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ご先祖の旅行記を辿っているだけなのに、なぜか各地で大歓迎されています  作者: オレンジペコ


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第13話 雲の上で、朝を待つ

 窓を叩くような音で、コレットは目を覚ました。


 雨かと思ったが、外は暗いまま、静かだった。今度は戸口で控えめな声がする。


「コレットさん。起きていらっしゃいますか」


「はい。今、支度します」


 慌てて返事をしてから、寝台の脇の時計を見た。頼んだ時刻より早い。眠る前に椅子へ掛けておいた服を取り、窓へ目を向けた。


 昨夜、宿の主人が言っていた。


「明朝は、雲が下へ溜まるかもしれませんよ」


 東回廊の試験は、昨日までに終わっていた。


 重さを減らした回廊へ砂袋を運び込み、荷の位置を変えて確かめる間、コレットは中央の庭園を歩いた。ヴィクトルはイレーヌと測定を続け、夕方、宿へ戻ったところで「明日は入れます」と教えてくれた。


 そのあと、朝の待ち合わせを決めたのだ。


 まだ眠かったが、今朝だけは、もう少しとは思わなかった。


 階下へ降りると、ヴィクトルが戸口で待っていた。いつもの書類鞄はなく、手に小さな包みを下げている。


「すみません。お待たせしました」


「約束より、まだ早いですよ」


「でも、もう来てくださっていたので」


 彼は少し困ったように笑った。


「私も、早く目が覚めてしまって」


 宿を出ると、冷たい空気が頬へ触れた。


 町の窓は、ほとんど暗い。坂の途中の乳製品の店だけに明かりがあり、配達の荷車へ壺を積む人影が見えた。


 庭園へ向かう道では、息が白くなった。急いで登ると、あとで疲れてしまう。コレットは足元の石を見ながら、一定の速さで歩いた。


 隣のヴィクトルも、急がなかった。


 入口には管理人が待っていた。夜の記録も異常はなかったと聞き、コレットは礼を言って橋へ進んだ。


 欄干の下は、白かった。


 昨日まで見えていた町の屋根がない。足を止めると、ヴィクトルも立ち止まった。


「先へ行きましょう。回廊からの方が、よく見えます」


 頷き、橋の真ん中を歩く。怖さはあったが、その先を早く見たかった。


 花壇を抜けると、東回廊の入口が開いていた。


 柵の置かれていた場所を越え、丸い窓へ近づく。


 谷が、雲に埋まっていた。


 山の頂だけが白い海から現れ、薄青い空の下に並んでいる。雲は止まっているようで、よく見るとゆっくり動いていた。盛り上がった端がほどけ、奥から別の白い塊が押し寄せてくる。


「……すごい」


 それ以上、言葉が出なかった。


 鞄には旅行記が入っている。同じ窓かどうか確かめたかったのに、手を伸ばす気になれなかった。少し目を離したら、雲の形が変わってしまいそうだった。


 隣へ来たヴィクトルも、黙っていた。


 遠くで鐘が鳴った。


 音は、白い谷の中から上ってきた。あの下には牧場があり、道があり、眠っている家々がある。昨日歩いた町が、まるごと隠れているのが不思議だった。


 山の端が明るくなった。


 最初に頂が照らされ、それから雲の上へ光が広がった。青白かった谷が、薄い桃色を帯びていく。


 コレットは窓の縁へ手を置いた。石の冷たさに指を引っ込めたが、目は離せなかった。


「ご先祖も、これを見たんですね」


「ええ」


 ヴィクトルの声が、すぐ隣でした。


「昨日まで、間に合うか心配でした」


 彼は雲へ目を向けたまま続けた。


「天気のよい朝に、回廊を開けられてよかったです」


 コレットは彼の顔を見た。測定器を覗くときのように眉を寄せてはいない。窓から入る光が、灰青の目へ映っていた。


 あまり見ていると気づかれそうで、雲へ顔を戻した。


「朝を空けてくださって、ありがとうございます」


「私も見たかったんです」


 そう答えた彼が、少しこちらを向いた。


「誘っていただかなければ、今日も記録を取りに来ていたかもしれません」


 コレットは、彼の手元を見た。紙も筆もなかった。いつもなら図へ描き留めているはずの人が、今日は隣で、同じ雲を見ている。


 もうしばらく、そのまま眺めた。


 日が高くなるにつれ、白い谷に切れ目ができた。細い道が現れ、そのそばで牛が小さく動いていた。


「帰りに、ミルクでしたね」


 ヴィクトルが言った。


「はい。温かい方を」


 窓から離れると、脚の冷えに気づいた。見入っている間、ほとんど動いていなかったらしい。コレットは肩掛けを寄せ、名残惜しくてもう一度だけ振り返った。


 その少し先で、ヴィクトルも振り返っていた。


     *


 乳製品の店へ戻る頃には、通りへ日が差していた。


 扉を開けると、温かな空気に包まれる。店の女性が2人を見るなり顔を上げた。


「雲、見られた?」


「はい。谷が全部、白くなっていました」


「今朝はよかったでしょう。うちからも、丘の下が見えなかったもの」


 窓際へ座ると、ヴィクトルが持っていた包みを卓へ置いた。宿で頼んでおいたパンだった。店で食べてもよいか尋ねると、女性は小皿まで持ってきてくれた。


 コレットは運ばれたミルクの杯へ、両手を添えた。


 冷えた指に、温かさが染みていく。


 少し飲むと、柔らかな香りが鼻へ抜けた。坂を登った日に飲んだ冷たいものより、甘みをゆっくり感じる。飲み込んだあと、胸の辺りまで温まった。


「おいしい……」


 杯を持ったまま呟くと、ヴィクトルが頷いた。


「帰りに寄る理由が分かりましたね」


「はい。途中で飲まなくてよかったです」


 パンをちぎると、まだ中が柔らかかった。


 コレットは半分ほど食べてから、窓の外を眺めた。荷車が通り、子供が店の前を走っていく。さっきまで雲の上にいたのに、もう町の朝の中へ戻っていた。


 向かいでは、ヴィクトルが店の女性へ、チーズの種類を尋ねていた。


 庭園の話をしているときほど詳しくはなさそうで、教わった名前を確かめている。その様子を見ていたら、彼がこちらへ顔を向けた。


「コロッケに使っていたのは、あちらだそうです」


「買って帰れますか?」


「硬い方なら、旅にも向くそうですよ」


 女性が薄く切ったものを見せてくれた。コレットは父母の顔を思い浮かべ、今は荷物が増えすぎない分だけ包んでもらうことにした。


 ヴィクトルも同じものを頼んだ。


「ご実家へ?」


「いえ。自分で食べる分です」


 少し意外で見てしまうと、彼は包みを受け取りながら笑った。


「気に入ったので」


 コレットも笑った。庭園だけでなく、この町で楽しみにするものが増えたのだと思うと、嬉しかった。


     *


 その日の午後、コレットは出発に向けて荷物を整えた。


 庭園では、回廊の窓を拭く人がいた。管理人から聞いた話では、再開を知って見学の予約を入れた人もいるという。


 ヴィクトルは、イレーヌが操作する調整輪の記録を受け取っていた。


 古い文書でしか確かめられなかった動きを、今は実際の設備で測れる。今回戻った回路と、現在の設備士による再調整。その両方を残すため、局へ送る図にはイレーヌの書き込みも添えられていた。


 コレットは窓際の卓で、旅行記を開いた。


『朝の雲は、海みたいだった。橋でも見えるが、東回廊の窓まで行くこと』


 少し考えて、続きを書く。


『厚い肩掛けを。帰りの温かいミルクがおいしい。冷たいミルクは、揚げたてのコロッケと一緒に』


 絵も描こうとしたが、丸いコロッケより、雲の方が難しかった。白いものを白い紙へどう描けばよいのか分からず、筆が止まる。


 戸口を叩く音がした。


 ヴィクトルだった。夕食の時刻を伝えに来た彼へ、コレットは紙を見せた。


「雲を描きたかったんですが」


 彼はしばらく眺め、それから隣に置いた旅行記へ目を向けた。


「ベアトリスも、かなり描き直していますね」


 本の雲には、薄い線が幾重にも重なっていた。


「本当ですね。見ていたら分かるのに」


「私も、今朝は描けませんでした」


「描かなかったんですか?」


 ヴィクトルは頷いた。


「見ているうちに、変わってしまうので」


 コレットは紙へ目を戻した。今朝、鞄から本を出せなかった自分と同じだった。


「では、今日は文章だけにします」


 彼が部屋を出てから、最後の一行を書き足した。


『絵を描くなら、別の日に。初めての朝は、見ていたい』


 紙が乾くまで、窓際へ置いておく。


 廊下へ出ると、ヴィクトルが階段のそばで待っていた。コレットに気づき、手にしていたチーズの包みを少し上げる。


「宿の方が、夕食と一緒に出してくださるそうです」


「私の分も、持ってきます」


 部屋へ引き返す足が、少し弾んだ。明日の行き先を相談する前に、今夜はまだ、今朝の雲の話ができる。

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