第3話 露天風呂に湯が戻る日
翌朝、コレットは寝台の端に座り、そっと足首を回した。
昨日より脚が重い。窓の外はよく晴れていて、朝食の前に川沿いを歩こうと思っていたが、もう少し座っていたかった。
旅行記を取り、露天風呂のページを開く。今日は、ここへ湯が入るかもしれない。
それなら散歩は、また今度でいい。
食堂へ降りると、女将がパンとスープを運んできた。
「エルザが来たわよ。設備に光が点いたんですってね」
「はい。まだ一部分なんですが」
「嬉しそうだったわ。あの人、お風呂の話になると、いつも昔のことばかりだったでしょう。それが昨日は、再開したらどうするかって」
コレットは匙を止めた。女将は水を注ぎながら、少し笑った。
「私も、あなたが入る日には一緒に行こうかしら」
「ぜひ。山がよく見える場所を教えてください」
「それなら任せて」
朝食を終えると、約束の時刻に間に合うよう宿を出た。今日は川沿いで足を止めても、急いで取り戻そうとはしなかった。石段の途中で休み、町の鐘が鳴り終わるのを聞いてから、また登った。
設備棟では、マルセルが部品を並べていた。
「昨日の区画は、繰り返し動かしても正常でした」
挨拶をすると、すぐに盤を見せてくれた。青い光は消えていたが、戻した線は同じ場所へ収まっている。
ヴィクトルは卓の本を閉じた。横には別の本が2冊重なり、紙が何枚も挟まれていた。
「昨日、伺ったことを調べていました。まだ照合したい記録がありますが、作業が終わったあとで、お時間をいただけますか」
「はい」
少し気になったが、彼は本を片づけ、今日直す区画へ向き直った。コレットも鞄を置いて、袖口を留めた。
残りの回路も、枠へ触れると戻す場所が分かった。
ただ、奥の一角には、つながるはずの先がない。
「ここに、平たい板がありませんでしたか。真ん中に穴の開いたものです」
マルセルが部品箱から布包みを取り出した。
「これでしょうか。外れていたので、保管してあります」
「はい。それを、こちらへ」
置いてもらうと、先へ続く感覚が戻った。コレットは力を流し、板がゆっくり回って台座へ収まるのを待った。その縁へ金属線が寄り、奥の結晶へつながっていく。
ベルネの設備を教わったことはない。それなのに、線の戻る先は、父の工房で扱ったものと同じくらい自然に分かった。
ヴィクトルも、それを見ていた。
昨日は知識や偶然で説明できないかと考えた。だが、今渡された部品の位置まで、彼女は迷わず示している。
彼は記録へ目を落とし、動いた板の位置を書いた。能力の名前は、ここでは口にしなかった。
最後の線が収まった頃、コレットは首を起こした。窓の向こうが眩しく、しばらく瞬きをする。
「終わったと思います」
マルセルが盤へ近づき、ヴィクトルは椅子を寄せた。
「こちらで休んでください。配管の確認も、もう少しかかります」
座って水を飲むと、肩に入っていた力が抜けていった。
外では職人たちが声を交わしている。これまで交換してきた管や弁を、もう一度確かめているのだという。コレットは窓越しに、その仕事を眺めた。
やがてマルセルが顔を上げた。
「盤は問題ありません。試験水路へ、湯を送れます」
ヴィクトルが外へ合図を送り、全員の位置を確かめた。
主動力のレバーが倒される。
大きな結晶に青い光が灯り、細い筋が盤の端まで広がった。床の下から低い音が響く。続いて管が鳴り、外で圧力を読み上げる声がした。
マルセルが調整輪を回すと、音が一定になった。
水が、石を打った。
戸口へ出ると、試験水路へ湯が流れ込んでいた。乾いた底を濡らし、曲がり角へ広がっていく。白い湯気が立ち、山風に押されてコレットの頬へ触れた。
「……温かい」
思わず言うと、隣のマルセルは黙って頷いた。
眼鏡が曇ったらしく、外して布で拭いている。だが、掛け直す前に、また流れへ目を向けた。
「こんな音だったな」
いつの間にか来ていたエルザが、隣へ並んだ。
「ええ。裏へ出ると、いつも聞こえていたわ」
2人の前を湯が流れていく。コレットは少し離れて立ち、その先を見送った。自分が触れていた細い線の向こうで、こんなにたくさんの湯が動く。
水質と温度の確認を終えると、いよいよ浴場へ送ることになった。
エルザが先に歩き出した。
「桶を出しておくわ。まだ、伏せたままだもの」
コレットも後を追ったが、石段の手前で歩調を緩めた。ヴィクトルは急かさず、隣から浴場の屋根を見上げている。
「ここまで来ましたね」
「はい。昨日は、景色だけでもと思っていたんですけど」
戸を抜けると、空の浴槽があった。
コレットは昨日しゃがんだ場所へ向かった。岩の湯口を見つめていると、奥で水が揺れた。細い流れが石を濡らし、次の瞬間、まとまった湯が落ちてきた。
底で弾けた湯が、磨かれた石の上を広がっていく。
雪山を背に、白い湯気が上った。
エルザは桶を抱えたまま立っていた。やがて足元へ置き、浴槽の縁に片手をつく。
「もう、布で拭かなくていいのね」
笑った声の終わりが震えた。マルセルが隣へ来て、同じように濡れた底を見ていた。
コレットは、2人へ何か言おうとしてやめた。
湯の広がる音を聞きながら待っていると、ヴィクトルが脇で記録を閉じた。彼もしばらく、何も書かなかった。
*
昼過ぎには、町から人が登ってきた。
入口で湯気に気づき、足を速める人がいる。戸口から覗くだけのつもりだった老人は、浴槽のそばまで行って帽子を脱いだ。
宿の女将も、前掛けのまま現れた。
「エルザ、本当に?」
「ええ。夕方には入ってもらえそうよ」
女将は両手を胸の前で合わせ、しばらく湯口を眺めた。それからコレットを見つけると、そばへ来て手を取った。
「ありがとう。あなた、今日ここへ入るのを楽しみにしていたでしょう」
「はい」
「私もよ」
その声が弾んでいて、コレットまで笑ってしまった。
浴場の裏では、卵を作る湯壺にも湯が届いていた。エルザが長い柄の籠を掛け、マルセルが温度を確かめている。
「卵を買ってこなくちゃ。だしも作らないとね」
コレットは籠の中を覗いた。今は空だが、夕方には、旅行記に描かれた卵が並ぶ。
「私も、あとでいただきたいです」
「もちろん。女将さんと一緒にいらっしゃい」
エルザはヴィクトルにも顔を向けた。
「あなたも入っていきなさい。こちらへ来てから、仕事ばかりだったでしょう」
彼は手元の記録へ目を落とした。
「最後の確認が済んだら、伺います」
「私たちが先に上がってしまっても、卵は残しておきますね」
コレットが言うと、ヴィクトルは顔を上げた。
「そんなに遅くはなりません」
思っていたより早い返事に、コレットは笑った。彼も口元を緩め、湯壺へ目を向ける。
「温泉卵は、私も初めてなので」
あの小鉢を楽しみにしているのは、自分だけではないらしい。
宿へ戻る途中、コレットは厚い肩掛けを出しておこうと考えた。湯上がりに山風を受けても、今度は冷えずに帰りたい。
木立の切れ間で振り返ると、浴場の屋根から湯気が上っていた。夕方には、あの向こうで雪山を見る。
コレットは鞄の旅行記へ手を添え、下り坂をゆっくり歩いていった。




