第5話 次のページは、海の朝市
朝食のあと、コレットは宿の小部屋で、父への手紙を読み返していた。
昨夜は湯の温かさを思い出すたび、また入りたくなった。けれど、今朝になれば、もう少し眠っていたかった。帰ったら母に、旅先では朝から元気でいられるとは限らないと話そう。
戸を叩く音がして、ヴィクトルが入ってきた。腕には薄い本と、作業の図を抱えている。
「お待たせしました。今朝も、設備は正常でした」
コレットはほっとして手紙を畳んだ。
向かいへ座った彼は、卓へ復旧前後の図を並べた。
「昨日までの作業を、古い記述と照合しました。《復元》という能力をご存じですか」
「名前だけなら。父から、昔はそういう力を持つ人もいたと」
「現在、確認されている使い手はいません。残された記録が正確かどうかも、議論されています」
ヴィクトルは本を開いた。古い文章の脇に、読みやすい字で注釈が添えられている。
「通常の《修繕》では、自分が理解している構造へ戻します。ところが《復元》は、対象に残る設計情報を読み、本来の構造へ戻すとされています。本人が知らない回路でも」
コレットは、卓の図へ目を落とした。
盤へ触れたときは分かった経路が、今はただの細い線に見える。どこにつながっているかは覚えているが、なぜそこを通る必要があるのかは説明できない。
「私が、それかもしれないんですね」
「はい。今回の作業は、その特徴と一致しています」
彼は曖昧に笑ったりせず、コレットを見て答えた。
「断定には、ほかの設備での確認も必要です。ただ、可能性を知らないまま、次の作業をお願いするわけにはいきません」
コレットは膝の上で手を重ねた。
父より早く直せて、得意になったことはある。そのたびに、点検まで終わらせてから喜べと言われた。父と違う力かもしれないとは、一度も考えなかった。
「それが分かったら……私は、どうなるんでしょう」
口にしてから、何を尋ねたいのか少し分かった。
「家へ帰って、今までどおり仕事はできますか。旅行も、行きたいところへ行っていいんですか?」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
「修復を頼みたい人は、増えると思います。私の上司も、詳しい記録を求めるでしょう。ただ、今ここで、あなたの仕事や旅程が決まることはありません」
彼は開いた本を脇へ寄せた。
「今後どう扱うかは、上司とも協議が必要です。分からないことまで、大丈夫とは言えません。ですが、あなたの承諾を得ずに、作業を引き受けることはしません」
コレットは頷いた。全部安心したわけではなかったが、尋ねたことを軽く扱われなかったのがありがたかった。
「父にも、読んでもらいたいです」
「説明と作業記録を用意しました。こちらを一緒に送ってください」
封をしていない手紙を差し出され、目を通す。自分が話した感覚も、そのまま記されていた。
「能力の詳細は、信頼する上司へ親展で報告します。マルセルさんにも、作業の詳しい様子を広めないようお願いしました」
「お風呂が直ったことは、皆さんに話しても?」
「もちろんです。それは、町の方々にとっても大切な知らせですから」
そこまで秘密にならなくてよかった。女将にまで言葉を選ぶのは、寂しかった。
ヴィクトルはコレットが手紙を収めるのを待ち、続けた。
「もう1つ、ご相談があります。次は、どちらへ?」
「港町のリュメールです。海上の朝市へ行きたくて」
旅行記を開くと、桟橋に天幕が並ぶ絵が現れた。
『市場の床が傾いていたので、調整設備を修繕した。翌朝は店が戻り、焼き魚の煙で鐘楼が霞んだ』
その下には、大鍋と、米を詰めたイカの絵がある。
『イカ飯は、湯気の立つうちに食べること。港の鐘が鳴ってから行くと、よい店には列ができる』
「私も、次の巡回先がリュメールなんです」
「そうなんですか?」
「ええ。そこまでは、同じ馬車でご一緒してもよろしいでしょうか。港へ着いたら、あなたの希望する旅程に合わせて同行できるよう、許可を求めたいと思っています」
心強い申し出だった。乗り継ぎも、初めての港も、1人では不安がある。
けれど、コレットはすぐ頷かず、ページの端を押さえた。
「設備を調べるために、行き先が変わったりしますか?」
「お願いする場合は、ご相談します」
「私、朝市へは早く行きたいんです。お店も、ゆっくり見たいですし」
話しながら、少し子供っぽく聞こえないか気になった。大切な調査の話をしている人に、朝ご飯の希望を伝えている。
ヴィクトルはイカの絵を見た。
「鐘が鳴る前ですね」
「はい」
「では、その時間は空けておきましょう。仕事で別行動が必要なときは、前もってお伝えします」
「それなら……お願いします」
返事をすると、ようやく気持ちが軽くなった。
行きたい場所を、先に言ってもよかったのだ。
*
出発前、女将が小さな包みを渡してくれた。
「エルザから。干し川魚よ。お母様と卵を作ってみてね」
「ありがとうございます。だしの取り方、忘れないように書きました」
「またいらっしゃい。今度は着いた日に入れるから」
コレットは包みを鞄へ収めた。父への手紙は、教えてもらった郵便所へ預けてある。家へ届くまでに、自分は海を見ているのだろうか。
石橋のたもとで、ヴィクトルが足を止めた。
「少し、よろしいですか」
視線の先には、焼き菓子の屋台があった。鉄板の上で丸い生地が返され、主人が表面へ蜜を塗っている。
「気になっていたんですが、いつも開く前に通り過ぎてしまって」
コレットも屋台を見た。昨日までは温泉卵のことで頭がいっぱいだったが、甘い匂いには覚えがある。
「馬車まで、時間はありますか?」
「はい。確認してきました」
それなら、と2人で並んだ。紙包みを受け取ると、縁はまだ熱かった。
コレットが少し冷ましている間に、ヴィクトルはひと口食べた。蜜のついた端を見て、もう一度齧る。
「買えてよかったですね」
「ええ。次も、帰りにと思っていたら食べ損ねるところでした」
真面目な顔で言うので、コレットは笑ってしまった。自分も今食べるか迷っていたことは、黙っておいた。
馬車へ乗ると、向かいの席にヴィクトルが座った。
窓の外では、浴場のある辺りから白い湯気が上っている。コレットは町が隠れるまで眺め、それから旅行記を開いた。
「リュメールには、何度も?」
「仕事では。ただ、朝市で食事をしたことはありません」
「では、イカ飯も初めてですか」
「ええ」
コレットは本を2人の間へ少しずらした。
「ご先祖の話だと、中の米まで魚のだしを吸っているそうです」
ヴィクトルが挿絵を覗き込んだ。つい先ほどまで能力の説明をしていた人と、今は朝ご飯の話をしている。それが少し不思議で、気楽だった。
「海のすぐそばで、食べられるでしょうか」
「店の場所を聞いてみましょう」
馬車が石橋を渡った。
次のページの町へ向かう道には、話し相手がいた。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!
感想も大歓迎です。執筆の励みになります!




