘束派と水槽保護派が火花を散らしている状況なのだが、どちらも自由意思の尊重という概念からかなり距離がある気がするんだが…?
…いや待ってほんとに助けてほしい。できれば、今すぐにでも六畳一間の日常へ帰してほしい。
フィオナ・アクアリス。水妖魔族。《溺愛の水牢姫》。
ゼルフィアから聞かされていた異名の意味を、俺は今ようやく骨身に染みて理解した。この人、見た目だけなら湖畔で子供に歌を聞かせていそうなくらい穏やかな美女なのに、中身の愛情表現が完全に深海仕様だ。好意の重さがそのまま水圧になって相手へ襲いかかるタイプである。
「グレン様」
フィオナが俺を見つめた。淡い青の瞳は澄んでいるのに、その奥には静かな熱が沈んでいた。炎みたいに激しく燃える熱ではない。ゆっくり体温を奪いながら、水底へ引き込む深海の流れみたいな熱だ。
「今日はどうか、無理をなさらないでくださいね。あなたが苦しそうに抵抗する姿を見るのは、きっと胸が痛みますから」
フィオナは本当に心配しているような顔でそう言った。目元は柔らかく、声音には慈愛すら滲んでいる。たぶん本人の中では、「暴れないよう優しく水へ沈める」はかなり献身的な愛情表現なのだろう。価値観の方向性が違いすぎて、もう否定する気力すら削られてきた。
「だったら手加減をお願いします」
「もちろん、優しく沈めます」
「会話が成立しているようで根本的に噛み合ってない!」
俺が半泣きで抗議したところで、控え区画の奥から巨大な鐘の音が響いた。低く、重く、地面の下に眠っていた何かを叩き起こすみたいな音だった。黒石の壁がびりびり震え、客席から押し寄せる歓声がさらに膨れ上がる。熱気が通路へ流れ込み、空気の温度まで一気に上がった気がした。
仮面をつけた係員らしき魔族が中央通路へ現れ、長い巻物を広げる。仮面の奥から響いた声は魔術でも使っているのか、闘場全体へ雷鳴みたいに広がっていった。
「次戦――蒼牙戦域血刻戦儀、第三級裁定戦。炎爵家イーフリート嫡子、グレン・イーフリート。対するは、水妖魔族アクアリス家、フィオナ・アクアリス!」
俺の名前が呼ばれた。
腹の奥が冷える。
ああ、本当に俺なんだと、嫌になるほど実感した。さっきまで「帰りたい」と喚いていた一般大学生が、今は数千の観客に名を呼ばれ、命懸けの決闘へ送り出されようとしている。現実感がないくせに、逃げ道だけは完璧に塞がっていた。
客席が沸く。誰かが俺の名を叫び、別の誰かがフィオナの勝利を囃し立て、怒号と歓声と熱狂が渦になって闘場を満たしていた。
俺はゆっくり息を吸った。
逃げたい。
帰りたい。
六畳のアパートでスマホゲームのログインボーナスを受け取りながら、コンビニの新作スイーツについて悩んでいた昨日へ戻りたい。
それでも、闘場の入口はもう目の前だった。
ゼルフィアの糸が、俺の手首から静かにほどけた。細い糸が離れていく感触に妙な心細さを覚えてしまった自分が少し悔しい。気づけば、彼女の拘束が精神安定剤みたいになり始めている。適応してはいけない方向へ順調に異世界適応が進んでいた。
ゼルフィアは俺のすぐ横まで歩み寄ると、低い声で囁いた。
「覚えておけ。水は炎を消す。けれど炎は、水を蒸発させることもできる」
「理屈ではそうなんだけどな」
「怖いか」
「怖い」
彼女は相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。目つきは鋭いし、口を開けば脅迫まがいの台詞ばかり飛んでくるし、背中の蜘蛛脚なんて今もわずかに揺れているだけで十分生命の危機を感じさせる。それなのに、赤い瞳の奥にはほんの少しだけ、俺が前へ出ることを当然だと思っている色があった。
信じているのだ。
少なくとも、“グレン・イーフリートなら立ち止まらない”と。
ずるい。
そんな目を向けられたら、逃げたいなんて言いづらくなる。こっちはまだ精神的にはコンビニ弁当と大学レポートに追われていた一般学生なのに、向こうは当然のように戦場へ送り出してくる。信頼の圧力が重い。
俺は重い足を引きずるみたいにして、闘場の中央へ向かった。一歩踏み出すたび、黒石の床へ刻まれた術式線が赤く発光し、足裏から熱が伝わってくる。胸の奥の炎核が脈打つたび、血液の中へ火種が混ざっていくような感覚が広がり、指先がじわりと熱を持った。
向かい側では、フィオナが静かに微笑んでいる。淡い水色の髪が揺れ、その周囲には帯状の水がいくつも浮かんでいた。透明な蛇みたいにうねりながら空中を巡る水流は、光を受けるたび硝子細工みたいに美しく輝く。綺麗だ。綺麗なのに、本能が「近づくな」と全力で警鐘を鳴らしている。たぶんあれに捕まったら、窒息する前に精神が「もう抵抗しなくていいかな……」って諦め始めるタイプのやつだ。
どう見ても相性が悪い。
というか、ゲームならチュートリアル後半に出てくる「初心者へ属性相性を叩き込むための強敵」ポジションである。こちらは操作説明すらまともに受けていないのに、相手だけ状態異常と拘束スキルを完備している。うん、どう考えても運営の難易度調整がおかしいよね?
それでも、無情にも鐘は鳴ってしまった。
重く低い音が闘場を震わせ、観客席から歓声が爆発する。空気が熱を帯び、術式線がさらに赤く脈打ち、フィオナの周囲の水がゆっくり持ち上がった。
優しい村人に助けられるイベントもなければ、ギルドで登録する平和な導入もない。あるのは、魔族の大歓声と、水牢系癒し美女と、胸の中で燃え続ける危険物だけだった。
俺は心の中で、今朝から何度目かわからない叫びを上げる。
チュートリアル、本当にどこ行ったんだよ。




