第8話 防波堤で、船を待つ
ヴィクトルの説明は、港の端まで来ても続いていた。
「床を一気に上げると、上にある荷物が動いてしまいます。だから、少しずつ高さを変えるんです」
コレットは振り返った。外市場は屋根の向こうに隠れ、旗だけが見えている。
「あんなに大きいのに、端まで同じように上がるんですね」
「そこが難しいんです。片側へ荷が寄っても傾かないように、それぞれの支柱で――」
曲がり角を抜けたところで、風が吹いた。
コレットは肩掛けを押さえ、思わず足を止めた。
海が広がっていた。
港の中では静かだった水が、ここでは何本もの白い筋を作っている。防波堤の先へ打ち寄せた波が砕け、風に乗った雫が頬へ触れた。舐めるつもりもないのに、唇が少し塩辛い。
「……本当に海なんですね」
朝から何度も見ているのに、そんな言葉が出た。
ヴィクトルも説明を止め、沖へ顔を向けていた。
足元の石は、真ん中だけが乾いている。コレットは手すりの内側へ寄り、その先まで続く道を見た。
「あそこまで行けますか?」
「今日は、途中までにしましょう。先の方は波がかかっています」
近くの柱には、濡れた跡が肩ほどの高さまで残っていた。コレットは頷き、乾いた石を選んで歩いた。
途中に、港へ向いた腰掛けがあった。
座ると、さっきまで歩いていた屋台の天幕が小さく見えた。帆柱の間を鳥が横切り、遠くで鐘が鳴る。市場にいたときは賑やかだった音が、ここでは風の向きによって聞こえたり、消えたりした。
コレットは旅行記を出しかけ、やめた。ページを押さえながら見るより、今は両手で肩掛けを持っていたかった。
「ここへは、いらしたことがあるんですか?」
「いえ。いつも管理所から工房へ行って、そのまま宿へ戻っていたので」
「では、初めてですね」
ヴィクトルは港を見渡した。
「どの桟橋が混むのか、こちらからだとよく分かりますね」
やはり設備のことを見るのだと、コレットは少し笑った。
「今も、お仕事ですか?」
彼がこちらを向いたので、慌てて言い足す。
「いえ、見てはいけないという意味ではなくて。どんなふうに見えるのかと思って」
「……癖ですね」
ヴィクトルは自分でも可笑しくなったように、港へ目を戻した。
「でも、今日は図を描かずに済みそうです」
「よかったです。ここで紙を出したら、飛んでいってしまいそうなので」
風が2人の服を鳴らした。
しばらくして、沖に白い帆が見えた。コレットは目を細めた。朝市のそばで見たものより大きく、帆がいくつも重なっている。
「あの船、ここへ来ますか?」
「港へ向いていますね」
ゆっくり近づくにつれ、白い帆の下に赤い船体が現れた。甲板の上を人が動き、縄が引かれる。膨らんでいた布が少しずつ畳まれていく。
コレットは腰掛けから立った。
船は防波堤の外を回り込み、港の入口へ向きを変えた。思っていたより近い。船首に描かれた金色の鳥まで見えて、手すりを握る指に力が入った。
「大きい……」
甲板の男が、こちらへ片手を上げた。
コレットも手を振り返した。届いたかどうかは分からないが、男はもう一度腕を振り、縄を持って奥へ戻っていった。
隣を見ると、ヴィクトルも船を見送っていた。
「いつも、あのくらい近くを通るんでしょうか」
「どうでしょう。もう1隻、見てみますか」
コレットはすぐ頷いた。
彼も急いで帰るつもりはないらしい。それが嬉しかった。
*
翌日から、外市場では重りを載せた試験が始まった。
コレットが必要とされたのは、最初の確認までだった。復元した回路に異常はなく、あとはマルタたちが潮の高さや荷の位置を変えて確かめていく。
「何かあれば、お宿へ知らせます。今日は町を見ていらして」
そう言われ、コレットは市場の入口で少し迷った。
まだ終わっていないのに、遊びに出かけてよいのだろうか。けれど、そばに立っていても、自分が判断できることはなかった。
マルタはもう計器へ向き直っている。
「では、夕方にまた伺います」
声をかけると、彼女は顔を上げ、行ってらっしゃいと手を振った。
コレットは1人で町へ戻った。
魚を干す店の軒先を抜け、坂の上の広場へ行く。朝市で使う籠を編む人がいて、少し離れた店では、船へ持ち込むパンを大きな棚へ並べていた。
家への土産に貝殻の飾りを選びかけたが、鞄の空きを思い出して小さなものにした。母の分と、自分の分。店を出てから、まだ旅は始まったばかりなのにと、布包みを見て笑った。
歩いているうちに、昼を過ぎた。
もう1本向こうの通りも見たかったが、脚が疲れていた。昨日ならそのまま進んだかもしれない。今日は広場の端でスープを頼み、椅子へ座った。
窓際で器を持っていると、荷車を避けながら通りを横切るヴィクトルが見えた。工房の職人と話し、持っていた紙へ何かを書き込んでいる。
呼ぼうかと思ったが、やめておいた。彼には彼の仕事がある。
代わりに、食べ終えたあと、近くの店でパンを2つ包んでもらった。
夕方、管理所へ寄ると、ヴィクトルは卓で記録を揃えていた。
「町はいかがでしたか?」
「坂の上まで行きました。こちら、お昼がまだでしたら」
紙包みを置くと、彼は意外そうに顔を上げた。
「ありがとうございます。ただ、昼は工房でいただきました」
「あ……そうでしたか」
余計なことをしただろうかと包みへ手を伸ばす前に、彼が椅子を引いた。
「でも、今ならもう1つ食べられそうです。ご一緒にどうですか」
コレットは隣の席へ座った。歩き回ったせいか、自分も少しお腹が空いていた。
包みを開くと、チーズの入った小さなパンが並んでいる。ヴィクトルは手を洗って戻り、記録を濡れない場所へ移した。
「明日の朝、予定はありますか」
パンを半分ほど食べたところで、彼が尋ねた。
「まだ、決めていません」
「今朝、防波堤を通る船の時刻を聞いたんです。明日は早い時間に、大きな帆船が入るそうで」
コレットは彼を見た。
「見に行きませんか。試験の立ち会いまで、時間があります」
「はい。行きたいです」
今度は自分が誘う前に、彼が覚えていてくれた。コレットは残りのパンを食べながら、明日の肩掛けは厚い方にしようと考えた。
翌朝の船は、昨日の赤い船よりも帆が多かった。
港へ入る直前、重なっていた布が次々と畳まれていく。コレットが声を上げると、ヴィクトルも手すりへ近づいた。2人で船の名を読もうとしたが、遠すぎて最後まで分からなかった。
管理所へ戻ったのは、朝の試験が始まる少し前だった。
試験はその日も続き、翌朝までの運転記録と歯車の点検を終えてから、マルタが使用許可の書類を受け取った。
入口で待っていた店の人々が、一斉に顔を上げる。
「明日の朝から、西側へ店を出せます。今日の午後、順番に道具を運んでください」
イカ飯の店の女性が、隣の男の腕を叩いた。
「鍋、出してこなくちゃ」
「あの大きいのか?」
「そうよ。そのために、しまってあったんだから」
コレットは鎖が外されるところを見た。
最初に入った荷車には、畳んだ天幕が載っていた。その後ろを、脚を外した台や棚を抱えた人が続く。空だった床に金槌の音が響き、海側へ向いた腰掛けが運び込まれた。
イカ飯の女性が、通りかかったコレットへ声をかけた。
「明日は、鐘が鳴る前においで」
「はい。朝ご飯は、こちらでいただきます」
女性は笑って、大鍋を置く場所を指示しに戻っていった。
コレットが振り返ると、ヴィクトルがそばにいた。
「何時に出ましょうか」
尋ねると、彼は天幕の張られた角を見た。
「今日より少し、早めに」
コレットは頷いた。明日の朝は、2人とも同じ店へ急ぐことになりそうだった。
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