第10話 高原のページを、二人で
その日の夕方、宿へ父からの手紙が届いた。
食堂の隅で封を切ると、最初に目へ入ったのは、怪我がなくて安心したという一文だった。
『お前の手紙と、ヴィクトル殿の説明を読んだ。知らない構造を戻したのであれば、私が教えてきた《修繕》とは異なる可能性がある』
コレットは続きを指で追った。
『だが、力の名前が違っても、点検や安全確認が要らなくなるわけではない。分からないことは、分かる者に聞くこと。そこは今までどおりだ』
家の工房で、父が部品を指しながら話す姿が浮かんだ。
手紙を送ってから、何度も自分の手を眺めていた。父とは違う力かもしれない。それなら、これまで同じやり方で仕事をしてきたのは、間違いだったのだろうか。
そのことを、父は気にしていないらしい。
『こちらでも、家に残る記録を調べてみる。旅先で何か分かったら、また知らせてほしい』
続いて、ヴィクトルの同行を本人が望むなら異存はないこと、困ったときは遠慮せず相談するようにと書いてあった。
母の追伸には、干し川魚が届いたとある。温泉卵は次の休みに作るつもりで、まずは父に、大きな鍋を空けておいてもらうらしい。
コレットは笑い、もう一度、父の文章を読み返した。
「ご実家からですか?」
食堂へ来たヴィクトルが、卓の脇で足を止めた。
「はい。そちらにも、お返事を送ったと」
「私にも届きました」
彼は向かいの椅子を示し、コレットが頷いてから座った。
「作業の図を見て、気づいたことがあれば知らせてくださるそうです。こちらからも、港の記録をお送りします」
「父、きっと喜びます。知らない設備の図を見るのが好きなので」
言ってから、卓の向こうの人を見た。
ヴィクトルも、少し笑っていた。
「それは、よく分かります」
コレットは手紙を封筒へ戻した。父にこの人のことを説明するなら、その一言も書こうと思った。
鞄から旅行記を取り出し、地図の上へ広げる。
「次は、ここへ行きたいんです」
高原の町アルヴェル。
緑の丘に牛が描かれ、その向こうには、石造りの庭園が空へ張り出していた。下に支柱はなく、細い橋だけが丘と庭園をつないでいる。
ヴィクトルの手が、地図の上で止まった。
「空中庭園ですか」
「ご存じなんですね」
「ええ。学生の頃に、構造の記録を読みました」
彼は旅行記へ顔を寄せた。コレットがページの端を押さえると、挿絵を隠さないよう、少し指を引く。
「この角度の絵は、初めて見ます。下からの記録が多いので」
「ご先祖は、向こうの丘から描いたようです」
挿絵の下には、短い文章があった。
『東の回廊へ渡れなかったので、庭園を支える設備を修繕した。翌朝は谷一面に雲が溜まり、窓の下に海ができたようだった』
コレットは、その隣の小さな絵を指した。
「それから、こちらも」
丸い揚げ物を割った絵だった。中から白いものが伸び、その脇に杯が描かれている。
『丘を歩いたあとの、冷たいミルクと揚げたてのコロッケがよい。チーズが熱いので、最初のひと口は気をつけること』
「チーズ入りなんです。昔から、これを食べてみたくて」
ヴィクトルは絵を見てから、庭園へ視線を戻した。
「庭園と、こちらなら、どちらを先に?」
真面目に尋ねられ、コレットは迷った。
「着く時間にもよります。お昼を過ぎていたら、コロッケから……でも、庭園が見えたら、先に行きたくなるかもしれません」
彼は地図を引き寄せた。
「では、宿を取る場所も考えましょう。どちらにも歩いて行けるところがよさそうですね」
翌朝、出発前に管理所へ寄った。
マルタから渡された復旧記録には、工房の職人たちと並んで、コレットの名前も記されていた。西側市場が通常どおり使えたこと、荷の受け渡しにかかる時間が短くなったことも、数字とともに添えられている。
「東側は、急がず進めます。西で使った歯車を調べて、次へ生かしますから」
窓の外では、屋台へ向かう人々が渡り板を越えていた。
マルタは記録の控えを揃え、コレットへ渡した。
「また、食べにいらしてください。次はもっと店が増えていると思います」
「はい。今度は、ほかのお店も見たいです」
名残惜しくて市場を振り返ったが、馬車の時刻が近かった。イカ飯の店の女性へ挨拶を済ませ、2人は広場へ向かった。
港を離れる道で、最後に海が見えた。
コレットは窓へ顔を向けた。赤い船は、もう停まっていない。朝早く出たのだと聞いていた。
見送りたかったが、寝過ごしたわけではない。宿へ知らせが来た時刻には、まだ外が暗かったのだ。
「帰る途中で、どこかへ寄るんでしょうか」
「いくつか港を回って、南へ向かうそうです」
ヴィクトルの返事を聞きながら、コレットは建物の隙間に残る海を見送った。
やがて水面が隠れ、窓の外は畑になった。
*
高原までは、途中の町で1泊する。
揺れの少ない道へ出ると、ヴィクトルが鞄から紙を取り出した。庭園と、それを囲む丘が描かれている。
「昨夜、簡単に写しておきました」
「庭園の図ですか?」
「ええ。見てから行くと、どこが浮いているのか分かりやすいかと思って」
コレットは隣に置いていた鞄を膝へ移し、紙を広げる場所を空けた。
彼は向かいから、庭園の底を指した。
「橋は人が渡るためのもので、庭園全体を支えているわけではありません。こちらの設備が――」
馬車が揺れ、指先がずれた。
コレットは紙の下側を押さえた。ヴィクトルが上を持つと、ようやく図が落ち着いた。
「ありがとうございます。少し、近づけますね」
膝の上へ傾けられた図を、2人で覗いた。
彼の説明は、工房で聞いた市場の話より少し速かった。底にある装置の配置、重さを受ける仕組み。途中で専門的な言葉が出ると、コレットの顔を見て言い換えてくれる。
「つまり、この庭園の下には、ずっと何もないんですか?」
「はい。記録どおりなら、谷の側へ大きく張り出しています」
「歩いていて、下は見えるんでしょうか」
「外周には欄干があります。窓のある回廊も」
そこで彼は、紙を持つ手を少し下げた。
「すみません。着く前に、全部話してしまいそうですね」
「私、まだ聞きたいです」
コレットは図の端を押さえ直した。
「その窓から、雲が見えるんですよね。庭園は、揺れたりしないんでしょうか」
ヴィクトルは再び図へ目を向けた。
「それを抑える仕組みもあるとされています。ただ、動いているところを見たことがなくて」
「ヴィクトルさんも、初めてなんですね」
「現地へ行くのは」
彼は窓の外へ目を向けた。まだ平らな畑が続き、その先に低い丘が見えている。
「保全局に入った頃、調査に加わりたいと思っていた場所なんです」
「それなら、ゆっくり見たいですね」
自然に口にすると、彼がこちらを見た。
「コレットさんのご予定もありますから」
「庭園は私も見たいです。コロッケのお店が閉まる前なら、大丈夫です」
ヴィクトルが笑った。今度は遠慮せず、紙を広げ直した。
コレットは次に指された場所へ目を落とした。彼の話を聞くうち、挿絵では分からなかった庭園の大きさが、少しずつ形になっていく。
途中の町へ着く頃には、紙の片隅に質問が増えていた。コレットが尋ねたことを、現地で確かめられるよう書き留めてくれたのだ。
宿で荷物を受け取りながら、彼女はその紙を覗いた。
「こんなに、聞いていたんですね」
「私も、確かめたいことが増えました」
ヴィクトルは丁寧に畳み、旅行記へ挟める大きさにして渡してくれた。
部屋へ上がったコレットは、高原のページを開いた。
庭園の絵とコロッケ。その間に、今日の紙を挟む。
下から見上げたら、どのくらい大きいのだろう。窓から本当に雲が見えるだろうか。
考えているうちに、庭園を見つけたとき、ヴィクトルがどんな顔をするのかも気になった。
明日は、彼より先に見つけられるだろうか。
コレットは窓際へ本を置き、まだ明るい道の先を眺めた。
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