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第2話 俺の尊厳はどこに行った



 俺は廊下のど真ん中で叫んでいた。


 叫ばずにいられる人間がいるなら連れてきてほしい。胸の奥に得体の知れない危険物反応が出ています、よし実戦投入して様子を見ましょう、という判断は医療でも教育でもなく、ほぼ爆弾処理班の新人研修である。しかも処理される爆弾側が俺だ。磨き上げられた石造りの回廊に俺の声が派手に反響し、遠くで控えていた使用人たちが一斉にこちらを見たあと、「また若様が何かやっている」みたいな実に温かみのない視線だけ寄越して素早く目を逸らしていく。


 恥ずかしい。


 異世界へ来てからまだ半日も経っていないのに、俺はすでに「裸で絶叫」「貴族服の装着失敗」「鳥マスク医師による謎診察」「血が燃える」「廊下で再絶叫」というイベントを立て続けに達成しており、ここまで来ると転生ではなく公開処刑系バラエティ番組なのではないかという気すらしてくる。


 俺の尊厳はどこへ行った。


 神様的な存在がいるなら問い詰めたい。


 異世界転生の際、「主人公補正」と引き換えに「人としての尊厳」を回収する仕様になっていませんでしたか、と。


 ゼルフィアは呆れたように長い息を吐いた。


「本当におかしいな。普段のお前なら、相性が悪いと聞けば笑っていた」


「普段の俺、強者すぎるだろ」


「強者というより、ただの負けず嫌いだ」


「……そもそも参加したくないんですが……」


「血刻戦儀を前にして逃げ腰とは、よほど調子が悪いらしい」


 ゼルフィアの声から、温度がすっと抜けた。


 石造りの回廊に満ちていたざわめきが、少し遠ざかった気がした。黒炎の燭台が赤黒く揺れ、壁に飾られた獣の頭蓋骨がやたらと真面目な顔でこちらを見下ろしている。


 そんな顔で見られても困るんですけど。


 今の俺は魔族貴族としての覚悟もなければ、決闘前に格好つける精神的余裕もなく、できることなら今すぐ六畳一間に帰って布団をかぶり、「これは全部悪い夢です」とスマホのアラームに証明してもらいたいだけの一般大学生である。


 ゼルフィアは、ただ呆れているわけではなかった。


 たぶん、心配してくれているんだろう。


 ただし彼女の心配は、優しい言葉とか柔らかな手つきとか、そういう人間社会で流通している親切パッケージには入っていない包容力ゼロの優しさだった。棘と毒と糸で厳重包装されていて、受け取る側に高い読解力と生命保険への加入が求められるタイプの心配である。


「なあ、ゼルフィア」


「何だ」


「本当に、ありのまま言ったら信じる?」


「内容による」


「俺、…実はグレンじゃないかもしれない」


 ゼルフィアの足が止まった。


 かつん、と蜘蛛脚の先端が石床を叩く。


 乾いた音が、回廊の奥まで細く伸びていった。


 前を歩いていた使用人たちが空気を読んだのか、いや、たぶん命の危険を察知したのか、視線を伏せたまま静かに距離を取る。コイツら優秀すぎないか?俺もできればその隊列に混ざって、壁際の観葉植物みたいな顔でやり過ごしたいんだが。


 ゼルフィアが振り向く。


 赤い瞳が、まっすぐ俺を射抜いた。


 冗談を聞く顔ではない。寝起きに俺を見ていた時の、あの獲物判定中みたいな目とも違う。もっと深くて、もっと冷たい。薄い氷の下に、黒い炎が沈んでいるような鋭い目だった。


「続けろ」


 意外だった。


 怒鳴られると思っていた。鼻で笑われるとも思っていた。あるいは背中の蜘蛛脚で壁に縫い止められ、「ふざけるなら舌から抜くぞ」くらい言われる可能性も覚悟していた。


 なのに、ゼルフィアは聞く姿勢を取った。


 これはいけるかもしれない。


 そう思った直後に、いや、いけるって何だよ、と自分で自分に突っ込む。異世界で「俺、別人なんです」と告白する場面に成功ルートが存在するのか。恋愛シミュレーションゲームでもそんな選択肢は見たことがない。あったとしても、だいたいバッドエンド直行の赤文字選択肢だ。


 俺は喉を鳴らし、息を吸った。


「俺の名前は、風上瞬太」


 声が、思ったより小さく出た。


「日本ってところで大学生をやってた。昨日までは普通に生活してたんだ。講義に出て、レポートに追われて、帰りに半額の唐揚げ弁当を買って、部屋で動画を流しながら食べて、そのままスマホ片手に寝落ちした」


 口にしてみると、あまりにも平和だった。


 半額弁当。


 レポート。


 寝落ち。


 昨日までの俺の人生は、退屈で、ぬるくて、金もなくて、単位も危うくて、格好いいところなんて一つもなかった。


 それでも、命懸けの決闘に向かう回廊よりは千倍ましだった。


「目が覚めたら、ここにいた。身体はグレンで、声も顔も力もたぶんグレンのものだ。記憶も少しずつ流れ込んでくる。炎爵家とか、血刻戦儀とか、蒼牙戦域とか、名前だけは頭に引っかかる。でも、俺の意識は風上瞬太のままなんだ」


 言葉を重ねるほど、逃げ道が消えていく。


 これを言ったら終わりだ。


 そう思いながら、止められなかった。


「異世界転生なのか、憑依なのか、グレン本人がどうなったのか、俺にも何もわからない。俺は昨日まで、この世界のことなんて一つも知らなかった。魔族も、王核も、お前のことも……たぶん、グレンにとって大事だったはずのことを、俺は何も覚えてない」


 言ってしまった。


 言い切ってしまった。


 しかも勢いで。


 口から飛び出した言葉は回収不能のまま、重たい沈黙だけが廊下に残る。


 壁際の黒炎がぱちりと爆ぜた。


 赤黒い火の粉がゆっくり宙へ浮かび、磨き上げられた石床へ消えていく。


 怖い。


 静かな空気なのに怖い。


 むしろ静かだから怖い。


 ゼルフィアは何も言わなかった。


 赤い瞳だけが、じっと俺を見ている。


 獲物を観察する肉食獣みたいな目だった。


 俺は唾を飲み込んだ。


 どう来る。


 笑われるか。


 呆れられるか。


 頭を割って中身を確認されるか。


 「別世界の魂」などという理由で封印庫送りになるか。


 あるいは蜘蛛糸でぐるぐる巻きにされたあと、「念のため解剖しておくか」と鳥マスク医師へ引き渡される未来まで普通にありえる。


 この屋敷、医療倫理という概念がかなり怪しいのだ。


 やがてゼルフィアは、長いため息と一緒に片手を額へ当てた。


 白い指先がこめかみを押さえ、黒曜石みたいな蜘蛛脚がわずかに揺れる。


「凝りすぎだ」


「……へ?」


 思わず間抜けな声が出た。


 ゼルフィアは半眼のまま俺を見ている。


「お前が妙な冗談を好むのは知っている。しかし今日は随分と設定を作り込んだな」


「設定じゃない! 俺の中では現在進行形の大問題なんだよ!」


「異界から来た大学生、だったか」


「そう!」


「ダイガクセイというのは何だ。弱い魔物の名前か?」


「社会的にはわりと弱い立場だけど魔物ではない!」


 ゼルフィアの眉がわずかに動いた。


 笑いを堪えている顔だった。


 ちょっと待て。


 この人、俺が必死に人生相談している横で面白がってないか?


「本当に信じてないのか?」


「信じる要素がどこにある」


「俺の態度とか! 口調とか! 使用人に謝る人格とか!」


「そこはまあ、かなり気味が悪いな」


「言い方!」


「昨日までのお前なら、使用人へ頭を下げるくらいなら敵軍へ単騎突撃していた」


「想像以上に面倒くさい男だな!?」


 俺は頭を抱えた。


 信じてもらえない。


 いや、そりゃそうだ。


 逆の立場なら俺だって信じない。


 朝起きた恋人が突然、


『実は俺、日本という国から来た一般大学生で、昨日までは半額弁当とソシャゲ周回を生き甲斐にしていました』


 などと言い出したら、まずは睡眠不足を疑うだろう。


 次に高熱。


 最後に呪い。


 ゼルフィアは腕を組んだ。


 黒い外套の下で豊かな胸元が押し上がり、細い腰の後ろでは蜘蛛脚がゆっくり開閉している。


 絵になる。


 腹立つくらい絵になる。


 黒と赤を基調にした戦装束。


 腰まで流れる黒髪。


 細い顎。


 冷たい赤眼。


 背後でゆっくり蠢く蜘蛛脚。


 威圧感と美貌が高級酒みたいに熟成されている。


 たぶんこの人、街を歩くだけで「近寄るな危険」と「もっと見たい」が同時発生するタイプだ。


 視線だけで心拍数を操作してくる。


 モデルみたいな美女が、殺戮兵器みたいな追加パーツを従えてこちらを見下ろしている光景は、冷静に考えなくても心臓へ悪いことこの上ない。


「お前が本当に別人だと言うのなら、私の知っているグレンはどこへ行った」


「それは……俺にもわからない」


「都合がいいな」


「俺もそう思う」


 自分で言っていて情けなくなるくらい、逃げ道の多い返事だった。中身が入れ替わったかもしれません、でも元の人格がどこへ行ったかは知りません、証拠もありません、ついでに今日は命懸けの決闘があります。これを大学のレポートで提出したら、教授から赤字で「論拠不足」と書かれて返ってくるどころか、呼び出し面談まで発生するレベルである。


 それでもゼルフィアは、すぐに俺を突き放さなかった。赤い瞳でこちらを射抜いたまま、ゆっくり腕を組み直す。背中の蜘蛛脚が石床を軽く叩き、乾いた音が廊下に落ちた。


「では聞く。私とお前が初めて戦った場所は?」


「え、知らな……」


 言い切る前に、頭の奥がじわりと熱を持った。熱というより、脳の内側へ焼けた鉄串を近づけられたような、思い出すという行為そのものに火傷しそうな感覚だった。目の前の黒い回廊がぶれ、赤黒い燭火の向こう側に別の景色が滲む。乾いた砂埃が舞う円形闘場。耳の奥を殴る歓声。焼けた鉄、血、焦げた肉、獣の汗みたいな匂い。まだ少年と呼んでもおかしくない年齢のグレンが、荒い息を吐きながら炎をまとった剣を握っている。正面では黒い糸が生き物みたいに宙を走り、炎の波を裂き、石畳へ影を縫いつけていた。その向こうに立つ赤い瞳の少女は、肩口を焼かれてなお笑っている。痛みを知らない顔ではない。痛みごと獲物を味わっているような得体の知れない顔だった。


「……若年部門の、第三闘場」


 俺の口から、知らないはずの言葉が落ちてきた。


 ゼルフィアの目が細くなる。さっきまでの疑いとは違う、刃物の切っ先で薄皮一枚をめくるような視線だった。


「結果は」


「相打ち。俺が君の巣を燃やした。君は俺の右脚に神経毒を入れた。俺は勝ったつもりで踏み込んで、足が動かなくなっていることに気づくのが遅れた。君は左肩を焼かれながら笑って、俺の首に糸をかけた」


 言葉が止まらなかった。知識として思い出しているわけじゃない。身体の奥に沈んでいた誰かの記憶が、火山の底から泡立つ溶岩みたいに浮かび上がってくる。喉を焼く空気。砂を噛んだ歯のざらつき。右脚から感覚が抜けていく冷たい恐怖。首筋に触れた糸の細さ。あと少しで勝てると思った矢先に、足元から勝利を奪われる屈辱。痛い。悔しい。腹が立つ。殺してやりたい。勝ちたい。もう一度やりたい。胸の底で、炎が笑っている。


 “楽しい”。


 その感情が一番怖かった。


 俺は風上瞬太だ。少なくとも昨日までは、履修登録サーバーに弾かれただけで世界の終わりみたいな顔をしていた一般大学生である。人と殺し合って、毒を打ち込まれて、首に糸をかけられて、それでも楽しいなんて思う種類の人間では絶対なかった。なかったはずなのに、【グレン・イーフリート】の記憶は、あの赤い瞳の少女を前にして心底嬉しそうに燃えていた。


 ゼルフィアが、ゆっくり腕を解いた。


「……覚えているじゃないか」


「今、思い出したんだよ」


「便利な記憶喪失だな」


「ほんとに便利なら、今日の相手の弱点と勝ち方と、欠席しても怒られない裏技までセットで出てきてほしい」


「最後は諦めろ」


「そこが一番欲しいんだよ!」


 ゼルフィアは小さく鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのか、たぶん両方だ。少なくとも背中の蜘蛛脚は俺の首を刈り取る角度ではないので、現時点では会話続行判定らしい。この世界では相手の機嫌を表情ではなく追加パーツの向きで確認する必要がある。恋愛難易度が高すぎる。攻略サイトがあったら「蜘蛛脚が三本以上開いたら謝罪推奨」とか書かれていそうだ。


「相手の名は覚えているか」


「えーっと……」


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