第20話 船長が、出せると言った日
目が覚めると、窓辺の肩掛けに日が当たっていた。
コレットは寝台から起き上がり、時計を見た。横になるだけのつもりが、夕方近くまで眠っていたらしい。
肩掛けの端は、まだ少し湿っていた。椅子の背へ広げ直し、窓の外を見る。
船着き場に、人が増えていた。
甲板へ箱を運ぶ人、船の脇へ小舟を寄せる人。昨日までは静かだった船の周りで、声が交わされている。
階下へ降りると、ヴィクトルが食堂で紙を読んでいた。
「よく休めましたか」
「はい。思ったより、眠ってしまいました」
「朝が早かったですから」
向かいへ座ると、彼は手元の図をこちらへ向けた。
「岸でも、島からの信号が正常に受け取れました。明日は、3か所を合わせて動かす試験に進みます」
「私は、また島へ行きますか?」
「今のところ、その必要はありません。追加の作業が必要になれば、改めてご相談します」
コレットはほっとした。明日も行くと言われれば行くつもりだったが、まだ舟の揺れが体に残っている気がした。
「私も、岸から見ていていいでしょうか」
「もちろんです」
ヴィクトルは図の小島を指した。
「島だけ強く働かせると、流れを別の場所へ押してしまうそうです。両岸の設備と合わせて、少しずつ確かめます」
湖にあるのは、1つの機械ではない。離れた場所で動くものが、同じ船の通り道を支えている。
コレットは窓の向こうへ目を向けた。
「船の準備も、始まっているんですね」
「アランさんが、点検記録を全部出してきました。今日まで、整備を続けていたそうです」
あの磨かれた窓を思い出す。
船が出る日を待っていたのは、売店の女性だけではなかった。
*
翌朝、管理所には3か所の予定が貼り出されていた。
島へは明るくなる前に設備士が渡り、対岸の担当者とも時刻を合わせてある。ユベールが壁の時計を確かめ、盤の前へ立った。
「最初は弱く動かします。変化が落ち着くまで、次へは進みません」
コレットは窓のそばで待った。
島を示す結晶が光り、その隣も明るくなる。外の職員が水位と流れの速さを読み上げると、ユベールは調整輪をわずかに回した。
小島の脇に見えていた、斜めの筋が薄くなっていった。
湖全体が静まるわけではない。岸のそばでは波が石を洗い、鳥も水面を揺らしている。ただ、船の通る区間にあった速い流れが、少しずつ弱まっていた。
「島、正常です」
連絡係の声に、ユベールが頷いた。対岸からの知らせも確かめ、次の段階へ進む。
途中で設備を止めると、筋がまた現れた。動かし直せば、薄くなる。
それを何度も確かめ、昼前、アランが揃った記録を読んだ。
「船を出してみよう」
コレットは椅子から顔を上げた。
桟橋では、船員たちが重さを決めた砂袋を積み始めた。乗るのは船員と設備士だけで、客はまだ乗せないという。
ヴィクトルも、記録鞄を持って立ち上がった。
「私も船上の確認に加わります」
「……はい」
頷いてから、コレットは鞄へ目を落とした。
準備をしていたときから分かっていた。今日、彼が船へ乗ることも聞いていた。それでも、岸に残ると思うと、落ち着かなかった。
昨日、自分たちが乗った小舟では、流れのある場所でアランの漕ぎ方が変わった。
今日の船は、ずっと大きい。
「コレットさん?」
呼ばれて顔を上げた。
「戻ったら、船からどう見えたか教えてください」
言いたかった心配を、そのまま口にすることはできなかった。
ヴィクトルは頷いた。
「ええ。山も、見てきます」
彼が乗り込み口へ向かうのを、コレットは桟橋の手前まで見送った。
係留の縄が外される。
船尾の水が泡立ち、低い機関の音が響いた。大きな船がゆっくり岸を離れ、船着き場との間に青い水が広がった。
売店の女性が、そばへ来た。
「出たね」
「はい」
2人で見送った。
甲板のヴィクトルがこちらを向き、手を上げた。コレットも振り返す。彼が船の奥へ戻ってからも、しばらく手を下ろせなかった。
船は小島へ近づいた。
進む向きを少し変え、塔の脇を通っていく。コレットは鞄の紐を握っていた。船体が大きく傾くことなく向こうへ抜けたところで、ようやく息を吐いた。
売店の女性も、肩を下ろした。
「前は、朝になると、この音がしていたのよ」
遠ざかる機関の音へ、顔を向けている。
「梨を切りながら、船員さんが来たなって。6年も聞いていなかったのに、すぐ分かるものね」
船はやがて、小さくなった。
コレットは桟橋の端から離れ、女性と店へ戻った。待っている間、棚の端へ小皿を並べるのを手伝った。
「明日は、焼く分を増やすんですか?」
「船長が、出せると言ったらね」
女性は籠の梨へ手を置いた。
「対岸の実も、運べるようになるから。朝に摘んだものを、その日のうちに焼けるの」
コレットは窓の外を見た。船が戻る方角は、店の中からでも見えた。
*
昼を過ぎ、対岸へ無事に着いたという知らせが届いた。
船上の測定も問題なく、帰りの試験へ進むらしい。コレットは売店の女性と顔を見合わせた。まだ戻ってきたわけではなかったが、少し話しやすくなった。
包み焼きの生地は何で伸ばすのか。梨は皮を剥くのか。尋ねているうち、女性が小さな台を見せてくれた。
けれど、外で声が上がると、話は途中になった。
コレットは戸口へ出た。
小島の向こうに、船が見えた。
来るときより速く感じた。窓の列が分かり、甲板に立つ人の姿が見える。濃い色の上着を見つけると、コレットは桟橋へ数歩進んだ。
船が留まり、板が渡されるまで待った。
アランが先に降り、ユベールと記録を照らし合わせる。船員たちも、積んだ重りや船体の状態を報告していた。
その向こうから、ヴィクトルが来た。
「山が、綺麗に映っていました」
最初に、そう言った。
コレットは彼の顔を見た。
「真ん中から、見えたんですか」
「ええ。少し風はありましたが。岸から見ていたものとは、ずいぶん違いました」
彼は湖を振り返った。
「明日は、今日より穏やかになりそうです」
その話を覚えていてくれた。忙しい試験の間に、山を見て、戻ったら伝えようと思ってくれたのだ。
「お帰りなさい」
遅れて口にすると、ヴィクトルがこちらを向いた。
「ただいま戻りました」
いつもの丁寧な返事なのに、コレットは少し笑ってしまった。
彼の視線が、自分の手元へ下がった。握りしめていた鞄の紐を、そっと緩める。
「待っていてくださったんですね」
「はい。船、ずっと見ていました」
そこまで言って、桟橋の奥へ顔を向けた。アランが人々を集めている。
「往復とも、航路は正常でした」
声がよく通った。
「明日の朝から、人数と荷の重さを限って、運航を再開します」
売店の女性が、両手で前掛けを握った。
「朝の便を?」
「ああ。対岸の梨も積める」
誰かが笑い、切符売り場へ走った。閉じていた窓が開けられ、巻いて保管されていた時刻表が広げられる。
そのそばへ、箱を抱えた男が来た。薬を対岸へ運びたいらしい。別の女性は、向こうに住む母へ知らせてよいかと尋ねている。
コレットは、その間を通って切符売り場へ向かった。
「明日の朝、2人で乗れますか」
尋ねてから、隣のヴィクトルを見た。
彼は頷き、財布を取り出した。
「私の分は、こちらで」
少し慌てていた自分に気づき、コレットは場所を空けた。係の女性が2枚の切符へ時刻を押し、それぞれに渡してくれる。
薄い紙を受け取ると、ようやく明日の景色が近くなった。
売店へ戻り、女性にも切符を見せた。
「この便に合わせて、お願いできますか」
「もちろん。焼きたてを用意するわ」
女性は時刻を確かめ、店の中へ戻った。棚から大きな粉袋を出し、いつもより広い台を空けている。
ヴィクトルはユベールに呼ばれ、記録を渡しに向かった。
コレットもついていきかけたが、切符をしまうため立ち止まった。明日は工具も手袋も置いていける。旅行記と、小さな匙を持っていこう。
向こうで話を終えたヴィクトルが、振り返った。
「朝は、売店で待ち合わせますか?」
「宿から、ご一緒してもいいですか」
口にしてから、彼の返事を待った。
「ええ。迎えに伺います」
コレットは頷き、切符を旅行記の湖のページへ挟んだ。
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