第9話 港の鐘が鳴る前に
宿の戸を開けると、通りはまだ薄青かった。
コレットは肩掛けを直し、戸口に立つヴィクトルへ挨拶した。彼の手には、いつもの厚い書類鞄がない。
「今日は、それだけですか?」
「食事に行くだけですから。記録は、あとで取りに戻ります」
小さな鞄を持ち上げて答えられ、コレットも自分の鞄へ手を添えた。中には財布と旅行記、買ったものを入れる袋がある。
坂の下から、車輪の音が聞こえた。
空籠を積んだ荷車が、2人の前を横切っていく。昨日までなら内側の通路へ曲がっていたところを、今朝はそのまま海の方へ進んだ。
コレットも、足を速めた。
外市場の入口に、鎖はなかった。
渡り板の先へ天幕が並び、屋台の間を人が行き来している。店の裏では、小舟から魚の籠が持ち上げられた。受け取った男がすぐ棚へ載せると、舟の女が次の籠を差し出す。
波の音に、呼び声が重なっていた。
「こっちへ回して。鍋、まだ熱いからね」
「その箱は裏だ。通るよ」
コレットは入口で立ち止まりかけ、後ろから来る人に気づいて脇へ寄った。ヴィクトルが先の空いた場所を示す。
歩き出すと、板の下で水が鳴った。
この床の下へ降り、暗い設備室で枠に触れたことを思い出す。今、その上を魚の箱や、大きな鍋が通っていく。
「昨日と、全然違いますね」
ヴィクトルも周りを見ていた。
「ええ。広いと思っていたんですが、店が並ぶとこうなるんですね」
炭に脂が落ち、白い煙が上がった。その向こうに、見覚えのある女性がいた。
「来たね。まだ座れるよ」
イカ飯の店だった。
前に見たものより、一回り大きな鍋が据えられている。女性が蓋を開けると、湯気の中から、ふっくらと膨らんだイカが現れた。
コレットは、思わず深く息を吸った。
「2皿、お願いします」
「はいよ。そこの端へ座って待っていて」
海へ向いた腰掛けがあった。すぐ下には小舟がつながれ、その先に帆船が並んでいる。
コレットは座ってから鞄を膝へ載せ、旅行記を開いた。
天幕の色も、船の形も違う。それでも、大鍋のある角から海を眺める構図は、挿絵と同じだった。
隣へ来たヴィクトルにも見えるよう、本を傾ける。
「ここだと思います」
彼は絵と屋台を見比べ、少し身を寄せた。
「向こうの柱も残っていますね。上の金具は替わっているようですが」
「本当だ。私、お鍋ばかり見ていました」
指さされた柱を確かめていると、女性が盆を運んできた。コレットは急いで本をしまった。
浅い器に、輪切りのイカ飯が並んでいた。
身はつやのある褐色で、切り口には米がぎっしり詰まっている。ひと匙分ほどの煮汁が、器の底へたまっていた。
「熱いからね。端から少しずつ食べな」
コレットは匙で端の一切れをすくった。持ち上げると、思ったより重い。湯気が頬へ届き、何度か息を吹きかけてから口へ運んだ。
イカの身が、歯を押し返した。
硬いわけではない。噛むとすっと切れ、甘みが出る。その中から、魚のだしを吸った米がほぐれた。米にもイカの味が染みていて、飲み込んだあとまで、口の中が温かかった。
コレットは器を見下ろした。
次は真ん中の、米が多い一切れを取る。周りの身と一緒に食べようとすると、匙に載りきらなかった。少し小さくして口へ入れ、ゆっくり噛む。
「……おいしい」
ようやく言うと、女性が笑った。
「待った甲斐、あった?」
「はい。中のお米まで、こんなに味がついているんですね」
「詰めすぎると煮ているうちに破れるから、入れるときは少ないくらいでいいのよ」
女性は次のイカをまな板へ載せた。包丁が入ると、米粒が1つ転がる。手早く器へ戻し、客の方へ差し出した。
隣のヴィクトルも食べていた。
匙を止めて切り口を見てから、もう一口。コレットが顔を向けると、彼もこちらを見た。
「朝食を取らずに来て、正解でした」
「まだ、半分以上ありますね」
「ええ。でも、食べられそうです」
その返事に安心して、コレットも次をすくった。自分だけ、朝からよく食べると思われていなくてよかった。
店の裏へ小舟が寄り、女性が立ち上がった。
船上の男から籠を受け取り、足元へ置く。わずかなやり取りで済み、すぐ鍋の前へ戻ってきた。
「前の場所だと、運んでもらうのを待っていたの。今朝は、次の分まで下ごしらえできたわ」
鍋の脇には、まだ煮る前のイカが並んでいた。
客が1人、2人と増えていく。女性は隣の屋台へ声をかけ、空いた桶を貸してもらっていた。返事をした男が、そのまま別の客へ魚を差し出す。
ヴィクトルはその様子を見ていた。記録を出そうとはしなかった。
「冷めますよ」
コレットが言うと、彼は器へ目を戻した。
「あなたも、さっきから船を見ています」
「……近くを通ったので」
ちょうど小さな漁船が離れていくところだった。船尾に座る少年が櫂を引き、岸から父親らしい男が声をかけている。
ヴィクトルもそちらを見た。
「では、見ながら食べましょう」
コレットは頷き、器を持ち直した。
だしを含んだ米をすくい、船が天幕の陰へ消えるまで眺めた。足元には水の音があり、背後では新しい客が注文している。
家で旅行記を読んでいた自分に、教えてあげたかった。
イカ飯は、絵で見るよりずっと大きい。海の上の朝市は、思っていたより賑やかで、食べている間にも、いろいろな船が来る。
器の底に残った米を集めていると、港の鐘が鳴り始めた。
コレットは屋台へ顔を向けた。
いつの間にか、列ができていた。
「本のとおりですね」
ヴィクトルが言った。
「はい。早く来てよかったです」
鐘の音が、海へ広がっていく。女性は鍋へ向かいながら、並んだ客に少し待つよう声をかけた。
食べ終わって器を返すと、彼女が手を止めた。
「どうもありがとうね」
「ごちそうさまでした」
「それもだけど」
女性は、コレットの後ろへ目を向けた。
大鍋の横を、魚の籠を抱えた人が通る。海側の腰掛けでは、子供が匙を握り、母親にイカを小さくしてもらっていた。
「また、ここで店を出せたから」
コレットは振り返り、それから女性へ向き直った。
「私も、ここで食べたかったんです」
「じゃあ、お互いによかったね」
笑って言われ、コレットも笑った。
*
人の増えた通路を抜け、2人は市場の端へ出た。
ヴィクトルは欄干の内側で足を止めた。向こうには、防波堤から見た赤い船が停まっている。
「あの船、まだいましたね」
「昨日、荷を下ろしていましたから。出るのは明日かもしれません」
コレットは船首の金色の鳥を探した。こちらからでは縄に隠れ、翼の端だけが見えた。
「また、あそこから見たいです」
口にすると、ヴィクトルが防波堤の方へ顔を向けた。
「出港するところを?」
「はい。でも、明日は出発ですよね」
「馬車までに見られるか、聞いてみましょう」
自然に返ってきた言葉に、コレットは頷いた。1人で来た町なのに、帰る前の予定を、もう2人で考えている。
欄干から少し離れた場所に、腰掛けがあった。コレットは鞄から紙を出し、旅行記を膝へ置いた。
「忘れないうちに、書いてもいいですか」
「どうぞ」
日付を書き、食べたばかりのイカ飯を思い出す。
『海の上の朝市は、鐘が鳴る前に。イカ飯は端の身が厚く、真ん中はご飯がたっぷり。朝ご飯は食べずに行ってよかった』
そこまで書いて、港へ目を向けた。
『船を見ながら食べられる。よそ見をしていると、少し冷める』
隣でヴィクトルが笑った。
「そこも、書くんですね」
「次に来るとき、覚えておきたいので」
コレットは紙の端を押さえ、乾くのを待った。
市場の入口では、マルタが職人と一緒に渡り板を確かめていた。荷車が通るのを待ち、床の高さを測っている。職人は数字を覗き込むと頷き、工具箱を持ち直した。
ヴィクトルもそちらを見て、立ち上がった。
「確認に行ってきます。ここで待たれますか?」
「はい。書き終わったら、私も伺います」
彼が歩いていく間に、コレットは最後の一行を書き足した。
『食べ終わってから、ゆっくり船を見る時間も取っておくこと』
紙を挟み、旅行記を閉じた。
顔を上げると、ヴィクトルが途中で振り返った。港へ出ていく小舟を指さしている。
コレットは頷いて手を上げ、その舟が赤い船の前を横切るまで、腰掛けから眺めていた。
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