第23話 分かれ道で、次の約束を
湖沿いの道は、小さな入江で終わっていた。
岸へ下りる石段があり、その先に、舟を1隻つなげるほどの桟橋があった。旅行記には載っていない場所だった。
コレットは最後の段へ腰を下ろした。隣へヴィクトルが座ると、近くに浮いていた鳥が少し遠ざかった。
「あまり、人が来ないんですね」
「町の方は、釣りに来るそうです」
湖の向こうに、昨日乗った船が見えた。こちらからでは人の顔までは分からない。白い船体が、小島の塔のそばをゆっくり進んでいた。
コレットは膝の上で手を組んだ。
歩いてくる間は、何を話そうと考えていた。けれど、こうして座ると、黙っていても帰りたくなかった。
「明日は、晴れそうですね」
ようやく口にしたのは、そんなことだった。
「ええ。馬車も、予定どおり出るそうです」
ヴィクトルの返事に頷く。
湖のページは、もう書き終えている。荷物も、帰る便も決まった。今夜、鞄の留め具を閉じればよかった。
船が木立の向こうへ隠れるまで眺め、2人は立ち上がった。
宿へ戻る途中、コレットは入江を振り返った。次に来たときも、あの石段へ座ってみたいと思った。
*
翌朝、売店へ挨拶に寄ると、炉にはもう火が入っていた。
「気をつけてね。お母さんと作ったら、どうだったか教えてちょうだい」
女性が、小さな紙へ包んだ梨を渡してくれた。
「干してあるから、途中でも食べられるよ。生の梨とは違うけれど、帰って煮てもいい」
「ありがとうございます。作ったら、お手紙を送ります」
船着き場では、アランが荷物の積み込みを見ていた。コレットたちへ気づくと、操舵室の前から手を上げる。
その後ろを、乗客が通っていった。
初めて来た日、縄が張られていた入口だった。今は、切符を持つ人が順番に渡り、船員が手を貸している。
コレットも手を振り返した。
馬車の広場へ向かうと、ヴィクトルが隣へ並んだ。
「忘れ物はありませんか」
「たぶん。今朝、3回見ました」
「では、大丈夫そうですね」
彼が笑ったので、コレットも笑った。もう一度確かめたくなるのを我慢して、鞄の紐を持ち直す。
帰りの荷物には、食材や土産が増えていた。
父へ見せる図、母と使う覚え書き。水色の髪飾りは、潰れないよう布へ包み、鞄の上の方へ入れてある。
馬車が動き出すと、コレットは窓から湖を見た。
町の屋根が重なり、水面が隠れる。もう一度見えたのは、道が少し高くなったときだった。
その先で林へ入り、湖は見えなくなった。
*
乗り継ぎの町へ着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
広場の端で、行き先の違う馬車が荷を積んでいる。コレットの乗る便は北へ、ヴィクトルの便は王都へ向かう。
まだ時間があったので、2人は茶店へ入った。
温かな茶が運ばれてくると、ヴィクトルが鞄から封筒を取り出した。
「こちらは、お父上へ。作業記録の控えと、橋の灯りを描いたものです」
「ありがとうございます。きっと、食事の前に広げます」
受け取り、鞄へしまう。
それで、渡すものは終わりだった。
向かいには、いつものようにヴィクトルが座っている。けれど、次に町へ着いたとき、彼はそこにいない。
コレットは杯へ指を添えた。
「王都へは、今日中に着くんですか?」
「いえ。途中でもう1泊します」
「そうですか」
旅の間なら、宿で何を食べるか、朝は何時に出るかと話が続いた。今日は、それを一緒に考えられなかった。
ヴィクトルも杯を持ち上げ、ひと口飲んだ。
「ご自宅へ着かれたら、知らせていただけますか」
コレットは顔を上げた。
「はい。どちらへ送ればいいでしょう」
「局の私宛てで届きます。私からも、お手紙をお送りしてよろしいですか」
「もちろんです」
すぐに答えると、彼の表情が少し和らいだ。
「今回の記録について、お伝えすることもあります。それと――」
そこで、言葉が止まった。
コレットは待った。ヴィクトルは卓の上の封筒へ一度目を落とし、それから彼女を見た。
「梨の包み焼きが、うまくできたか知りたいです。次に、どのページを選ぶのかも」
コレットは杯から手を離した。
「私も、書きたいです。家でどうだったか」
それだけではなかった。
帰ってからも、この人に話を聞いてほしい。楽しかったことも、上手くいかなかったことも。旅先で、向かいの席へ話しかけていたときのように。
コレットは鞄から旅行記を取り出した。
未訪問のページを開く。春の花畑だった。丘に白い花が広がり、その中を細い道が続いている。
「ここへは、春に行こうと思っています」
ヴィクトルが本へ目を向けた。
「花の時期を、宿へ先に聞いておくとよいそうです」
コレットは説明しながら、指で紙の端を撫でた。言いたいのは、旅の手順ではなかった。
窓の外で御者が声を上げ、荷台へ箱が載せられる。
「次も、ご一緒できたら嬉しいです」
言ってから、彼の顔を見た。
ヴィクトルは絵から目を上げた。すぐには答えず、コレットを見ていた。
その間に、断られたときの返事を考えかけた。
「私も、ご一緒したいです」
はっきりした声だった。
「今度は、休暇を取れる時期を相談してもいいでしょうか」
「休暇、ですか?」
「ええ。旅に行きたいので」
ヴィクトルは開いたページへ目を落とした。
「この道を、コレットさんと歩いてみたいです」
胸の奥が温かくなった。
コレットは頷いたが、それだけでは足りず、もう一度口を開いた。
「では、すぐには日を決めずに、お手紙で相談しましょう。私も、家の仕事を確かめます」
「はい。早めにご相談します」
彼が笑った。
コレットも笑い、花畑の隅に描かれた小さな店を指した。
「冷たいお菓子もあるんです。果物を混ぜてあって」
「そちらも、行きましょう」
返事が早くて、今度は声を出して笑ってしまった。
*
北へ向かう馬車の前で、ヴィクトルが鞄を受け取ってくれた。
乗り込んだコレットへ渡し、足元へ置くのを確かめる。棚へ載せる荷物は、御者に頼んで留めてもらった。
もう、降りるだけになっても、彼は戸口に立っていた。
「道中、お気をつけて」
「ヴィクトルさんも」
言葉が途切れた。
コレットは、窓際へ寄った。
「お手紙、待っています」
「私も。着いたら、知らせてください」
「はい」
彼が馬車から降りた。
御者の声がして、車輪が動き始める。コレットは窓から手を振った。ヴィクトルも片手を上げ、広場の端まで歩いてきた。
曲がり角へ差しかかる前、もう一度顔が見えた。
次の瞬間、建物に隠れた。
コレットは窓を閉め、席へ戻った。
向かいは空いていた。
旅行記を膝へ置く。開いたのは、さっき見せた春のページだった。馬車が揺れると紙がめくれかけ、いつものように誰かが押さえてくれる気がして、手が少し遅れた。
寂しかった。
まだ広場を離れたばかりなのに、もう話したいことを探していた。
コレットは鞄から紙を取り出した。
家に着いたら、まず無事を知らせる。母と菓子を作ったら、そのことも。借りた図を父に見せて、何と言ったか書こう。
忘れないように短く控え、最後に春の旅のことを加えた。
窓の外で、道標が過ぎた。北へ続く道と、王都へ向かう道が、後ろへ分かれていく。
コレットは紙を畳み、父母からの手紙と同じ場所へ収めた。
春のページには、栞を挟んでおいた。
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