第17話 最後の旅先は、鏡の湖
祭りのページへ紙を挟むと、旅行記の表紙が少し浮いた。
コレットは両手でそっと押さえ、それから先をめくった。温泉町を出た朝は、増えた紙はまだ1枚だった。今は港と高原、それに昨夜の灯祭りの記録がある。
朝食の卓に、湖の絵を開いた。
岸辺の家々と遠くの山が、水の中にも描かれている。初めてこの絵を見たとき、幼いコレットは、下にも山があるのかと母へ尋ねた。
『風のない朝は、船で向こう岸へ。湖の真ん中で振り返ると、山が上下に見える』
セレーヌ湖。
旅立つ前から、今回の最後に訪ねようと決めていた場所だった。
「次は、こちらです」
向かいのヴィクトルへ本を向けると、彼は杯を置いた。
「湖ですね」
「はい。ここから帰るつもりで、家にも伝えています」
ヴィクトルは地図を取り出しかけ、手を止めた。
「では、もう最後の目的地なんですね」
「……そうなりますね」
自分で決めていたことなのに、口にすると少し意外だった。まだ、次のページを選んで旅を続けられる気がしていた。
窓の外では、屋台の天幕が畳まれている。昨日の夜には人で埋まっていた道を、荷車がゆっくり通っていった。
コレットは湖のページへ目を戻した。
「こちらのお菓子も、食べてみたかったんです」
船着き場の売店の脇に、丸い包み焼きが描かれていた。薄い生地の上をひねって閉じ、中から梨が覗いている。
『梨の包み焼きは、焼きたてを。船で山を眺めながら食べた。底の生地まで果汁が染みているので、残さないこと』
ヴィクトルが文章を読み、絵へ目を移した。
「梨は、今が収穫の時期だったと思います」
「では、間に合いそうですね」
コレットが頷くと、彼も地図を広げた。湖までは途中で2泊。急がずに進める道を、2人で確かめた。
船旅の感想の前には、修繕の記述もあった。
『渡し船が出なかったので、湖岸の設備を修繕した。翌朝は風がなく、対岸の鐘がよく聞こえた』
「船の便は、途中の町で調べておきます」
ヴィクトルはそう言って、乗り継ぎの町へ印をつけた。
コレットも出発時刻を手帳へ書いた。まだ湖へ着いていないのに、旅の残りを数えるのはやめておいた。
*
ヴァレリアを発つ前に、ヴィクトルは設備工房へ寄った。
コレットもロランへ挨拶をし、橋の絵を1枚もらった。花が灯ったところを描いた、祭りの案内だった。
「お父上にも、ぜひ。通常の夜は明るさを抑えますが、橋の灯りはこれからも使います」
工房では、若い職員が昨夜の記録を清書していた。色の変わる間隔を、実際の光と照らして確かめたという。
ヴィクトルが受け取った資料は、厚い封筒に収められた。帰る頃には、その脇にもう1通、別の手紙を持っていた。
馬車が町を離れ、平らな道へ出てから、彼が封筒を差し出した。
「ご実家からです。私宛てですが、あなたにも読んでいただきたいものが入っています」
「父から?」
中には手紙と、古い書き置きの写しがあった。
『家に残るベアトリスの覚え書きを調べた。気になる箇所を写して送る。娘の話と似ているが、これだけで判断せず、そちらの記録とも照らしてほしい』
コレットは次の紙を取った。
旅行記で見慣れた、少し傾いた字が写されている。
『知らない盤でも、触れると、どこへ戻すか分かる。仕組みを尋ねられると困る。直したあとに、その土地の設備士へ教わることが多い』
読み終えてから、もう一度最初へ戻った。
「私と、同じです」
ヴィクトルが頷いた。
「ベルネで、そう話してくださいましたね」
「ご先祖も、どうして分かるかは知らなかったんでしょうか」
「この書き方では、そう読めます。ただ、当時の作業記録も確認したいと思います。図面があったか、事前に構造を習っていたか。それが分かれば、判断の根拠になります」
コレットは紙の端を持ち直した。
ベアトリスは、何でも知っている人だと思っていた。知らない土地へ出かけ、古い設備を直し、食べたいものを食べて帰ってくる。自分には、そのうちの旅を楽しむ部分しか真似できないと思っていた。
ところが、ご先祖も説明に困っていたらしい。
指を添えると戻す場所が分かり、あとで人に教わる。自分と同じ順番で仕事をしていたのだ。
「父は、この本を何度も見ていたのに、気づかなかったんですね」
「お父上の手紙に、そのこともありました。ご自宅で扱う設備では、構造を学んでから直していたので、違いを確かめる機会がなかったと」
コレットは父の文章を読み進めた。
『教えたとおりにできていると思っていた。お前も、そう思っていただろう。知らない設備で試さなかったのは、間違いではない』
最後の一文を、しばらく見ていた。
ヴィクトルは続きを急かさなかった。コレットが紙を重ねると、しまいやすいよう封筒を開いてくれた。
「この写しは、私が持っていても?」
「もちろんです。私の分も入っています」
コレットは旅行記と同じ場所へ収めた。見慣れた表紙が、今までより少し身近に感じられた。
*
翌日の午後、乗り継ぎの町で、ヴィクトルは保全局の出張所を訪ねた。
湖への連絡と、ベアトリスの作業記録の照会を頼むためだった。報告を出す際、家から届いた写しのことも親展で伝えるという。
コレットは用事が済むまで、近くの広場で待つことにした。
大きな木の下へ座り、母の追伸を読む。温泉卵はうまくできたらしい。父が先に制御盤の図を広げたので、食べる間だけ片づけてもらったと書いてあった。
笑っていると、隣の腰掛けから甘い匂いがした。
旅支度の女性が、紙包みを開いている。丸い菓子の上を割ると、中から蜜色の梨が現れた。
コレットは、つい見てしまった。
「これ? 湖の船着き場で買ったのよ」
目が合うと、女性が笑って包みを少し上げた。
「すみません。旅行記に載っていて、気になっていたものですから」
「あら、湖へ行くの?」
「はい。明日、着く予定です」
「なら、朝に買うといいわ。炉から出したばかりは、生地が軽くてね」
女性は欠片をつまみ、膝へ落ちないよう手を添えて食べた。
コレットは本の絵と同じ形だと分かり、嬉しくなった。
「船に持って乗れるんですよね」
尋ねると、女性は少し顔を曇らせた。
「今は、大きな渡し船が出ていないの。私は荷物があるから、岸を回る馬車で来たんだけど、時間がかかってね」
「船が、故障しているんですか?」
「湖の流れを整える設備だそうよ。小舟は見かけたけれど、詳しくは分からないわ」
コレットは礼を言い、湖の絵へ目を落とした。
菓子は買える。けれど、船から山を見ることはできないかもしれない。
あとから戻ってきたヴィクトルへ話すと、彼も同じ知らせを聞いていた。
「島の設備が止まっているそうです。現地で、管理している方に伺いましょう」
「ご先祖が直したのは、湖岸でしたよね」
「ええ。同じ場所かどうかも、確認が必要です」
コレットは本を閉じた。まだ見てもいない設備を、直せるとは思わなかった。ただ、話は聞きたかった。
宿へ向かいかけたところで、ヴィクトルが足を止めた。
「もう1つ、照会の返事が来ています。ベアトリスについてです」
コレットも立ち止まった。
「以前、こちらの出張所から調べてもらっていた記録がありまして。修繕を頼んだ側の報告が見つかりました」
通りを荷車が過ぎた。ヴィクトルは声を落とす。
「当時も中核の図面がなく、担当者には直せなかったそうです。ベアトリス自身も、内部の構造を知らないと答えています」
宿の小さな客間を借り、2人で資料を並べた。
コレットが実際に行った作業。家に残っていた、ご先祖自身の感覚。そして、別の場所に保管されていた当時の記録。
ヴィクトルは1つずつ確かめ、コレットへ向き直った。
「ベアトリスも、《復元》の使い手だったと考えるだけの根拠が揃いました」
コレットは、旅行記の表紙へ手を置いた。
自分の力を知ったときから、父に尋ねても答えのないことがあるのだと感じていた。困ったとき、誰に聞けばよいのかも分からなかった。
「ご先祖も、知らないものを直すのは、怖かったでしょうか」
ヴィクトルは写しへ目を落とした。
「そのことは、まだ分かりません」
少し間を置き、続けた。
「ただ、直したあとで設備士に教わったとあります。1人で全部決めていたわけでは、なさそうですね」
コレットは頷いた。湯を流す判断をしたマルセルや、庭園の重さを合わせたイレーヌを思い出した。
「私も、その方が安心です」
「ええ。湖でも、一緒に話を聞きましょう」
コレットは顔を上げた。
ヴィクトルは資料を揃えながら、返事を待っていた。すぐ隣に相談できる人がいる。そのことを、今は素直に心強く思った。
「お願いします」
旅行記へ湖のページを開く。
山の絵の下に、梨の包み焼きがあった。明日、あの売店を見つけたら、まず船が出る朝にも焼いてもらえるか聞いてみよう。
ヴィクトルが、隣から絵を覗いた。
「最後の旅先ですから。少し長く泊まれるよう、宿も相談しておきましょうか」
コレットは頷いた。
湖を急いで発たなくてよいことが、菓子の話を聞いたときとは違う嬉しさで、胸に残った。
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