第24話 旅行記の、その先へ
家の門が見えたとき、コレットは鞄を抱え直した。
庭の木が、出発した日より黄色くなっている。工房の戸は開いていて、中から聞き慣れた金槌の音がした。
「ただいま」
声をかけると、奥で音が止まった。
最初に出てきたのは母だった。前掛けで手を拭きながら近づき、コレットの顔を見た途端、両腕を広げる。
「お帰りなさい」
抱きしめられると、家の石鹸の匂いがした。
道中は、帰ったら何から話すか考えていた。それなのに、母の肩へ顔を寄せたら、言葉より先に息が漏れた。
「疲れたでしょう。荷物は置いて。お父さん、コレットが帰ったわよ」
「聞こえているよ」
工房から父が出てきた。
エドモンは娘の顔を確かめ、それから鞄へ目を向けた。
「増えたな」
「お土産があるの。図面も」
「それはあとでいい。まず、上がりなさい」
父が重い方の鞄を受け取った。
家の廊下は、旅先の宿より狭く感じた。自分の部屋へ入ると、出発した朝に使った髪紐が、鏡の前に置いたままだった。
コレットは窓を開けた。
向かいの屋根も、庭の物干しも変わっていない。
椅子へ座り、ようやく鞄を下ろした。
*
夕食には、温泉卵が出た。
小鉢の中で、白身が柔らかく揺れている。母は卓へ置くと、コレットの顔を覗いた。
「どうかしら。手紙のとおりに作ったつもりなんだけど」
匙で黄身を崩し、だしと一緒に口へ運ぶ。
干し川魚の香りがした。
「おいしい。お風呂で食べたのと、よく似てる」
「よかった。お湯の加減だけは、何度か試したのよ」
コレットはもう一口食べた。ここには山風も湯気の立つ露天風呂もない。代わりに、向かいで父がパンを切り、母が匙を持って自分の返事を待っている。
「お風呂も、本当に絵のとおりだったの」
話し始めると、次々に思い出した。
湯のない浴槽を掃除していたエルザ。20年ぶりに流れた湯の音。海の下で歯車を取り付けた職人たち。庭園から見た雲と、川に映った花の灯り。
食事のあと、父へ図を広げて見せた。
エドモンは源泉設備の図を見比べ、港の歯車の寸法を確かめた。庭園の記録では、調整輪が戻った位置へ指を置く。
「動かす前に、ここを控えたんだな」
「うん。輪も変わりそうだったから」
「そうか」
父はもう一度図を見てから、コレットへ顔を向けた。
「よく気がついた」
子供の頃から、何度も褒めてもらった。その一言が嬉しいのは、今も変わらなかった。
「知らないことばかりだったよ。皆さんに教えてもらわなかったら、直したあと、どうしていいか分からなかったと思う」
「向こうの設備士にも、お前でなければできなかった仕事があったんだろう」
コレットは頷いた。
父は図を揃え、折れないよう封筒へ戻した。
「いい旅をしてきたな」
「……うん」
答えると、母が茶を置いた。
「景色の話も、まだ聞いていないわ。仕事の話で終わらせないでね」
コレットは旅行記を開いた。挟んだ紙が何枚も広がり、母が目を丸くする。
「こんなに書いたの?」
「忘れたくなくて」
湖のページを開くと、小さな船の窓と、2つの容器を描いた紙があった。
「これは、梨のお菓子?」
「そう。ヴィクトルさんと、船で食べたの」
母が絵を見て微笑んだ。
コレットは次の紙へ移りかけ、やめた。もう少し、その朝のことを話したかった。
*
数日後、台所には梨を煮る甘い匂いが広がっていた。
母が伸ばした生地へ、コレットが梨を載せる。売店で教わったとおり、柔らかく煮たものと、少し硬さを残したものを混ぜた。
「これくらい?」
「もう少し減らした方がいいかも。私、最初に入れすぎたから」
端を寄せて閉じると、母の作ったものは綺麗な丸になった。
コレットの方は、やはり少し傾いている。
「お母さん、初めてなのに上手」
「あなたが教えてくれたからでしょう」
天板へ並べながら、コレットは首の曲がった包みを直した。
「ヴィクトルさんに食べてもらったものも、こんな形だったの」
「その方は、何て?」
「おいしいって。底も破れていないって、最後まで食べてくれた」
思い出すと、顔が緩んだ。
母は生地の端を折り、何でもない調子で尋ねた。
「また会えるの?」
コレットは手を止めた。
「春に、一緒に旅へ行こうって話しているの。まだ、日は決まっていないけど」
「そう。今度は、どこへ?」
花畑のことを話すと、母は頷いて天板を持った。
「じゃあ、お父さんにも早めに相談しておかないとね」
炉の戸が閉まった。
コレットは粉のついた手を洗い、窓の外を見た。春までは、まだ長い。けれど、その間に手紙を送ることはできる。
家へ着いた知らせは、帰宅した翌朝に出していた。
*
王都の保全局で、ヴィクトルは最後の資料を卓へ置いた。
次長の前には、各地の復旧記録が並んでいた。温泉、港、庭園、橋、湖。用途の違う設備が、土地の設備士や職人との協力で動いている。
「本人を呼ぶ前に、こちらで調べるべきことが多いな」
次長は湖の図へ目を落とした。
「中核が残っているか。部材は揃っているか。復旧後の調整を引き受けられる者がいるか。そこを確認してからでなければ、協力を求められん」
復旧不能とされた設備の一覧には、新しい欄が加えられていた。
保存するための記録から、再び使うための調査へ。その準備が始まっている。
「能力の情報は、引き続き扱いを限る。各地の功績は、現地の記録どおり残す」
「承知しました」
報告を終え、ヴィクトルは自分の席へ戻った。
鞄には、ベルナール家から届いた手紙が入っていた。無事に帰り着いたこと。父が図を広げ、母と温泉卵を食べたこと。
最後に、梨の包み焼きを作る予定だと書いてある。
ヴィクトルは机の引き出しから便箋を出した。
最初の数行には、調査がどこまで進んだかを書いた。次の行へ移るところで筆を止め、手紙を読み直す。
それから、春の話を続けた。
*
返事が届いたのは、梨の包み焼きを家で2度作ったあとだった。
コレットは郵便を受け取り、差出人を見て、その場で封を切りかけた。指を止め、部屋へ上がる。
窓際の椅子へ座ってから、丁寧に開いた。
最初には、無事の帰宅を喜ぶ言葉と、保全局での調査について書かれていた。父へもよろしくとある。
その先で、コレットの目が止まった。
『昨日、こちらでも梨の菓子を買いました。おいしかったのですが、セレーヌ湖でいただいたものを思い出しました。コレットさんが包んでくださったものも、また食べたいです』
コレットは口元へ手をやった。
もう一度読み、それから続きを追った。
『春の休暇について、相談を始めました。日程が決まり次第、お知らせします。花の時期は、そちらでも分かりましたら教えてください』
最後の行は、少し字が詰まっていた。
『旅先で面白いものを見つけると、今も隣へ話しかけそうになります。次の旅を、楽しみにしています』
コレットはしばらく、手紙を膝へ置いていた。
自分だけではなかった。
工房で父に聞いた話も、母と菓子を作って失敗したことも、あとで彼へ話そうと思ってしまう。そのたび、今は隣にいないのだと気づいていた。
机へ向かい、便箋を出した。
梨の菓子は、2度目の方が綺麗にできたこと。母は最初から上手だったこと。次に会うときには、自分も同じくらい上手に包みたいこと。
書きたいことは、すぐに見つかった。
旅行記を開き、春のページを隣へ置く。白い花の丘と、細い道。以前は、自分がその中を歩くところを思い浮かべていた。
今は隣に、もう1人いる。
コレットはペン先へインクをつけ、続きを書いた。
『花の時期は、これから宿へ尋ねます。日が決まったら、待ち合わせる町も相談しましょう。今度は私も、道を調べておきます』
少し考え、最後にもう一文添えた。
『私も、お話ししたいことがたくさんあります』
窓の外で、母に呼ばれた。
「コレット、お茶にしましょう。梨のお菓子も出すわよ」
「今、行く」
紙を乾かし、手紙を旅行記のそばへ置いた。
階段を下りかけてから部屋へ戻り、水色の花の髪飾りを取る。鏡の前で留めると、今日は一度で収まった。
春になったら、そのことも彼に話そう。
コレットは扉を開け、温かな匂いのする階下へ向かった。
最後までコレットの旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
また二人と、次の季節を旅できますように。




