第3話 本日の対戦相手
俺は鼻を押さえたまま、頭の奥に沈んでいるグレンの記憶をもう一度探った。今日の血刻戦儀の相手について思い出そうとしただけなのに、意識の底から浮かんできたのは、剣戟の音でも怒号でもなく、湿った空気と、肌にまとわりつく生ぬるい水の感触だった。硝子で囲われた巨大な水槽の中、視界いっぱいに淡い青が揺れていて、耳のすぐそばでは誰かが子守歌でも歌うみたいに優しく囁いている。抱きしめられているはずなのに腕は動かせず、守られているはずなのに息の逃げ場だけが少しずつ狭まっていく。水は柔らかいのにしつこく、冷たいのに妙に温かく、逃げようとするたび肌の表面を撫でるように絡みついて、こちらの力も魔力も抵抗心も、砂糖を溶かすみたいに薄めていった。
怖い。
派手に殺される怖さではない。怒鳴られるわけでも、斬られるわけでも燃やされるわけでもない。むしろ記憶の中の相手はずっと微笑んでいて、怪我はありませんか、苦しくなったらすぐ眠ってくださいね、と本気で気遣う声をしていた。なのに、その優しさの着地点が完全に水槽監禁なのだから、善意の方向音痴にもほどがある。魔族社会、暴力的なやつはもちろん怖いが、優しいやつまで別方向に怖いのは仕様として間違っていないだろうか。
記憶の水面に、鮮やかな水色の髪が広がる。片方は澄んだ青、もう片方は琥珀色を帯びた金の瞳。神官服と舞装束を混ぜたような白と深青の衣装をまとい、周囲に浮かぶ水滴を宝石みたいに揺らしながら、彼女は困った子を見るような顔でグレンへ手を伸ばしていた。
「フィオナ・アクアリス」
俺がその名前を口にした途端、ゼルフィアの眉間に見事な皺が刻まれた。美人の不機嫌顔というものは本来なら少し魅力的に見えてもよさそうなものなのに、彼女の場合は背中の蜘蛛脚までわずかに開くので、感想が「絵になるな」より先に「刺されるのでは?」へ直行する。
あれ。
何か地雷を踏んだ?
「思い出したか」
「名前だけは」
「なら思い出せ。あの女は面倒だ」
「どう面倒?」
「気に入った相手を水槽に入れて飼おうとする」
「会場どこ? 今から逆方向に走る」
「逃がすと思うか」
ゼルフィアの背中から細い黒糸が音もなく伸び、俺の手首へ蛇みたいに絡みついた。視界の端で何かが揺れたと思った時には、もう遅い。糸は肌に食い込むほど強くないのに、引いても緩まず、ほどこうとして指をかけても表面が妙に滑らかで、まるで「抵抗する権利だけは与えてやる」と言われているみたいな嫌な優しさがあった。俺の逃走計画は開始三秒前に蜘蛛の巣へ提出され、即日不採用になっていた。仕事が早すぎる。営業なら有能。相手が俺なので最悪。
「ちょ、何これ」
手首に絡みついた黒糸を見下ろしながら俺が声を上ずらせると、ゼルフィアは少しも悪びれた様子なく前を向いたまま、当然の処置だと言わんばかりに細い指先を軽く動かした。
「迷子防止だ」
「大学生を幼児扱いしないでほしい」
「今朝からのお前は幼児より手間がかかる」
「反論できないのが悔しいです」
ゼルフィアは黒い外套を揺らしながら歩き出し、俺も半ば引かれる形でその後を追った。重厚な城の内部を歩いているはずなのに、空気はどこか湿っていて、生暖かかった。蜘蛛の巣へ迷い込んだ獲物という表現が頭をよぎり、直後に「いや、今の俺ほんとにそんな立場では?」と気づいてしまったせいで余計に落ち着かない。
しかも厄介なことに、この糸が妙に生々しいのだ。拘束具のような冷たさはなく、巻きついた部分からじわりと熱が伝わってくる。布や縄ではなく、生きた神経を直接皮膚へ這わせられているみたいな感覚だった。俺の脈が速くなればそれに反応するように糸が微かに震え、逆に歩幅が乱れると「ちゃんとついて来い」と言わんばかりに軽く引かれる。ゼルフィアの身体から伸びたものだと考えると、この黒糸も蜘蛛脚と同じく感覚器官の一部なのかもしれない。
「これ、俺の考えてることもわかったりする?」
「そこまでは読めない。皮膚と筋肉の反応、魔力流の乱れ、心拍の変化くらいだ」
「十分プライバシー侵害だろ」
「昨夜はもっと深いところまで触れた」
「その話やめませんか!」
自分でも情けないほど声が裏返り、手首の糸がこちらの動揺を告げ口するみたいにぴくりと揺れたせいで、俺は顔が熱くなるのを止められなかった。
ゼルフィアは涼しい顔で歩き続けているが、俺のほうはもう平静ではいられない。ほんの数時間前まで同じベッドにいた相手だという事実だけでも十分に脳の容量を圧迫しているのに、厄介なことに、今の俺はそれを単なる推測としてではなく、グレンの記憶として断片的に思い出し始めていた。
頭の奥で熱が弾け、黒紫の薄布が揺れる寝室、枕に広がる黒髪、暗がりの中でも獣じみた光を宿す赤い瞳、挑発するようなゼルフィアの声、そして俺ではないはずなのに確かに俺の喉から出ていたグレンの低い笑い声が、炎に炙られた映像みたいに意識の奥から浮かび上がってくる。
記憶の中のグレンは、ゼルフィアの髪を指に絡めながら余裕たっぷりに笑っていて、普段なら相手を見下ろす側にいるはずの彼女が珍しく呼吸を乱し、不機嫌そうにこちらを睨み上げながらも距離を取ろうとはせず、むしろ黒糸でグレンの首筋を引き寄せるように絡め取っていた。
肌に触れた熱、耳元へ落ちた吐息、普段の冷たい表情が崩れていく気配まで思い出してしまったところで、俺は足を止めた。
「……どうした」
数歩先で糸がぴんと張り、振り返ったゼルフィアの赤い瞳が俺を捉えたが、さっきまでなら全力で「昨夜の俺は何をしているんですか」と叫べたはずなのに、今はもうそれができない。
なぜなら、思い出してしまったからだ。断片的とはいえ、昨夜のグレンがどんな声で、どんな手つきで、どんな顔をしてゼルフィアに触れていたのかを知ってしまった以上、俺は完全な被害者面で騒ぐことができなくなっていた。
「……グレン?」
ゼルフィアが怪訝そうに振り向いた。
こちらを見上げる赤い瞳が細く揺れた途端、今の涼しい顔に、記憶の中の彼女がぴたりと重なった。昨夜のゼルフィアは、今みたいに余裕ぶった捕食者の顔をしていなかった。刺々しい言葉も、相手を試すような目つきも、ぜんぶ熱にほどけていて、強気なまま崩れた呼吸を隠そうとしながら、こちらの首へ腕を回し、それでも最後まで負けを認めまいと睨みつけていた。
まずい。これは本当にまずい。昨日まで彼女いない歴を地道に更新していた一般大学生へ、こんな記憶を無修正の実体験みたいに流し込むのは、精神に対する異世界基準の拷問ではないだろうか。健全とは言いがたい本や動画を人生の片隅で履修してきた俺でも、視覚だけでなく、声や体温や指先に残る感触までセットで思い出させられるのは負荷が重すぎる。
鼻の奥がつんと熱くなった。
「おい、グレン。顔が赤いぞ」
「な、何でもない」
「鼻血が出ている」
「何でもある!」
俺は慌てて鼻を押さえた。指先に赤い血がべったりついて、炎魔族の身体でも鼻血は普通に出るらしいという、今この場で知りたくなかった人体情報がひとつ増えた。魔力回路だの炎核だの王核だの、身体の中身だけやたら物騒に改造されているくせに、こういう情けない部分だけ現代日本の大学生と互換性を保たなくていい。
ゼルフィアは少し目を見開き、俺の顔と指先の血を順番に見たあと、何かに気づいたように赤い瞳を細めた。唇の端がほんのわずかに上がる。獲物の弱点を見つけた肉食獣みたいな顔だった。
「思い出したのか」
「何を、とは聞きませんけど、今の聞き方でだいたい全部アウトです」
声が震えた。手首に絡んだ黒糸が、こちらの動揺を律儀に拾って小さく揺れる。プライバシーという概念がこの世界に存在するなら、まずこの糸を法廷に提出したい。
「何を思い出した」
「いや、その、昨日の、えっと、訓練?」
「訓練?」
「夜間共同運動?」
「……」
「違うんです、俺の中に記憶が勝手に流れてきて、決して意図的にいやらしいことを考えたわけではなく、不可抗力というか、脳内事故というか、記憶の交通事故というか」
ゼルフィアの顔が少しずつ赤くなった。
おお。
赤くなるんだ。
このクールビューティー系アラクネ美女、ちゃんと照れるんだ。
その発見に感動しかけた俺の喉元へ、黒い蜘蛛脚の先端がぴたりと突きつけられた。




