第6話 朝市は、海の上に
建物の間に、青いものが見えた。
コレットは馬車の窓へ顔を寄せた。次の家に隠れ、通りを抜けたところで、また現れる。今度は遠くまで続いていた。
「海ですか?」
向かいのヴィクトルが頷く。
岸へ近づくにつれ、水面が大きく開けた。夕日を受けた波が幾重にも光り、その向こうには何もなかった。山も、森も、対岸の家も見えない。
「本当に、向こう岸がないんですね」
帆を畳んだ船が並び、細い柱の先で旗がはためいていた。白い鳥が低く横切ると、どこかで甲高い声が上がった。
コレットは窓から目を離せなかった。
宿へ着いても、荷物を置けばすぐ港へ行けると思っていた。けれど、寝台へ腰を下ろした途端、立ち上がるのが億劫になった。馬車が揺れるたび踏ん張っていた脚も、腰も重い。
窓だけ開けると、ひんやりした風が入ってきた。川辺とは違う匂いがする。潮の匂いだろうか。もう一度吸い込み、椅子へ明日の服を掛けた。
港は朝に行こう。旅行記にも、鐘が鳴る前と書いてある。
夕食の席でそう話すと、ヴィクトルは待ち合わせの時刻を確かめた。
「私も、それまでに管理所へ書類を預けておきます」
「朝市では、お仕事は?」
「担当者との面会は、そのあとです。まず、食事をしましょう」
コレットは頷いた。宿の夕食もおいしかったが、明日の朝は、お腹を空かせて出かけるつもりだった。
*
翌朝、通りにはまだ日が差していなかった。
宿を出たところを、空の籠を積んだ荷車が通り過ぎる。坂の下から車輪の音が重なり、店の戸を開ける音がした。コレットは肩掛けを寄せ、ヴィクトルの隣を歩いた。
港へ近づくと、焼いた魚の匂いがした。
建物の間を抜けた途端、目の前が明るくなる。
板張りの通路が海へ伸び、その両側に屋台が並んでいた。天幕の下には魚の籠や野菜の箱が積まれ、店のすぐ脇に小舟がつながれている。水面の光が天幕の裏へ揺れ、足元から波の音がした。
「本当に、海の上なんですね」
コレットは板の隙間を覗いた。暗い水の中を、細い魚が群れで過ぎていく。もう少し見ようと身をかがめると、後ろから車輪の音が近づいた。
慌てて脇へ寄る。ヴィクトルも鞄を引き、桶を載せた台車へ道を空けた。
「すみません」
「いいよ、通るよ」
男は片手を上げ、その先でも客に声をかけながら進んだ。
コレットは旅行記を開いた。
『イカ飯の店は、港の鐘楼から海へ向かい、赤い旗を左へ。外市場の角で、大鍋を探すこと』
鐘楼はあった。赤い旗も、潮風にはためいている。
けれど、その先には鎖が渡されていた。
広い板張りの市場が、海を囲むように伸びている。屋台を置く場所も、小舟をつなぐ金具もあったが、人はいない。端を海鳥が歩いていた。
「向こうは、まだ開いていないんですか?」
ヴィクトルは鎖の先を見た。
「外市場は閉鎖されています。床を支える設備が止まっていて」
出発前に読んだ文章を思い出した。ベアトリスも、市場の床が傾いていて修繕したと書いていた。
あれから400年経っている。同じところが、ずっと動いているとは限らないのだ。
「お店も、なくなったんでしょうか」
「移った店もあります。イカ飯なら――」
「探してるの、それかい?」
近くの屋台から声がかかった。
大鍋の前に、前掛け姿の女性が立っている。コレットが頷くと、女性は蓋を持ち上げた。
湯気の中に、ふっくらしたイカが並んでいた。
1杯をまな板へ載せ、包丁を入れる。切り口から、薄い褐色の米が現れた。粒の間で煮汁が光り、魚のだしの匂いが広がる。
「これです……!」
思わず近づくと、女性が笑った。
「1皿でいい? 朝なら、小ぶりなのを選ぶよ」
コレットは頼みかけて、鎖の向こうを見た。
旅行記の挿絵では、腰掛けのすぐ横に船がある。器を持つ人の後ろを、帆を畳んだ船が通っていた。
「あちらで食べる場所も、あったんですか?」
「うちも、前はあの角にいたのよ。海へ向けて腰掛けを出してね」
女性が示したのは、絵とよく似た場所だった。
「今は、入れないんですね」
「ええ。8年になるわ。ここでも海は見えるけど、荷車の道を空けないといけないから、腰掛けを減らしているの」
店の脇には、2人掛けほどの細い台があった。その前を、魚の箱を抱えた人が通る。
コレットは鍋へ目を戻した。今すぐ食べたい。けれど、最初のひと口は、あの絵と同じように船を眺めながら味わいたかった。
「お昼も、開いていらっしゃいますか?」
「昼前まではね。売り切れたら終わりだけど」
「少し考えてから、また来てもいいですか」
「もちろん。見て回っておいで」
蓋が閉まると、名残惜しかった。歩き出してからもう一度振り返り、ヴィクトルと目が合った。
「食べていかなくて、よかったんですか?」
「食べたいです。でも、外市場のお話を聞いてからにしようかと」
彼は閉じた通路へ目を向けた。
「直せるかどうかは、まだ分かりません」
「はい。もし難しければ、こちらでいただきます」
全部思いどおりにはいかない。それは温泉へ着いた日にも分かった。ただ、話を聞ける人がいるなら、先に聞いてみたかった。
通路を戻ると、小さなパン屋が店を開けていた。コレットは丸いパンにチーズを挟んでもらい、ヴィクトルと岸壁の腰掛けへ座った。
船の舳先が、すぐ下で揺れている。縄が張っては緩み、木の縁へ水が当たった。
パンを食べ終えた頃、男が小舟から大きな籠を持ち上げた。岸の男へ渡しかけ、合わずに下ろす。小舟の方が、ずいぶん低かった。
「潮が引いているんですね」
ヴィクトルが言った。
「外市場の床は、潮に合わせて高さを変える仕組みなんです。船との段差が大きくならないように」
コレットは、さっき見た金具を思い出した。
「だから、お店のすぐ横へ荷物を渡せたんですか」
「ええ。今は岸で下ろして、こちらまで運んでいます」
また荷車の音がした。狭い通路で止まり、先から来る台車が抜けるのを待っている。
ヴィクトルはその様子を見届けてから、沖へ顔を向けた。
「記録では読んでいましたが……朝は、これほど混むんですね」
仕事で何度も来ていても、知らない港があるらしい。コレットは少しだけ、彼と同じ場所から見ている気がした。
沖から、白い帆の船が近づいてきた。
コレットは残ったパン屑を紙へ包み、その船が港へ入るまで眺めていた。ヴィクトルも立ち上がらず、同じ方を見ていた。
*
港の管理所では、日に焼けた女性が待っていた。
「設備担当のマルタです。外市場については、こちらで」
ヴィクトルが身分証を示すと、彼女は卓へ図面を広げた。コレットにも椅子を勧め、棚から布包みを取り出す。
「温泉の復旧については、局の連絡で伺いました。ただ、うちは回路だけでは済まないんです」
布が開かれた。
載っていたのは、厚い歯車の一部だった。割れた縁が、不揃いに欠けている。
「床を動かす歯車です。欠けた分は海へ落ちて、見つかりませんでした」
コレットは許可を得て、破片へ触れた。
ただ、冷たい金属の感触があった。源泉の制御盤へ触れたときのような、先へ続く感覚はない。
「これだけでは、私には……」
「ええ。まず、現物を作らないと」
マルタは別の紙を引き寄せた。
歯車の図の脇に、材質や厚みを変えた記録が、幾つも並んでいた。
「港の工房で、試作を続けているんです」
ヴィクトルが記録へ身を寄せた。コレットも隣から覗き込む。
図面の歯車には、何度も寸法を書き直した跡があった。
「その工房へ、伺えますか?」
尋ねると、マルタは布を畳む手を止めた。
「ええ。見てもらいたいものがあるんです」
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