第4話 お湯は熱め。温泉卵は2つ
夕方、浴場の入口には、新しい札が下がっていた。
『山の露天風呂 本日再開』
コレットは文字を読み、戸の向こうへ目を向けた。履物が何足も並び、奥から笑い声が聞こえている。昼まで自分たちしかいなかった建物に、人が戻っていた。
「こちらよ」
脱衣所で、宿の女将が手を振った。
コレットも支度を済ませ、髪をまとめた。戸を開けると、冷たい空気が肌へ触れる。その先で、白い湯気が雪山を隠していた。
桶で湯をすくい、足へかける。思ったより熱くて、息が漏れた。
「ゆっくりね。端から入るといいわ」
教わった場所で片足ずつ沈め、岩へ手をついて腰を下ろす。湯が背中を包んだところで、思わず肩が落ちた。
「……ああ」
声が出てから、少し恥ずかしくなった。隣の女将は笑い、自分も長く息を吐いている。
「そうなるでしょう」
コレットは頷き、脚を伸ばした。石段で張っていたふくらはぎが、湯の中でほぐれていく。
肩までは熱いくらいなのに、頬へ当たる風は冷たかった。
湯気が流れると、山が現れた。高い峰の雪が夕日を受け、淡く桃色に染まっている。岩の縁に腕を置けば、ちょうど目の前に収まった。
旅行記に描かれていた眺めだった。
家で挿絵を見ていたときは、風の冷たさも、湯の重さも知らなかった。今は、濡れた肩を少し出すだけで寒い。慌てて沈み直すと、それさえ気持ちがよかった。
「本当に、来られました」
小さく呟くと、女将がこちらを見た。
「ずっと来たかったの?」
「子供の頃から。このお風呂の絵が好きで、母に何度も読んでもらっていたんです」
「そうだったの」
女将は山へ顔を戻した。
「また入れるようになって、よかったわねえ」
離れたところでは、年配の女性が浴槽の縁を撫でていた。昔はもっと広かった気がすると言うと、連れが「あんたが小さかったんでしょう」と笑った。
コレットもつられて笑った。
湯口から絶えず湯が落ち、その向こうで人々が昔の話をしている。自分が帰ったあとも、ここへ来るのだろう。
もう少しだけと思って山を眺めていたら、女将に肩をつつかれた。
「一度、上がりましょうか。頬が真っ赤よ」
名残惜しくて、コレットはもう一度だけ峰を見た。
*
髪を拭き、厚い肩掛けを羽織って外へ出ると、山風が火照った頬を冷やした。
湯壺のそばでエルザが籠を引き上げている。卵が湯気の中から現れ、コレットはそちらへ足を向けた。
「ちょうどいいところ。座って待っていてね」
腰掛けへ座ると、男湯の方からヴィクトルが来た。上着を腕に掛け、黒髪の先がまだ少し湿っていた。
「山は見えましたか?」
「はい。絵と同じ場所に座れました」
彼は隣へ座り、浴場を振り返った。
「私も、あれほどよく見えるとは思いませんでした。立って見たときより、山が近く感じますね」
「そうなんです。ずっと見ていたら、上がった方がいいと言われてしまって」
「私もです」
意外で顔を向けると、彼は少し笑った。
「マルセルさんに。話を聞いているうちに、長くなりました」
コレットは笑った。作業中には何度も時刻を確かめていた人も、風呂ではそうなるらしい。
エルザが盆を運んできた。
小鉢に、白い卵が丸く収まっている。透き通っただしの中で、表面がふるふると揺れた。
「干し川魚のだしよ。昔と同じように作ってみたの」
コレットは小鉢を受け取り、匙を入れた。
白身の下から、濃い色の黄身が現れる。そっと押すと膜が破れ、金色の中身がゆっくりだしへ広がった。
少しずつ混ざってしまうのが惜しくて、急いですくった。
白身は口の中で柔らかくほどけた。温かな黄身が舌を包み、魚のだしの塩気が重なる。飲み込むと、卵の甘さが残った。
コレットは小鉢を見下ろし、今度はだしを多めにすくった。
「おいしいです」
エルザがほっと息をついた。
「よかった。しばらく作っていなかったからね」
「これ、家でも同じようにできますか?」
「卵の火加減が少し難しいけれど。だしの取り方なら、女将さんも知っているわよ」
母に話したいことが、また増えた。
隣のヴィクトルも、匙で黄身を崩していた。ひと口食べて頷き、もうひと口食べる。何も言わないので気に入らなかったのかと思ったが、顔を上げるとエルザへ尋ねた。
「もう1つ、お願いできますか」
コレットも空になりかけた鉢を見た。
「私も、いただきたいです」
頼んでから顔を見合わせ、笑ってしまった。
「ご先祖が、もう1つ頼めばよかったと書いているんです」
「では、今日は心残りなく帰れますね」
「はい。よく分かりました。1つでは、少し足りないです」
新しい鉢が来るまで、コレットは残っただしをすくった。山風を受けながら、温かい卵を食べる。部屋で同じものを出されても、今日とは違う味に感じるかもしれない。
2つ目は、黄身を少しずつ崩して食べた。
最後のひと匙まで味わって顔を上げると、坂道を上がってくる人が見えた。マルセルが入口で迎え、今ならまだ空いていると中へ通している。
「明日も、入れるんですね」
コレットが言うと、ヴィクトルもそちらを見た。
「ええ。これからは、動かしながら手入れできます」
彼は少し考えてから続けた。
「あなたが来なければ、今日も、どこにつながるか分からない線を調べていました」
「私も、あの線が湯を送る指示を出すなんて、教わるまで知りませんでした」
コレットは浴場の屋根を見た。
「直せてよかったです。明日、町を出たあとも、皆さんはここへ来られるんですものね」
ヴィクトルは頷いた。そのあと、コレットの空の小鉢へ目を落とす。
「ご自分も入れましたし」
「それも、とても嬉しいです」
素直な返事に、彼の口元が緩んだ。
*
宿へ戻ると、女将が奥の小部屋を貸してくれた。ヴィクトルから作業の記録と報酬の説明を受け、コレットは書類へ目を通した。
金額を見て、思わず読み直す。
「この額で、合っていますか?」
「はい。長期にわたり復旧できなかった設備なので、特別修繕の規定が適用されます。マルセルさんたちの作業費は別です」
旅費に余裕ができるのはありがたかった。けれど、署名の前に、作業者の欄をもう一度見た。自分の名前が、父の名前を添えずに記されている。
控えを受け取り、折れないよう鞄へ収めた。
「父へ送る手紙に、写してもいいですか」
「もちろんです。作業の図もお渡しします。それと、能力についてお話ししたいことがあります。明日の朝、お時間はありますか」
「はい。馬車は昼前ですから」
改まった声に少し緊張したが、聞いておきたかった。知らない構造が分かった理由を、コレット自身も考えていた。
部屋へ戻ってから、父への手紙を書いた。湯が戻ったことと、見たことのない盤を直せたこと。詳しい話は、明日ヴィクトルから聞いて伝えると添えた。
母へは、露天風呂の眺めと卵のことを書いた。
そのあとで旅行記を開き、新しい紙へ日付を入れた。
『雪山が綺麗だった。お湯は熱め。長く見ていると、上がりそびれる』
少し迷って、その下へ続ける。
『温泉卵がおいしい。干し川魚のだしで食べる。2つ食べた』
紙を挟む前に、向かいのページを見た。ベアトリスが描いた小鉢の横へ、自分の記録が並ぶ。
次に家でこの本を開くときは、湯の温かさも思い出せる。
一方、ヴィクトルは別室で、親展の報告書を書いていた。
20年間復旧できなかった源泉設備が再稼働した。作業者はコレット・ベルナール。図面を知らず、外から見えない経路を特定したこと。異なる2つの区画で、同様の作業を確認したこと。
事実を書き並べ、技術書の記述と照合する。
《復元》の可能性は高い。だが、その名前を広める前に、本人へ説明しなければならなかった。
筆を置くと、開いた窓から風が入った。遠く、浴場へ続く道に灯りが見える。
明日の点検では、故障箇所を探すだけでなく、湯を送り続ける設備を確かめられる。
ヴィクトルは報告の最後へ、再開した浴場に町民が戻ったことを書き加えた。
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