第11話 揚げたてのコロッケと、空の庭園
最初に見つけたのは、コレットだった。
丘を回り込んだとき、遠くの木立の上に、石造りの縁が見えた。その下には空がある。
「あそこ……!」
窓を指すと、向かいのヴィクトルが顔を上げた。
庭園は、丘から伸びた橋の先に浮かんでいた。縁から蔓が垂れ、木々が風に揺れている。下を支える柱は、どこにも見えなかった。
ヴィクトルが窓へ身を寄せた。
「本当に、あの厚さで……」
呟いたきり、黙ってしまった。
コレットも庭園へ目を戻した。挿絵を眺めていたときには、木を植えた石の台を思い浮かべていた。実物には大きな樹も、塔の屋根もある。あの上を歩けるのだ。
馬車が曲がると、庭園は隠れた。
ヴィクトルが反対の窓から探そうとして、コレットと顔を見合わせた。
「町へ着けば、もっとよく見えますね」
彼が言うので、コレットは頷いた。自分も今、同じことを考えていた。
*
アルヴェルの広場には、牛の鈴の音が届いていた。
町のすぐ外まで牧草地が続き、荷車には大きなミルクの壺が積まれている。通りの店先では、丸いチーズを切り分ける女性が客と話していた。
宿へ荷物を置いたコレットは、窓から庭園の場所を確かめた。
屋根越しに、木々の先が見える。
すぐ出かけたくなったが、昼食には遅い時刻だった。朝、馬車へ乗る前に食べたパンだけでは、もうお腹が空いている。
階下へ降りると、ヴィクトルも待っていた。
「先に、食事にしませんか」
「はい。私も、そうしようと思っていました」
答えるなり、お腹が鳴った。
コレットは鞄を持ち直した。彼は聞こえなかったように戸を開けてくれたが、少しだけ口元が緩んでいた。
乳製品の店は、広場の角にあった。
開いた窓から、揚げ物の匂いがする。近づくと、前掛け姿の女性が網を持ち上げたところだった。
油を切った丸いコロッケが、網の上で小さく音を立てている。
「今、揚がったところだよ」
コレットは旅行記を開き、挿絵を見せた。
「こちらで、チーズ入りのものをいただけますか?」
「うちのは全部入ってるよ。ミルクも飲む?」
「冷たいものを、お願いします」
女性は木の皿へコロッケを載せ、厚いガラスの杯へミルクを注いだ。窓の下にある細い卓が空いていて、2人は並んで座った。
コロッケは、握りこぶしより少し小さいくらいだった。表面に細かな衣が立ち、皿へ置かれても、まだ油の弾ける音がする。
コレットはフォークを差し入れた。
さくりと衣が割れ、中から湯気が上がった。淡い黄色のじゃがいもの間に、白いチーズが溶けている。半分を離そうとすると、細く伸びて、なかなか切れなかった。
「熱いよ。真ん中は特にね」
言われて、慌てて口へ運ぶのをやめた。
小さく分けて、息を吹きかける。それでも最初のひと口は熱かった。衣が軽く砕け、その下のじゃがいもがほくほくと崩れる。チーズの塩気が混ざり、飲み込んだあとまで香ばしさが残った。
すぐにミルクへ手を伸ばした。
冷たい杯が、指に気持ちよかった。ひと口飲むと、なめらかな甘さが口の中へ広がり、熱かった舌が落ち着く。
コレットは皿と杯を見比べた。
「……これ、一緒に頼んでよかったです」
隣でヴィクトルもミルクを飲んでいた。
「ええ。私も、少し急ぎました」
彼のコロッケも、真ん中が大きく割れている。コレットは笑い、今度は端の薄いところから取った。
店の女性が、次の分を油へ落とした。細かな泡が広がり、通りを歩いていた子供が匂いにつられたように近づいてくる。
「庭園へ行くのかい?」
「はい。このあとに」
「朝も上がるなら、帰りに寄っておいで。温かいミルクを出せるから」
旅行記にも、雲を見た帰りの温かい一杯が書かれていた。
コレットは礼を言い、残りのコロッケを食べた。最後の端まで衣が香ばしく、皿へ落ちた欠片もフォークで集めた。
*
庭園へ続く坂は、町から見るより長かった。
途中で牛のいる牧草地が近づき、首の鈴が、草を引きちぎるたび鳴った。コレットは子牛を見つけて足を止めたが、今日はそのまま柵へ寄らなかった。
隣のヴィクトルは、もう庭園の底を見上げている。
「あの丸い部分ですか? 図に描いてくださったのは」
「ええ。あそこに、重さを支える装置があるはずです」
彼は立ち止まり、昨日の図を出しかけた。
コレットも鞄へ手を伸ばしたが、2人とも実物が目の前にあることに気づいた。
「先に、近くへ行きましょうか」
コレットが言うと、ヴィクトルは頷いて紙をしまった。
入口で切符を買い、橋へ進む。
数歩渡ったところで、欄干の下に町の屋根が見えた。コレットは思わず歩幅を狭めた。橋は揺れない。それでも、足元のずっと下に風が通っていると思うと、真ん中を歩きたくなった。
先を歩いていたヴィクトルが、振り返った。
「高いところは、苦手ですか」
「ここまで高い橋は、初めてなので」
平気なふりをしようと思ったが、声が少し硬かった。
ヴィクトルは引き返し、隣へ並んだ。
「向こうの門を見て歩きましょう。石畳も、そこまで続いています」
コレットは言われたとおり、庭園の入口を見た。
彼が先へ急がずにいるので、自分もゆっくり歩けた。渡り終えたときには、ついていた息を聞かれてしまった。
「帰りも、ここですよね」
「ええ。帰りは、もう少し慣れているといいですね」
その言い方が可笑しくて、コレットは笑った。怖さまで消えたわけではなかったが、花壇の向こうが気になり始めた。
庭園の中には、細い水音があった。
噴水から流れた水が石の溝を通り、白い花の間へ消えていく。木々の隙間に町の鐘楼が見えた。さっきまで見上げていた屋根を、今は上から眺めている。
ヴィクトルは噴水の前で足を止めた。
縁を回り、流れの先を見て、庭園の下側を思い出すように空へ目を向ける。
「何か、気になるところが?」
「水を上げる管が見えなかったので。中で循環させているんだと思いますが、どこを通しているのか」
彼は近くの案内板を読み始めた。
コレットも隣へ立ったが、書かれていることの半分ほどしか分からなかった。それより、小さな文字まで追う彼の顔の方が目に入った。
いつもの丁寧な表情より、少し若く見えた。
彼が読み終えるまで待ち、それからコレットは奥を指した。
「あの塔も、見ていきませんか」
「いいんですか? 東回廊は、反対ですが」
「まだ時間はありますから」
ヴィクトルは塔へ顔を向けた。すぐ歩き出しかけ、コレットを待って歩調を緩める。
その様子を見て、誘ってよかったと思った。
塔の足元には、古い装置の説明があった。ヴィクトルが屈んで読む間、コレットは近くの腰掛けで休んだ。足を休めながら、花越しに谷を眺める。先へ先へと歩くだけでなく、こうして座るのも悪くなかった。
東回廊へ着いたのは、そのあとだった。
丸い窓が連なる建物へ、木の柵が渡されている。
『東回廊 閉鎖中』
コレットは鞄から旅行記を出した。絵では、あの窓の下いっぱいに雲が広がっていた。
近くで花を手入れしていた男性が、顔を上げる。
「そちらは、今は入れないんです」
「支える設備でしょうか。本に、昔の修繕のことがあって」
見せると、男性は鋏をしまい、絵を覗き込んだ。
「随分古いものですね。今は、横に休憩所も増えているでしょう」
窓の脇に、絵にはない屋根があった。大きな石の花壇も並んでいる。
「中核が止まったのが18年前です。補強してありますが、人を入れることはできなくて」
ヴィクトルが、回廊と庭園をつなぐ部分へ目を向けた。
「増築の記録は、残っていますか」
「ええ。設備士が管理棟にいます。お尋ねになりますか?」
コレットは柵の向こうを見た。
昔と同じ形ではない。それなら、元へ戻すだけでよいのだろうか。
隣を見ると、ヴィクトルもこちらを向いていた。
「お話を聞いてみたいです」
「では、伺いましょう」
彼は頷き、旅行記をしまうコレットを待った。
管理棟へ曲がる道で、もう一度、丸い窓を振り返った。今は青い空が映っている。あそこへ並んで立ったら、谷の雲はどこまで見えるのだろう。
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