第22話 帰る日の相談
朝、窓を開けると、湖の方から船の音が聞こえた。
コレットは身を乗り出さず、窓枠へ手を置いて眺めた。建物の間を、大きな船がゆっくり進んでいく。昨日、自分たちが座った窓にも、誰かの顔が見えた。
机の上には、閉じた旅行記があった。
温泉、朝市、高原、灯祭り、湖。行こうと決めていた場所を、全部訪ねた。挟んだ紙の分だけ膨らんだ表紙を撫で、コレットは鞄から帰りの地図を出した。
山道が冷える前に帰る。
出発するとき、両親と約束したことだった。家へ帰れば、母に話したいことがたくさんある。父には作業の図を見せたい。
それでも、地図を広げる手は進まなかった。
*
食堂では、ヴィクトルが手紙を読んでいた。
コレットに気づくと、卓の上から封筒を1つ取り、差し出してくれる。
「ご実家からです。こちらの宿へ転送されてきました」
父の字を見ると、自然に頬が緩んだ。
手紙は、ヴァレリアで送った便への返事だった。橋の灯りの絵を母と見たこと、湖へ着く頃だろうと考えて、泊まる予定の宿へ宛てたことが書かれている。
『帰る便が決まったら知らせてほしい。家の方は変わりない。急ぐ必要はないが、峠で寒い思いをする前には戻るように』
母の追伸には、干し川魚がまだ少し残っているとあった。帰ってきた日は温泉卵を作るので、ほかに食べたいものがあれば知らせてほしいという。
コレットは笑い、顔を上げた。
「母、帰った日の食事を考えてくれています」
「何を召し上がるんですか?」
「温泉卵です。私が作り方を覚えているか、確かめられるかもしれません」
ヴィクトルも笑った。
けれど、彼の手には、まだ開いた手紙があった。コレットはその局の印へ目を向ける。
「お仕事の連絡ですか?」
「はい。今回の記録を持って、王都へ戻るようにと」
彼は紙を揃え、封筒の上へ置いた。
「湖の資料を受け取れば、こちらでの仕事は終わります」
「いつ頃ですか?」
「明日には揃うそうです」
コレットは父の手紙を見下ろした。
帰る話を、自分から切り出そうと思っていた。そのはずなのに、先に日が決まると、急に近く感じた。
「私も、帰り道を調べていました」
鞄から地図を出す。ヴィクトルが茶器を寄せ、広げる場所を空けた。
何度も、こうして道を確かめてきた。次に何を見たいか話しながら、彼の指す町へ印をつけた。
今日は、途中で道が分かれる。
「こちらの町までは、一緒ですね」
ヴィクトルが言った。
「その先は、私は王都へ。コレットさんは北の道です」
「はい」
コレットは分かれ道へ指を置いた。
明後日の馬車なら、どちらも乗り継げる。そう分かってからも、すぐ手帳へ書き込めなかった。
「その便で、よろしいですか?」
尋ねられ、顔を上げる。
「はい。ご一緒できるなら」
言ってから、地図へ目を戻した。ヴィクトルも少し黙り、それから出発時刻を確かめた。
*
昼前、コレットは1人で船着き場へ出かけた。
ヴィクトルには管理所で資料を整理する仕事があった。昼食を一緒に取らないのは初めてではない。それでも、帰る便を決めたあとでは、1人で歩く道が少し静かだった。
売店には、梨を積んだ籠が増えていた。
女性が生地を伸ばす向かいで、若い娘が梨を切っている。客が来ると手を止め、焼き上がったものを容器へ移した。
「明後日、発つことにしました」
コレットが挨拶すると、女性は手を拭いた。
「そう。お家へ帰るのね」
「はい。それで……作り方を、教えていただけませんか。母と作ってみたくて」
「いいわよ。ただ、うちは細かく量っていないからね」
コレットが紙を出すと、女性は生地へ目を向けた。
「時間があるなら、1つ包んでみる?」
手を洗い、前掛けを借りた。
薄く伸ばした生地へ、柔らかい梨と、少し硬さの残る梨を載せる。端を寄せればよいと聞いたのに、指でつまむと片側だけ長くなった。
「あまり引っ張ると、底が薄くなるよ」
「あ、はい」
慌てて手を緩めた。寄せ直しても、今度は上手く閉じない。
女性が向かいから端を持ち、少しずつ重ねるのを手伝ってくれた。
「見ていると、簡単そうだったんですけど」
「いつも作っているからね。最初は、私も梨を入れすぎたものよ」
天板へ置くと、コレットの分だけ、つぼみが横を向いていた。
もう1つ包んでみる。今度は梨を少し減らし、底を手で支えながら閉じた。形は丸くなったが、上のひねりが太い。
「こっちも、焼いてみましょう」
炉へ入るのを見送り、コレットは紙へ覚え書きをした。梨の硬さを混ぜること。生地を引っ張りすぎないこと。果汁が漏れないよう、底を傷めないこと。
書き終える頃、女性が尋ねた。
「調査官さんも、明後日?」
「はい。途中まで一緒に帰ります」
「じゃあ、その方にも食べてもらう?」
コレットは天板の2つを思い浮かべた。
「……よければ、1つ持ち帰りたいです」
「冷めてから包んであげる。どちらにするかは、味を確かめてから決めるといいわ」
焼き上がった包み焼きは、ひねった部分だけ濃く色づいていた。試しに食べた方は、少し厚い生地が口に残ったが、中の梨は温かく、底から果汁も漏れていなかった。
「家でも、練習します」
「お母さんとなら、楽しいでしょう。形が違っても、焼ければ食べられるから」
コレットは頷き、持ち帰る1つを何度も見た。
*
ヴィクトルが宿へ戻ったのは、夕方だった。
食堂の卓には、コレットと、蓋をした小さな容器があった。
「お帰りなさい」
声をかけると、彼は鞄を置いた。
「お待たせしました。何か、召し上がっていたんですか?」
「いえ。これ、私が包んだんです」
蓋を取ると、少し傾いた包み焼きが現れた。
ヴィクトルは菓子を見て、それからコレットへ顔を向けた。
「売店で、作り方を教えていただいて。もう1つの方は食べたので、こちらも大丈夫だと思います」
言葉を足すほど、自信がないように聞こえる。コレットは匙を置いた。
「よかったら、召し上がってください」
「ありがとうございます」
彼は上着を椅子へ掛け、手を洗って戻ってきた。
匙を入れるところを、つい見てしまう。生地は割れた。中の梨も、ちゃんと見える。
ひと口食べた彼が頷くまで、コレットは自分の手を膝の上で握っていた。
「おいしいです」
「よかった……」
息と一緒に声が出た。
ヴィクトルが、少し笑った。
「そんなに心配されていたんですか」
「生地を、少し厚くしてしまったので」
「底は、破れていませんね」
彼は容器の底をすくい、もう一口食べた。
コレットはようやく、自分の茶へ手を伸ばした。
「母と作ろうと思っています。温泉卵のお礼に」
「きっと、喜ばれます」
「最初の1つは、もっと変な形だったんですよ」
話すと、彼は匙を止めて聞いた。梨を減らしたこと、上が太くなったこと。仕事の報告でもない小さな失敗を話しているうちに、帰る日の重さが少し遠のいた。
ヴィクトルは最後の生地まで食べ、匙を置いた。
「ごちそうさまでした」
空になった容器を見て、コレットは嬉しくなった。
「また作っても、いいでしょうか」
口にしてから、自分が何を尋ねたのか気づいた。
家で作る話をしていた。次に彼へ渡せる日など、決まっていない。
ヴィクトルはコレットを見たまま、頷いた。
「はい。ぜひ」
短い返事を聞いて、コレットも頷いた。
そのあと、どちらもすぐには別の話を始めなかった。食堂の奥で皿の触れ合う音がして、主人が夕食の支度を進めている。
やがてヴィクトルが、卓の端の手帳を示した。
「明後日の便で、席を取ってきました」
コレットは差し出された切符を受け取った。隣に、彼の分もあった。
帰る日は決まった。
それでも、あと1日はある。コレットは2枚の切符を見てから、彼へ顔を上げた。
「明日、湖のそばを少し歩きませんか。お仕事が終わってからでいいので」
「ええ。午後には戻れます」
ヴィクトルは少し考えた。
「船着き場から東へ、岸沿いの道があるそうです。そちらへ行ってみましょうか」
コレットは頷いた。
今度は旅行記を出さなかった。その道に何があるのか、まだ知らない。
明日、2人で歩いてみればいいと思った。
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