第19話 小島の塔に灯るもの
船着き場には、まだ灯りがついていた。
コレットが近づくと、アランが小舟の中から顔を上げた。足元には道具箱が固定され、船首には畳んだ帆布が積まれている。
「おはようございます。朝は食べてきましたか」
「はい。宿で、パンを」
「それならよかった。島では、すぐ食事にできませんからね」
売店の窓からも明かりが漏れていた。梨を焼く甘い匂いに顔を向けると、店の女性が手を振ってくれる。
コレットも振り返し、桟橋へ進んだ。
ヴィクトルが先に小舟へ降り、片手を差し出した。
「縁を踏まず、こちらへ」
手を借りて降りると、舟が傾いた。思わず強く握る。彼はコレットが腰を下ろすまで手を離さず、落ち着いたのを確かめてから、向かいへ座った。
「大丈夫ですか」
「はい。思ったより、近くて」
手すりの代わりに低い縁があり、そのすぐ下で水が揺れていた。
アランが縄を解く前に、皆へ時計を見せた。
「塔を出るのは9時半。10時には島を離れます」
コレットも手帳を確かめた。昨日引いた線の下へ、出発した時刻を書いた。
小舟が岸を離れた。
櫂が水を押すたび、船首の脇で細い音がした。岸の灯りが長く伸び、舟の通ったあとから崩れていく。
遠くの山は、まだ青黒かった。
コレットは振り返りかけ、揺れに気づいて前を向いた。今日は景色を見に行く日ではない。帰りの時刻までに、塔の設備を確かめるのだ。
島へ近づくと、水面に斜めの筋が現れた。
アランが櫂を深く入れ、舟の向きを変える。動きに合わせて肩掛けが滑り、コレットは胸元で押さえた。
向かいのヴィクトルが、小島の桟橋を示す。
「あちらへつけるそうです」
石の塔の下に、短い桟橋があった。ユベールが先に上がって舟を留め、道具箱を受け取った。
島の道は、草が刈られていた。
足元の石に新しい継ぎ目があり、塔の扉も滑らかに開いた。中へ入ると、乾いた木と油の匂いがする。
「嵐で屋根を傷めたので、そこは先に直しました」
ユベールが窓を開けた。棚の工具には布が掛けられ、床の隅には掃除道具が揃っている。
「盤へ水が入るのだけは、防ぎたかったんです」
中央の制御盤は、岸で見たものより大きかった。
枠が3つに分かれ、その下から太い管が床へ伸びている。蓋を開けると、中央の結晶の根元に細かな部品が落ちていた。
「左で流れを測り、中央で弱める強さを決めます。右から湖底の装置へ指示を送るんです」
ユベールは中央を指した。
「ここが止まって、測ったものが先へ伝わらなくなりました」
湖底の装置へ送る線を外し、動力の遮断を確かめる。ヴィクトルが記録を終えてから、コレットは枠へ手を添えた。
左側は、収まっていた。
中央では、結晶の下を通る線が切れている。右側にも、外れた留め具があった。奥へ意識を向けると、それぞれの戻る場所が分かった。
「中央と右を戻します。部品は、受け皿に残っているもので足りそうです」
ユベールが頷き、盤の前を空けた。
コレットは力を流した。
小さな金具が持ち上がり、溝の端へ収まる。その下を曲がった線が通り、結晶の根元へ近づいていった。
いつものように、1つずつ。
急いだところで、確かめる時間まで増えるわけではない。線が重なるのを待ち、次の部品へ意識を移した。
中央の結晶が、わずかに向きを変えた。
途切れていた感覚が、奥へつながる。
コレットは一度手を離した。
「中央は戻りました」
ヴィクトルが顔を上げる。
「右へ進む前に、こちらを確認します」
少し休めることに、ほっとした。窓の外は明るくなっていたが、塔の中は肌寒い。それなのに、額には汗がにじんでいる。
ユベールが接続を確かめる間、コレットは水を飲んだ。
やがて呼ばれ、右側へ触れる。外れた留め具を戻し、浮いた線を固定する。最後に小さな板が台座へ収まると、それ以上動かすところはなくなった。
「終わりました」
顔を上げた途端、壁の時計が目へ入った。
9時を少し過ぎている。
思ったより時間が経っていた。コレットは椅子へ座り、両手を膝へ置いた。細かなものを追い続け、目の奥が重かった。
「あと少し、試せますか」
尋ねると、ヴィクトルは時計を確かめた。
「この盤だけなら。ただ、結果にかかわらず9時半には出ます」
彼は窓を少し広く開けた。湖から風が入り、コレットの額を冷やす。
「こちらは任せて、休んでいてください」
ユベールが試験器をつないだ。
湖底の装置は動かさず、盤へ弱い魔力だけを流す。中央の結晶に、淡い光が灯った。
試験器のつまみが回された。
左の針が動き、少し遅れて中央の針も上がる。つまみを戻すと、両方が下がった。
右の結晶まで、光が届いた。
ユベールは口を開きかけ、そのままもう一度試した。今度は途中で止める。針はその位置を保ち、手を戻すと、滑らかに下がった。
「返ってきます」
彼は試験器から手を離さず、ヴィクトルを見た。
「測った強さに、応答している。6年間、ここで止まっていたのに」
戸口にいたアランが入ってきた。
「どうだ?」
「盤は動いています。岸へも信号を送れます」
アランは結晶へ近づき、目を細めた。
「船の試験は、準備してからだな」
「ええ。今日は、応答だけ確かめます」
ユベールが岸へ送る線をつなぎ直した。
盤の端には、昨日見たものと同じ3つの小さな結晶がある。その中央へ、青い光が灯った。
「岸でも、今これが点いたはずです」
コレットは椅子から立ち、少し近づいた。
ここで戻した線の先が、湖を越えて岸へ続いている。あの暗かった結晶を、管理所の人たちが見つけてくれただろうか。
ヴィクトルが時刻を書き留めた。
ユベールは盤の端へ視線を走らせ、別のつまみへ手を伸ばしかけた。そこで時計を見て、手を下ろす。
「続きは、次ですね」
「戻りましょう」
ヴィクトルが記録を閉じた。
コレットも鞄を取り、椅子を壁へ戻した。
*
帰りは、行きより水音が大きかった。
島を離れるところで舟が傾き、コレットは縁を握った。櫂の先から跳ねた水が肩掛けへかかったが、手を離して拭く余裕はなかった。
アランは岸を真っすぐ目指さず、少し斜めに進んだ。
コレットは、その背中の向こうに船着き場を探した。近づいてきたとき、ようやく指の力が緩んだ。
桟橋には、売店の女性が立っていた。
舟が留まるのを待ちきれないように、夫へ声をかける。
「真ん中が点いたよ。管理所の結晶。島からなの?」
「ああ。盤が動いた」
女性は口元を押さえ、それからコレットへ向き直った。
「ありがとう」
コレットが舟から上がると、管理所からも人が出てきた。ユベールを囲み、盤のどこが戻ったのかと尋ねている。
岸へ届いたのは、ちゃんと見つけてもらえていた。
ほっとして立っていると、ヴィクトルがそばへ来た。
「肩掛けが濡れていますね」
端を持ち上げると、水が落ちた。
「宿で乾かします」
「その前に、少し温まりましょう」
売店の女性が頷き、店の奥へ入った。
コレットは腰掛けへ座り、濡れていない部分を膝へ掛けた。作業が終わった途端、疲れが出てきた。湖を眺めるつもりが、目を閉じたくなる。
温かな茶が運ばれてきた。
「甘いものも、食べられるよ」
女性が炉の方を示す。コレットは一瞬迷い、それから首を振った。
「ありがとうございます。今日は、お茶だけで」
「そう? じゃあ、船に乗る日にね」
「はい」
女性が店へ戻ると、ヴィクトルも隣へ座った。
「このあと、管理所へ行かれますか?」
「報告を聞いてからと思っていましたが……まず宿へ戻ります」
そう答えると、彼も頷いた。
「続きは、夕方にお伝えします」
コレットは杯を両手で包んだ。待っていなくても、あとで話を聞ける。そのことが、今はありがたかった。
管理所から、また声が上がった。
ヴィクトルが顔を向ける。呼ばれたのかと思ったが、彼は立ち上がらなかった。
「そちらは、よろしいんですか」
「お茶を飲んでからで大丈夫です」
コレットは彼の杯を見た。自分と同じくらい、まだ湯気が立っている。
急いで飲まなくてよかった。そう思い、もう一口、ゆっくり口をつけた。
帰り道、宿の角まで来たところで、コレットは立ち止まった。
「今日は、一緒に来てくださって、心強かったです」
ヴィクトルがこちらを向いた。
「戻る時刻も、私だけなら気になって、何度も時計を見ていたと思います」
「きちんと確かめていらっしゃいましたよ」
「でも、任せられたので、作業に集中できました」
言い終えると、彼は少し黙った。それから、いつもより柔らかな声で答えた。
「私も、ご一緒できてよかったです」
コレットは頷き、宿の戸へ手を掛けた。
部屋へ戻ったら、まず肩掛けを干そう。今日のことは、そのあとで書けばいい。
窓辺へ広げる布には、小さな水の跡がいくつも残っていた。
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