第18話 船の来ない船着き場
湖が見えたのは、坂を下り始めてすぐだった。
木々の間に青い水面が現れ、その向こうへ山が重なっている。コレットが窓へ寄ると、枝に隠れ、次の曲がり角でまた広がった。
「見えました」
ヴィクトルも顔を向けた。
岸辺の葦の向こうに、逆さまの山があった。馬車が揺れるたび下半分が見えたり隠れたりして、コレットはもっと高い位置から見ようと背を伸ばした。
「真ん中なら、全部見えるんですね」
「ええ。今日は、風も弱いようです」
窓の外を見たまま答える彼の隣で、コレットも湖を眺めた。水面には小さな白い鳥が浮かび、その跡だけが細く揺れていた。
湖畔の町へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
宿で軽い食事を取り、部屋へ荷物を置く。コレットは寝台に腰を下ろしたが、窓から湖が見えると、やはりじっとしていられなかった。
今日は、船着き場まで。
鞄へ旅行記と財布を移し、厚い本を何冊も抱えたまま出歩かないよう、荷物を確かめた。
階下へ降りると、ヴィクトルは主人に道を聞いていた。
「私も、船着き場へ行こうと思っていました」
コレットが言うと、彼は戸口を示した。
「では、少し歩きましょう。管理所への挨拶は、明日の朝になりました」
湖へ続く道には、梨を載せた荷車が止まっていた。黄色い実の間に藁が詰められ、店の人が傷のないものを選んで棚へ並べている。
建物を抜けた先で、視界が開けた。
石造りの船着き場に、大きな船がつながれていた。
窓がいくつも並び、甲板には腰掛けがある。白く塗られた手すりも綺麗で、今にも人が乗り込んできそうだった。けれど入口には縄が張られ、切符売り場の窓は閉まっていた。
コレットは船の名前を読んだ。
旅行記の船と、同じ名前だった。
「ずっと、手入れしているんですね」
ヴィクトルが頷き、船体の脇へ目を向けた。
「新しく塗り直した跡もあります」
そのとき、甘い匂いがした。
コレットが振り返ると、売店の女性が炉から天板を引き出していた。丸い生地の上をひねった、あの形が並んでいる。
気づけば、店先へ近づいていた。
「梨の包み焼きですか?」
「そうよ。今、焼けたところ」
天板の上で、薄い生地の縁がこんがり色づいていた。ひねった部分の脇から、果汁が少しにじんでいる。
女性が木の皿を取った。
「食べていく?」
コレットは頷きかけ、鞄から旅行記を出した。
船で山を眺めながら食べた。その一文を、ここへ来るまで何度も読んでいた。
「あの、朝にも焼いていらっしゃいますか?」
「ええ。数は少ないけれどね」
「船が出る朝には、間に合うように買えますか」
女性の手が止まった。
コレットは本の絵を見せた。
「これを読んで、来たんです。私も、船の上で食べてみたくて」
女性は前掛けで指を拭き、ページを覗いた。売店の絵を見つけると、少し目を細める。
「炉の場所は、今も同じねえ」
「同じ形のお菓子があって、嬉しくて」
「包み方は、母から教わったのよ。その母も、祖母から」
女性は船を見た。
「前は、朝の最初の便に合わせて焼いていたの。乗る前に買って、窓際で食べる人が多くてね」
「また船が出るときには、お願いできますか?」
まだ、いつになるかも分からなかった。それでも聞くと、女性は頷いた。
「もちろん。その朝は、早く火を入れるわ」
コレットは礼を言った。
店を離れてからも、甘い匂いがついてきた。ヴィクトルが隣から売店を振り返る。
「今日は、よかったんですか」
「食べたいです。でも、できれば船で」
口にすると、惜しい気持ちが少し強くなった。今、戻って頼めば、まだ温かいものを買える。
ヴィクトルは何も勧めず、湖へ顔を向けた。
「では、乗る日の楽しみに」
コレットは頷いた。桟橋の先まで歩くと、さっきの匂いも薄くなった。
*
翌朝、管理所で出迎えてくれたのは、日に焼けた男性だった。
「船長のアランです。昨日、妻の店へいらしたそうですね」
売店の女性の夫だった。隣には、細身の設備士が立っている。
「設備を担当しているユベールです。まず、湖の状態をご説明します」
卓へ広げられた図には、岸と、小島と、対岸の3か所に印があった。
「湖の水は、場所によって流れが強くなります。古代の設備がそれを弱めて、重い渡し船でも安定して通れるようにしているんです」
ユベールの指が、小島で止まった。
「6年前の嵐のあと、ここが動かなくなりました。両岸は正常ですが、島を通る区間を調整できません」
「小舟は、渡れるんですか?」
「風や流れを見て、時間を選べば。ですが、人や荷を載せた渡し船は出せません」
コレットは旅行記を開き、湖岸の設備を修繕した記述を見せた。
ユベールは読み、それから棚の記録簿を取った。
「こちらにも残っています。当時は岸の制御器を直したそうです。今回は、島の方ですね」
同じ景色を楽しむためでも、ご先祖と同じ場所へ行けば済むわけではないらしい。
ヴィクトルが図へ身を寄せた。
「島の設備棟までは、入れますか」
「道も建物も点検しています。屋根は今年、葺き直しました」
「では、渡れる日に状態を確かめたいのですが」
アランは窓から湖を見た。
「明朝なら、出せそうです。ただ、戻る時刻は守ってください。作業の途中でも、流れが強くなる前に岸へ戻ります」
コレットは手帳を出した。行きの時刻と、塔を出る時刻を分けて書く。
ヴィクトルも同じ内容を確かめ、アランへ頷いた。
「間に合わない作業は、次に回します」
話が決まると、今日は岸の制御器を見せてもらうことになった。
船着き場の下の部屋では、盤に淡い光が灯っていた。点検できるよう動力を切ってもらい、コレットは枠へ触れる。
線も結晶も収まっていた。少し探ったが、戻すところは見つからない。
「こちらは、大丈夫だと思います」
「測定でも正常です」
ユベールは盤の端を示した。3つ並んだ小さな結晶のうち、中央だけが暗い。
「左がこちらの岸、真ん中が島、右が対岸。今は島からの応答が来ません」
コレットは中央の結晶を見た。
小さな暗がりだった。けれど、その先で大きな船が止まっている。
部屋を出ると、アランが船の入口の縄を外した。
「よければ、甲板へどうぞ。出せませんが、見ていただくくらいなら」
乗り込み板を渡ると、足元が少し揺れた。コレットは手すりを握り、止まるのを待ってから進んだ。
甲板からは、岸よりも遠くまで見えた。
小島の塔が水面に立ち、その向こうに山が重なっている。昨日、馬車から見えなかった裾まで見渡せたが、船の脇では波が揺れ、逆さまの山は細かく崩れていた。
「出たら、あの辺りで山が横へ来ます」
アランが湖の真ん中を指した。
「流れの弱いところで少しゆっくり進むんです。窓から見ていた人も、甲板へ出てきてね」
コレットは、そこへ船が進んでいくところを思い描いた。
手すりの向こういっぱいに山が映り、対岸から鐘が聞こえる。売店で買った包み焼きは、膝の上にまだ温かい。
「乗ってみたいです」
思わず言うと、隣のヴィクトルも同じ山を眺めていた。
「ええ。あの真ん中まで」
彼はコレットへ顔を向けた。
「帰りの予定は、すぐには決めずにおきましょう」
「はい」
その返事だけで、少し気が楽になった。自分だけが名残を惜しんでいるのではない気がした。
アランが操舵室を見せようと、奥の戸を開けた。ヴィクトルの目がそちらへ向いたので、コレットは笑った。
「見せていただきましょう」
「コレットさんも?」
「はい。どうやって動かすのか、少し気になります」
2人で甲板を横切った。磨かれた窓の中には、使い込まれた舵輪があった。
*
夕方、コレットは宿の部屋で明日の荷物を整えた。
手袋と水筒。小さな布と、父が選んでくれた道具袋。島へは、必要なものだけ持っていく。
手帳を開くと、ヴィクトルと確かめた時刻があった。
塔を出るのは9時半。
その下へ、自分で線を引いた。
窓の外の湖は、夕日の色に染まっていた。小島の塔が、黒い影になっている。
コレットは部屋の戸口で立ち止まり、いったん鞄へ戻った。厚い肩掛けを取り出して椅子へ置く。明日は暗いうちに出るのだ。朝になって慌てないよう、留め具まで外しておいた。
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