第16話 川に咲く花と、蜜焼き栗
髪飾りは、3度目でようやく留まった。
コレットは鏡の前で顔を傾けた。耳の上に、水色の小さな花が見える。昨日と同じ場所のつもりなのに、少し高い気もした。
触り直そうとして、手を下ろす。
もう、これでいい。
肩掛けを取り、部屋を出た。階段を下りる途中で、食堂の入口に立つヴィクトルが見えた。濃紺の上着を着て、今日は小さな財布だけを手にしている。
コレットに気づくと、彼は顔を上げた。
「お待たせしました」
「いえ、私も今――」
そこで言葉が途切れた。
視線が髪へ向いたのが分かり、コレットは耳のそばへ手をやった。
「うまく留められていませんか?」
「いえ。似合っています」
昨日、屋台でも聞いた言葉だった。それでも、支度をして降りてきた今、もう一度言われると、顔を上げたままでいづらかった。
「ありがとうございます。自分でつけると、難しくて」
ヴィクトルは留め具の見える側へ、少し目を移した。
「しっかり留まっているように見えますよ」
コレットはそっと手を離した。
彼が戸を開ける。外の賑わいが流れ込み、立ち止まっていたことに気づいて、コレットも歩き出した。
ヴィクトルは半歩遅れて続いた。
毎日、隣を歩いている。髪を結ぶ仕草も、風に乱れて直すところも見てきた。今日は小さな飾りが1つ増えただけなのに、顔へ目が向いてしまった。
自分が似合うと言ったものを、選んでつけてきた。
そのことが思いのほか嬉しく、次に何を話すか、いつもより少し考えた。
*
川へ続く通りは、人でいっぱいだった。
屋台の灯籠が揺れ、店先に吊るされた色紐へ子供たちが手を伸ばしている。焼けた肉や甘い生地の匂いに交じり、栗を炒る香ばしさがした。
「あちらですね」
ヴィクトルが示した先に、鉄鍋が見えた。
列へ並ぶと、鍋の熱が顔に届く。男が栗を返すたび、皮が乾いた音を立てた。奥では別の店員が焼けた栗を剥き、黄色い中身を大きな器へ移している。
コレットの番になると、男は顔を覚えていたらしく笑った。
「今日は食べていくんだね」
「はい。袋を2枚にしていただけますか」
「そうだったね。旅行記の」
重ねた紙袋へ栗が入った。
蜜が細く回しかけられ、割れた表面へ染みていく。最後に少し塩を振ると、艶のある栗が袋の中で揺れた。
「底を持ってね。串は、こちら」
受け取ると、紙越しにも温かかった。
ヴィクトルも自分の分を買い、2人で石段へ向かった。昨日は空いていた場所に、もう家族連れが座っている。少し下へ降りたところに空きを見つけ、並んで腰を下ろした。
目の前には、まだ透明な花の並ぶ橋があった。
コレットは串で栗を刺した。持ち上げると蜜が伸び、袋の中へゆっくり落ちる。息を吹きかけてから、端を少し齧った。
焼けた表面が香ばしく、中はほくりと崩れた。温かな蜜が栗の隙間へ入り、噛むほどに甘さが広がる。あとから、かすかな塩気が残った。
コレットは袋を覗き込んだ。
まだ、たくさんある。
「おいしいですか?」
尋ねられて、頷く。
「はい。蜜が熱いんですけど、それがおいしくて」
ヴィクトルも食べ、少し目を細めた。
「栗だけでも甘いですね」
「塩も、いいですよね。もう1つ食べたくなります」
彼が頷いたところで、橋のたもとがざわめいた。
ロランが制御室の前に立っていた。対岸へ向けて合図を送り、待っていた職員が手を上げる。
鐘が鳴った。
橋の最初の花に、金色の光が灯った。
隣へ、その隣へ。欄干に沿って、花が次々に開いていく。
コレットは串を袋へ戻した。
対岸へ光が届く頃、こちら側の花が薄紅色へ変わった。金色と薄紅が橋の途中で重なり、川面へ長く映る。
続いて青白い光が追いかけた。
暗かった橋の形が浮かび上がり、その下を流れる水まで色づいた。揺れるたび、花の影が細くほどけ、また新しい光を映した。
対岸から歓声が上がった。
こちらの石段でも、誰かが手を叩いた。隣の子供が父親の膝へ乗り、年配の女性は連れの腕を握っている。
「全部、点いたねえ」
その声が震えていた。
コレットは橋から目を離せなかった。昨日の1輪だけでも綺麗だった。けれど、端から端まで続くと、空間そのものが変わって見える。
「こんなふうに、なるんですね」
隣へ話しかけると、ヴィクトルが頷いた。
「ええ。図だけでは、分かりませんでした」
彼も川面まで見ていた。今夜は誰も計器の値を彼へ伝えに来ない。仕事の終わった手が、栗の袋を持って膝の上にある。
コレットは串を取り、もう1つ食べた。
少し冷めた栗には、蜜がよく絡んでいた。橋を眺めながらゆっくり噛んでいると、薄紅の光が手元にも届いた。
「本当に、蜜まで色が変わります」
袋を少し傾けて見せると、ヴィクトルが覗き込んだ。
「今は、赤みがかっていますね」
次の光を待つ間、2人とも袋の中を見ていた。青白く変わると、金色だった蜜が淡く光った。
コレットは笑ってしまった。
「橋を見に来たのに」
「そちらも見ましょう」
彼も笑い、顔を上げた。
*
栗を食べ終えた頃には、石段の上まで人が座っていた。
コレットは空いた袋を畳み、鞄へしまった。腰を下ろしていた石は冷たかったが、立ちたくはなかった。
隣でヴィクトルが時計を見た。
そろそろ帰るのだろうか。そう思い、コレットも肩掛けを直した。
「もう少し、いてもいいですか」
口にしてから、彼を見た。
ヴィクトルは時計をしまった。
「ええ。寒くありませんか?」
「まだ、大丈夫です」
「では、もう少し」
彼が座り直したので、コレットも膝の上の手を緩めた。
橋の色が、何度も変わっていく。近くで小さな子供が眠り始め、母親が上着を掛けていた。屋台の呼び声は少し遠くなり、川の音がよく聞こえた。
話さなくても、帰ろうとは思わなかった。
やがてヴィクトルが口を開いた。
「明日は、何も予定を入れていません」
コレットが顔を向けると、彼は川を見たまま続けた。
「昼は、少しゆっくりしてもよさそうですね」
「はい。今日は、夜更かしになりそうなので」
彼がこちらを見て笑った。
コレットも笑い、もう一度橋へ向き直った。明日の朝を急がなくてよいと分かると、今夜の時間が少し長くなった気がした。
宿へ戻る道は、来たときより空いていた。
石段を上がったところで、ヴィクトルが手を差し出した。コレットは借りて立ち上がり、道へ出てから離した。
それだけのことだったのに、並んで歩き始めると、隣の手の位置が気になった。
髪飾りへ触れて気を紛らわせる。花は、朝に留めた場所にきちんと残っていた。
「落ちずに済みました」
思わず言うと、ヴィクトルが髪へ目を向けた。
「ええ。よかったです」
少し間があってから、彼が続けた。
「買った日に、明日つけるとおっしゃっていたので。楽しみにしていました」
コレットは返事を探した。
祭りの屋台には、まだ明かりがついている。人も歩いているのに、今は彼の声だけが近かった。
「……つけてきて、よかったです」
それだけ答え、前を向いた。
宿の灯りが見えるまで、髪飾りにはもう触らなかった。
*
翌朝は、ゆっくり起きた。
食堂へ降りると、ヴィクトルも来たばかりだった。朝食を待つ間に、コレットは旅行記へ挟む紙を広げた。
『橋の花は、金色から薄紅、青白へ変わる。石段から見ると、川にも花が映る』
続けて、栗のことを書く。
『蜜焼き栗は、袋を2枚に。少し塩が利いていて、熱いうちはほくほく。灯りを見ているうちに冷めても、おいしい』
筆を止め、昨夜の帰り道を思い出した。
髪飾りは部屋の鏡の前に置いてある。今日はつけてこなかったが、次の町でも、どこかで使いたかった。
最後に、一行だけ書き足す。
『帰る時刻は、早く決めなくてよい』
向かいでヴィクトルが、運ばれてきたパン籠をこちらへ寄せた。
「書けましたか?」
「はい」
コレットは紙を乾かしながら、彼の顔を見た。昨夜の言葉を思い出すと、まだ少し照れた。
「昨日は、ありがとうございました」
「私も、楽しかったです」
返事に、仕事の話は続かなかった。
コレットは頷き、温かなパンを1つ取った。
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