第21話 山が2つ見える朝
髪を結び終えてから、コレットは小さな包みを開いた。
水色の花を、鏡の前で耳の上へ留める。祭りの日より、ずっと簡単にできた。
今日は船に乗るだけだ。けれど、旅に持ってきた飾りを使う日に、祭りでなければいけない決まりはない。
留め具を確かめ、鞄を取った。
切符と旅行記、小さな匙。工具袋は部屋へ置いていく。
階下へ降りると、ヴィクトルが入口で待っていた。
「おはようございます」
彼は挨拶を返し、コレットの髪へ目を向けた。
「今日は、そちらなんですね」
「はい。せっかく買ったので」
答えると、彼が微笑んだ。気づいてもらえたことにほっとして、コレットも笑った。
船着き場へ続く道は、まだ日陰だった。
湖には薄い霞が残り、岸辺の家が逆さまに映っている。昨日まで閉じていた切符売り場に灯りがつき、その前へ荷物を持った人が並んでいた。
売店の窓から、甘い匂いが流れてきた。
「ちょうどいいところ。今、出したのよ」
女性が天板から包み焼きを取り、浅い木の容器へ移した。上をひねった生地はきつね色で、縁に小さな泡の跡がある。
蓋をする前に、梨の香りが上がった。
「底を支えてね。果汁があるから」
コレットは両手で受け取った。温かさが掌へ伝わり、思わず蓋の隙間を覗く。
ヴィクトルも隣で買っていた。今日は彼の鞄も小さい。
「お仕事の記録は?」
「ユベールさんたちが取っています。私は、今日は乗客です」
彼が切符を出したので、コレットも急いで鞄へ手を入れた。
船へ乗る人々の声に、籠を置く音が重なった。甲板には帰りの梨を運ぶための空籠が積まれ、その横を船員が通っていく。
コレットは窓際の席へ座り、包み焼きを膝に置いた。
昨日、岸から見送った船の中にいる。
低い機関の音が響いた。窓の向こうで縄が外され、船と岸の間が少しずつ広がっていく。
売店の女性が手を振っていた。
コレットも振り返す。昨日はあの場所に立って、ヴィクトルの乗る船を見ていた。今日は隣の席に彼がいる。
石の船着き場が遠ざかり、町の屋根が水面の上へ小さく並んだ。
「出ましたね」
言うと、ヴィクトルも窓の外を見た。
「ええ」
コレットは容器の蓋へ手をかけた。船が出てから食べるつもりで、ずっと待っていたのだ。
けれど、窓の向こうへ目が戻った。
岸の葦に隠れていた山の裾が、少しずつ見えてきている。
「先に、甲板へ行きませんか」
ヴィクトルが言った。
「今なら、ほとんど風がありません」
コレットは蓋を閉じ直した。
「はい。少しだけ」
*
甲板へ出ると、空が広かった。
岸からは気にならなかった屋根も木々も、ここにはない。船の横に山が連なり、その下にも、同じ山があった。
コレットは手すりへ近づいた。
頂の雪も、斜面の深い緑も、逆さまに水へ続いている。山と山の間に細い岸辺があり、そこを境に上下がぴたりと重なっていた。
水の中の空は、見上げた空より少し青い。
「……本当に、2つ」
小さく声が出た。
船首から広がった波が、映った山の端を揺らした。白い雪が細かく砕け、波が過ぎると、また輪郭が戻ってくる。
コレットは手すりを握ったまま見入った。
家で旅行記を眺めていたときには、山が二重に見えるのだと思っていた。けれど実際には、空も雲も、全部が下にあった。船が、2つの景色の間を進んでいる。
遠くで鐘が鳴った。
対岸からだった。
ベアトリスも、この音を聞いた。そう思うと、鞄の本を開きたくなったが、今は目を離せなかった。
「ヴィクトルさん」
呼んでから隣を見ると、彼はこちらを見ていた。
「見えましたね」
彼が言った。
コレットは頷いた。何か言いたいのに、うまく出てこない。子供の頃から憧れていた景色なのだと、彼は知っている。
「昨日、船から見たときも、思っていたんです」
ヴィクトルが湖へ目を戻した。
「今朝も、同じくらい穏やかならいいなと」
コレットは彼の横顔を見た。
昨日の彼は試験のために船へ乗っていた。その間に、自分がここへ立つ朝のことを考えてくれていた。
「ありがとうございます」
「私が晴らしたわけではありませんよ」
「でも……」
言いかけ、少し笑った。
「一緒に見られて、よかったです」
今度は彼がこちらを向いた。
返事までに、ほんの少し間があった。
「私もです」
その声を聞いてから、コレットはまた山を見た。すぐ隣の袖が風に揺れ、ときどき自分の肩掛けへ触れた。
景色は同じなのに、さっきよりも長く、この場所にいたかった。
*
風が出てきた頃、2人は船室へ戻った。
包み焼きの容器には、まだ温かさが残っていた。蓋を取ると、甘い香りがふわりと上がる。
コレットは小さな匙で、生地の上を割った。
さくりと音がして、内側から湯気が抜けた。薄く切った梨が幾重にも重なり、その隙間に澄んだ果汁がたまっている。
少しすくい、口へ運んだ。
梨は柔らかいところと、わずかに歯ごたえの残るところがあった。優しい甘さのあとに酸味があり、焼けた生地の香ばしさが重なる。
コレットはもう一口取り、窓の外を見た。
山は、まだ水の中にあった。
「おいしいです」
ヴィクトルが隣で頷いた。
「待った甲斐がありましたね」
「はい。売店の前を通るたび、少し迷っていたんです」
「気づいていました」
顔を向けると、彼は自分の容器へ匙を入れていた。その口元が緩んでいる。
「そんなに見ていましたか?」
「炉の方を、毎回」
コレットは笑い、下の生地をすくった。
そこは上側と違い、果汁を吸ってしっとりしていた。梨の甘さが染み、匙を入れると柔らかく切れる。
「底、残さなくてよかったです」
「本当ですね」
ヴィクトルも容器の端へ匙を滑らせた。
食べ終わる頃、岸辺の家が近づいてきた。船着き場には人が集まり、梨を積んだ荷車が何台も並んでいる。
船が留まると、乗客が順に立ち上がった。
コレットも降り、桟橋の端で荷運びの人へ道を空けた。薬の箱を受け取った男が、中を確かめて船員へ礼を言っている。その横では、杖をついた女性がアランと話していた。
「帰りに乗れるんですね」
「ええ。この便で向こうへ戻ります」
「娘に知らせていないんだけど、驚くかしら」
女性は嬉しそうに笑い、荷物を抱え直した。
コレットは、その人が船へ乗るところを見送った。
自分が山を眺めていた道を、この人は娘に会うために渡る。甲板の空籠には、帰りの梨が積み込まれ始めていた。
「少し、歩きますか」
ヴィクトルに声をかけられ、頷く。
帰りの出航まで、まだ時間があった。2人は船着き場を離れ、梨畑へ続く道を、次の曲がり角まで歩いた。
*
宿へ戻った午後、コレットは旅行記を開いた。
湖のページへ、自分の紙を添える。
『風のない朝、山が上下に見えた。水の中の空の方が、少し青い』
そこまで書いて、甲板を思い出した。
鐘の音。手すりの冷たさ。隣へ顔を向けたとき、先にこちらを見ていた彼の目。
筆を止め、窓の外を見る。
ヴィクトルは管理所へ記録を受け取りに行っていた。夕食には戻ると聞いている。
コレットは続きを書いた。
『梨の包み焼きは、上がさくさく、底は果汁でしっとり。小さな匙を持っていくと、最後まで食べられる』
紙の端へ、小さく船の窓を描いてみた。四角い窓なら、雲よりは簡単だった。
その向こうに山を描き、水面の下へもう1つ足す。
少し迷ってから、窓の下へ杯ではなく、包み焼きの容器を2つ描いた。
片方が大きくなってしまったが、描き直さなかった。
夕方、ヴィクトルが戻り、食堂でその紙を見た。
「こちらも、残すんですね」
示されたのは、2つ並んだ容器だった。
「はい。今日のことなので」
彼は絵を見てから、コレットへ目を向けた。
「私も、同じものを残しておきたいです」
「包み焼きですか?」
「今日、船から見たものを」
コレットは紙を持つ指へ、少し力を入れた。
「乾いたら、お見せします。絵は、あまり上手くないですけど」
「楽しみにしています」
向かいへ座った彼の前に、宿の主人が茶を置いた。
コレットはもう一度紙へ目を落とした。船の窓の下に、2つの容器が並んでいる。
あの景色の絵には、これもあった方がいいと思った。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!
感想も大歓迎です。執筆の励みになります!




