↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ご先祖の旅行記を辿っているだけなのに、なぜか各地で大歓迎されています  作者: オレンジペコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/24

第4話 お湯は熱め。温泉卵は2つ

 夕方、浴場の入口には、新しい札が下がっていた。


『山の露天風呂 本日再開』


 コレットは文字を読み、戸の向こうへ目を向けた。履物が何足も並び、奥から笑い声が聞こえている。昼まで自分たちしかいなかった建物に、人が戻っていた。


「こちらよ」


 脱衣所で、宿の女将が手を振った。


 コレットも支度を済ませ、髪をまとめた。戸を開けると、冷たい空気が肌へ触れる。その先で、白い湯気が雪山を隠していた。


 桶で湯をすくい、足へかける。思ったより熱くて、息が漏れた。


「ゆっくりね。端から入るといいわ」


 教わった場所で片足ずつ沈め、岩へ手をついて腰を下ろす。湯が背中を包んだところで、思わず肩が落ちた。


「……ああ」


 声が出てから、少し恥ずかしくなった。隣の女将は笑い、自分も長く息を吐いている。


「そうなるでしょう」


 コレットは頷き、脚を伸ばした。石段で張っていたふくらはぎが、湯の中でほぐれていく。


 肩までは熱いくらいなのに、頬へ当たる風は冷たかった。


 湯気が流れると、山が現れた。高い峰の雪が夕日を受け、淡く桃色に染まっている。岩の縁に腕を置けば、ちょうど目の前に収まった。


 旅行記に描かれていた眺めだった。


 家で挿絵を見ていたときは、風の冷たさも、湯の重さも知らなかった。今は、濡れた肩を少し出すだけで寒い。慌てて沈み直すと、それさえ気持ちがよかった。


「本当に、来られました」


 小さく呟くと、女将がこちらを見た。


「ずっと来たかったの?」


「子供の頃から。このお風呂の絵が好きで、母に何度も読んでもらっていたんです」


「そうだったの」


 女将は山へ顔を戻した。


「また入れるようになって、よかったわねえ」


 離れたところでは、年配の女性が浴槽の縁を撫でていた。昔はもっと広かった気がすると言うと、連れが「あんたが小さかったんでしょう」と笑った。


 コレットもつられて笑った。


 湯口から絶えず湯が落ち、その向こうで人々が昔の話をしている。自分が帰ったあとも、ここへ来るのだろう。


 もう少しだけと思って山を眺めていたら、女将に肩をつつかれた。


「一度、上がりましょうか。頬が真っ赤よ」


 名残惜しくて、コレットはもう一度だけ峰を見た。


     *


 髪を拭き、厚い肩掛けを羽織って外へ出ると、山風が火照った頬を冷やした。


 湯壺のそばでエルザが籠を引き上げている。卵が湯気の中から現れ、コレットはそちらへ足を向けた。


「ちょうどいいところ。座って待っていてね」


 腰掛けへ座ると、男湯の方からヴィクトルが来た。上着を腕に掛け、黒髪の先がまだ少し湿っていた。


「山は見えましたか?」


「はい。絵と同じ場所に座れました」


 彼は隣へ座り、浴場を振り返った。


「私も、あれほどよく見えるとは思いませんでした。立って見たときより、山が近く感じますね」


「そうなんです。ずっと見ていたら、上がった方がいいと言われてしまって」


「私もです」


 意外で顔を向けると、彼は少し笑った。


「マルセルさんに。話を聞いているうちに、長くなりました」


 コレットは笑った。作業中には何度も時刻を確かめていた人も、風呂ではそうなるらしい。


 エルザが盆を運んできた。


 小鉢に、白い卵が丸く収まっている。透き通っただしの中で、表面がふるふると揺れた。


「干し川魚のだしよ。昔と同じように作ってみたの」


 コレットは小鉢を受け取り、匙を入れた。


 白身の下から、濃い色の黄身が現れる。そっと押すと膜が破れ、金色の中身がゆっくりだしへ広がった。


 少しずつ混ざってしまうのが惜しくて、急いですくった。


 白身は口の中で柔らかくほどけた。温かな黄身が舌を包み、魚のだしの塩気が重なる。飲み込むと、卵の甘さが残った。


 コレットは小鉢を見下ろし、今度はだしを多めにすくった。


「おいしいです」


 エルザがほっと息をついた。


「よかった。しばらく作っていなかったからね」


「これ、家でも同じようにできますか?」


「卵の火加減が少し難しいけれど。だしの取り方なら、女将さんも知っているわよ」


 母に話したいことが、また増えた。


 隣のヴィクトルも、匙で黄身を崩していた。ひと口食べて頷き、もうひと口食べる。何も言わないので気に入らなかったのかと思ったが、顔を上げるとエルザへ尋ねた。


「もう1つ、お願いできますか」


 コレットも空になりかけた鉢を見た。


「私も、いただきたいです」


 頼んでから顔を見合わせ、笑ってしまった。


「ご先祖が、もう1つ頼めばよかったと書いているんです」


「では、今日は心残りなく帰れますね」


「はい。よく分かりました。1つでは、少し足りないです」


 新しい鉢が来るまで、コレットは残っただしをすくった。山風を受けながら、温かい卵を食べる。部屋で同じものを出されても、今日とは違う味に感じるかもしれない。


 2つ目は、黄身を少しずつ崩して食べた。


 最後のひと匙まで味わって顔を上げると、坂道を上がってくる人が見えた。マルセルが入口で迎え、今ならまだ空いていると中へ通している。


「明日も、入れるんですね」


 コレットが言うと、ヴィクトルもそちらを見た。


「ええ。これからは、動かしながら手入れできます」


 彼は少し考えてから続けた。


「あなたが来なければ、今日も、どこにつながるか分からない線を調べていました」


「私も、あの線が湯を送る指示を出すなんて、教わるまで知りませんでした」


 コレットは浴場の屋根を見た。


「直せてよかったです。明日、町を出たあとも、皆さんはここへ来られるんですものね」


 ヴィクトルは頷いた。そのあと、コレットの空の小鉢へ目を落とす。


「ご自分も入れましたし」


「それも、とても嬉しいです」


 素直な返事に、彼の口元が緩んだ。


     *


 宿へ戻ると、女将が奥の小部屋を貸してくれた。ヴィクトルから作業の記録と報酬の説明を受け、コレットは書類へ目を通した。


 金額を見て、思わず読み直す。


「この額で、合っていますか?」


「はい。長期にわたり復旧できなかった設備なので、特別修繕の規定が適用されます。マルセルさんたちの作業費は別です」


 旅費に余裕ができるのはありがたかった。けれど、署名の前に、作業者の欄をもう一度見た。自分の名前が、父の名前を添えずに記されている。


 控えを受け取り、折れないよう鞄へ収めた。


「父へ送る手紙に、写してもいいですか」


「もちろんです。作業の図もお渡しします。それと、能力についてお話ししたいことがあります。明日の朝、お時間はありますか」


「はい。馬車は昼前ですから」


 改まった声に少し緊張したが、聞いておきたかった。知らない構造が分かった理由を、コレット自身も考えていた。


 部屋へ戻ってから、父への手紙を書いた。湯が戻ったことと、見たことのない盤を直せたこと。詳しい話は、明日ヴィクトルから聞いて伝えると添えた。


 母へは、露天風呂の眺めと卵のことを書いた。


 そのあとで旅行記を開き、新しい紙へ日付を入れた。


『雪山が綺麗だった。お湯は熱め。長く見ていると、上がりそびれる』


 少し迷って、その下へ続ける。


『温泉卵がおいしい。干し川魚のだしで食べる。2つ食べた』


 紙を挟む前に、向かいのページを見た。ベアトリスが描いた小鉢の横へ、自分の記録が並ぶ。


 次に家でこの本を開くときは、湯の温かさも思い出せる。


 一方、ヴィクトルは別室で、親展の報告書を書いていた。


 20年間復旧できなかった源泉設備が再稼働した。作業者はコレット・ベルナール。図面を知らず、外から見えない経路を特定したこと。異なる2つの区画で、同様の作業を確認したこと。


 事実を書き並べ、技術書の記述と照合する。


 《復元》の可能性は高い。だが、その名前を広める前に、本人へ説明しなければならなかった。


 筆を置くと、開いた窓から風が入った。遠く、浴場へ続く道に灯りが見える。


 明日の点検では、故障箇所を探すだけでなく、湯を送り続ける設備を確かめられる。


 ヴィクトルは報告の最後へ、再開した浴場に町民が戻ったことを書き加えた。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!

感想も大歓迎です。執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。