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第6話 俺の知ってる大学生活は



 グレンとしての記憶が戻り始めているのは、きっと本来なら歓迎すべきことなのだと思う。


 なにしろ今の俺は、異世界転生初日にして命懸けの決闘場へ放り込まれ、観客席には角、牙、尻尾、翅、外骨格など「人類を怖がらせるための追加オプション」を各自自由に盛った魔族たちが隙間なく詰めかけ、その視線を一身に浴びながら、目の前では「君を飼育したい」とわりと真顔で考えていそうな水色髪の美女がうっとり微笑んでいるのである。


 字面だけ切り取ると夢のハーレムイベントっぽい。


 実際には、逃げたら食われそうな空気しかない。


 俺が知っている大学生活は、せいぜい講義中に居眠りして教授と目が合うとか、提出期限三分前にレポートをアップロードしようとしてWi-Fiが死ぬとか、その程度の命の危機しか存在しなかった。


 少なくとも「観客の歓声が、自分の生死を賭けた娯楽として成立している」環境へ送り込まれることはない。


 しかも困ったことに、この世界の連中は誰一人として冗談で動いていない。


 使用人たちは「若様なら勝つ」と本気で信じているし、ゼルフィアは「死ぬなら死ぬで面白い」くらいの温度感で俺を見ているし、観客席から飛んでくる熱狂も、「頑張れー!」みたいなスポーツ観戦の軽さではなく、「今日はどんな殺し方を見せてくれるんだ」という闘技場文化特有の血生臭い期待に満ちている。


 こんな場所で、


 記憶ありません。

 戦い方知りません。

 魔法の使い方わかりません。

 そもそも昨日まで別の世界の住人でした(中身は人間です)。


 などと自己申告した場合、俺の人生は試合開始から三十秒後に「異世界転生 完」の文字とともにスタッフロールへ突入する可能性が高い。


 だから、グレン・イーフリートとしての知識や経験が戻ってくるのは必要不可欠だった。


 本来なら泣いて感謝する場面である。


 問題は、その供給方法があまりにも雑だったことである。


 脳の中へ情報を流し込んでいる存在がいるとして、そいつはたぶん説明書という概念を嫌っている。


 古い記憶。

 戦闘経験。

 魔術理論。

 貴族社会の常識。

 敵対勢力の情報。

 ゼルフィアとの関係。

 幼少期の出来事。

 筋肉の動かし方。

 剣術の呼吸。

 炎を操る感覚。

 昨夜のやたら生々しい記憶。


 それら全部を段ボール箱へ突っ込み、「必要なら勝手に探してください」と頭上からぶちまけられているような有様なのだ。


 整理整頓という概念が死んでいる。


 しかも最悪なことに、記憶というのは映像資料みたいに順番に再生されてくれない。


 急に脳内へ「敵の首を焼き切った感触」が流れ込んだかと思えば、次の瞬間には「ゼルフィアの髪を撫でながら会話している記憶」が混ざり、その直後に「貴族会議で他家を煽っている場面」が割り込んでくる。


 情緒がジェットコースターすぎる。


 普通の人生を送っていれば、朝起きて五分以内に「殺人」「恋愛」「政治闘争」を同時処理するような展開には直結しないだろう。


 俺の脳は元々、講義資料のPDFを開いたまま寝落ちし、翌朝「読んだ気がする」という幻覚だけを頼りに小テストへ挑む程度の性能しかなかった。そこへ急に、風上瞬太とグレン・イーフリートの二人分の人生がごちゃ混ぜに流れ込んでくるのだから、処理能力が足りるはずもない。


 実際、今の精神はかなり限界だった。


 さっきから頭痛はするし、耳鳴りはするし、視界の端では知らない記憶の残像がちらついている。しかも厄介なことに、流れ込んでくる知識自体は本物なのだ。


 剣を見れば重心がわかる。


 魔力の流れを見れば危険性が察せる。


 ゼルフィアが今どのくらい機嫌悪いかも、蜘蛛脚の角度でなんとなく理解できる。


 理解したくはなかった。


 俺の人生で「恋人の機嫌を外骨格の開き具合で判断する能力」が必要になる日が来るとは思わないだろ普通。


 視界の端では闘場の赤い術式が脈打ち、観客席からは魔族たちの歓声が降ってくる。


 中央の黒石舞台に立つ俺の向かい側で、フィオナ・アクアリスが両手を胸の前でそっと重ねていた。水色の髪がふわふわと揺れ、その周囲には生き物みたいな水の帯が漂っている。見た目だけなら、癒し系ヒロインの登場シーンで流れる透明感のあるBGMが似合いそうなのに、彼女の言動を思い返すと、脳内BGMが一気に水没事故の警報音へ変わっていく。


 俺は正面を見ているふりをしながら、必死に頭の中を整理しようとしていた。


 グレン。


 グレン・イーフリート。


 炎爵家の嫡男。


 蒼牙戦域ヴァルゼイムに属する中堅戦闘貴族。


 炎属性に特化した魔族。


 性格は……。


 性格は……。


 俺は流れ込んでくる記憶の断片を確認し、思わず心の中で頭を抱えた。


 グレン、お前、かなり終わってるタイプの魔族貴族だったんじゃないか?


 いやもちろん、現代日本の倫理観をそのままこの世界へ持ち込むのは違うのだろう。ここは弱肉強食が道徳として機能していて、力がある者ほど発言権を持ち、血統と魔力と戦績が家の価値を決める。大学の食堂で唐揚げ定食をつつきながら「単位やばい」とぼやいていた人間の感覚で測れる社会ではない。俺が知っている「平和」は、せいぜい履修登録戦争と終電ダッシュとバイト先のシフト争奪戦くらいであり、命を賭けた決闘や領地間抗争が日常へ組み込まれている世界とは根本からルールが違う。


 そこまでは理解できる。


 理解はできるのだ。


 ただそれを踏まえても、グレン・イーフリートという男、人格が戦闘民族寄りすぎる。


 喧嘩は買う。


 売られていなくても気分で買う。


 挑発されれば笑いながら乗る。


 挑発されなくても暇なら乗る。


 気に入った相手には真正面からぶつかる。


 綺麗な女には迷わず声をかける。


 強い女にはもっと積極的に行く。


 しかも最悪なのが、「強い」と「綺麗」の両方を満たした相手に対して異常にテンションが上がる点である。


 敵対家門の令嬢と死闘を繰り広げ、城壁を半壊させ、周囲の兵士を巻き込みながら炎と毒と魔術が飛び交う大惨事を起こしたあと、血まみれの相手へ向かって「次は二人きりでやろう」と笑った記憶が脳裏をよぎった時には、本気で頭を抱えた。


 待ってほしい。


 文脈をくれ。


 戦闘続行の申し込みなのか。


 口説いているのか。


 あるいはこの世界では両方同時に成立するのか。


 怖い。


 価値観が怖い。


 しかも問題なのは、相手の令嬢側も満更ではなさそうな反応をしていた記憶まであることだった。何だこの世界。恋愛感情と殺意の距離感が近すぎる。現代日本なら警察案件と少女漫画が同じ棚に陳列されているようなものだぞ。


 嫌な汗が背中を流れる。


 俺は恐る恐る、さらに記憶を探った。


 やめておけばよかった。


 歴代の恋人らしき女性たちの顔が次々浮かび始めたのである。


 一人。


 二人。


 三人。


 四人。


 五人。


 六――いや待て。


 ちょっと待て。


 まだいる。


 記憶の奥から次々出てくる。


 おかしいだろ。


 なんでそんなソシャゲの期間限定SSR一覧みたいな勢いで増えるんだ。


 百歩譲って、魔族社会における一夫多妻制や血統重視の価値観を理解するとしても、記憶の棚を開けるたびに別の女性の顔と名前と種族と関係性が出てくるのはさすがに混乱する。


 吸血種の貴婦人。


 獣魔族の戦士。


 ラミアの商人令嬢。


 夢魔族の舞踏会相手。


 炎魔族の遠縁。


 ゼルフィア。


 ゼルフィアは別枠で濃すぎる。


 その記憶だけ妙に熱量が高く、うっかり触るとまた鼻血が出そうになるので、俺は心の中で厳重に封印した。


 今は試合前。


 今は試合前。


 昨夜のことを思い出すな。


 絶対に思い出すな。


 ゼルフィアのあの声とか、腕とか、糸とか、睨みながらも耳まで赤くなっていた顔とか、そういう情報は今この場で必要ない。


 必要ないって言ってるだろ俺の脳。


 勝手に再生するな。


「グレン様」


 鈴を溶かしたみたいに柔らかな声が耳へ落ちてきて、俺は危うく意識を現実へ引き戻された。向かい側に座るフィオナが、小さく首を傾げながらこちらを覗き込んでいる。淡い水色の髪がさらりと肩を流れ、透き通るような青い瞳が不安げに細められていた。その仕草だけ切り取れば、やはり物語中盤で主人公へ回復薬を差し出してくれる癒やし系ヒロインそのものである。問題は、この人の「癒やし」が、場合によっては人を巨大水槽で管理飼育する方向へ進化しそうな気配を隠しきれていないことだった。


「お顔が赤いようですけれど、体調が優れないのですか?」


 優しい声だった。


 本当に優しい。


 熱を出した子供へ毛布を掛ける母親くらいには優しい。


「い、いえ、何でもありません」


「無理はなさらないでくださいね。苦しい時は、すぐに私の水へ身を預けてくださればよいのです」


「その水が一番命の危機を感じるんですよね」


「まあ、ひどい言い方ですこと」


 見た目だけなら「転びました?」と絆創膏を差し出してくれる深窓のお嬢様なのに、実際にやろうとしていることは高確率で水牢監禁なのは言うまでもない。


 笑顔が優しいほど、「逃がす気はありませんね?」という気配が濃くなるのは何なんだこの水属性令嬢。


 そして最悪なことに。


 俺の頭の奥で、グレン由来の記憶がぬるりと浮上した。


 フィオナ・アクアリス。


 水界公爵家次女。


 蒼牙戦域でも屈指の治癒術師。


 つい先月。


 グレン・イーフリート、この令嬢を口説いている。


 いや待て。


 ちょっと待て。


 何してるんだ過去の俺。


 何をどうしたら「決闘相手と事前に恋愛フラグを立てる」という発想へ辿り着くんだ。スポーツ漫画でもそんな危険な下準備しないぞ。


 記憶の舞台は、アクアリス家主催の治癒術披露会だった。白を基調にした大広間で、貴族たちが優雅に談笑する中、負傷したグレンは治療名目でフィオナへ腕を預けていたらしい。水魔力で構築された透明な治癒水槽が宙へ浮かび、その中で傷口がゆっくり塞がっていく幻想的な光景だった。少なくとも、記憶の中では。


 問題は、その最中のグレンの言動である。


『お前の水は心地いいな。俺の炎が静かになる』


 うん。


 まあここまではいい。


 キザだが、魔族貴族ならギリ許容範囲だ。


 続く台詞が駄目だった。


『側室にならないか』


 軽かった。


 びっくりするほど軽かった。


 コンビニで「袋いりますか」と聞かれるくらい自然に側室勧誘が飛び出していた。


 この男、求婚のハードルが低すぎる。


 しかもフィオナは、少し困ったように微笑みながら断っている。


『グレン様は、まだ燃えすぎていますもの。私の水槽へお迎えするには、もう少し落ち着いていただかないと』


 怖い。


 断り文句が怖い。


 なぜ求婚拒否で「水槽へお迎え」という単語が出てくるんだ。結婚生活の比喩にしても飼育感が強すぎるだろ。


 その後、大きな接触はなし。


 そして今日。


 血刻戦儀で対戦予定。


 気まずいなんてもんじゃない。


 風上瞬太としての俺は、彼女と実質初対面である。けれど身体に残っているグレンの記憶は、「先月、自信満々に側室へ誘って断られた相手」として彼女を認識していた。


 つまり今の俺は、記憶喪失状態のまま、元の人格が盛大に滑った恋愛案件の後始末をさせられているわけである。


 どんな顔をすればいい。


 お見合いに失敗した相手と大学の期末試験でペアを組まされたような気まずさ、いや違う、命懸けの試合だからそれ以上に重い。


 しかもフィオナは俺を見つめている。


 微笑んでいる。


 あの微笑みの裏に、「先月はお誘いありがとうございました、今日は沈めますね」という意味が含まれていないことを祈りたい。


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