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第56話:一ノ瀬直也

 船がゆっくりと桟橋を離れる。木造の小舟のエンジンが低く唸り、蒸し暑い空気と共にアドベンチャーな雰囲気が一気に濃くなる。

 前方に立つキャスト――ガイド役の若い男性が、マイク片手に軽快な口調で喋り始めた。


「皆さん、ようこそジャングルへ! 本日の船長は私ですが……安全は保証しません。なぜって? 私は船長ライセンスを持っていないからです!」


 ――お決まりのジョークに、船内はどっと笑いが広がる。

 隣で保奈美は「ふふっ!」と肩を揺らして大喜びだ。こういう小ネタに本当に素直に反応する子だな……と見ていると、自然と口元が緩む。


 船は熱帯の木々の間を抜け、川を下っていく。

 キャストのトークは止まらない。前方に現れたゾウの群れを指差して――。


「ご覧ください! ジャングルで一番人気の“象のシャワータイム”です! 水をかけられたい方、手を挙げてくださいね。……え? 誰もいませんか? よかった、今日は水道代の支払いが滞っているので!」


 再び船内に笑いが起きる。保奈美はぱちぱちと拍手までしていた。


(……ほんと、こういうのを全力で楽しめるところが、この子のいいところだな)


 そんなことを考えつつ、つい口から出た。


「やっぱりキャストの話術って素晴らしいよな。こういう“人を引き込む力”って、ビジネスのプレゼンテーションでも必要なんだよ」


 ――しまった、言ってから気づいた。

 案の定、すぐ横から刺すような声が飛んでくる。


「直也くん、ワーカーホリック過ぎ」亜紀がじろっと睨む。

「プレゼン術と比較するとか、サイアクです。ドン引きです」玲奈も容赦なく切り捨てる。


「え、いや、違うんだって……!」

 慌てて取り繕おうとしたが、すでに二人の冷たい視線に射抜かれていて、言い訳が喉に詰まる。


 そんな様子を見て、保奈美が声を押し殺しながら笑い出した。

「直也さんって、会社でもこんな感じなんですか?」と興味津々で尋ねてくる。


「もうね、真面目すぎなのよ」亜紀が即答する。

「本当ですよ。魂削って仕事するって直也のことだなぁって思いますね」玲奈が肩をすくめながら続ける。

「そうねぇ。まぁでも……それが直也くんかもね」亜紀が少しだけ柔らかい声で締めた。


 うぐっ……。

 四方から撃たれて、オレはただ苦笑いを浮かべるしかなかった。


 その間も船は進み、左手に古びた遺跡が現れる。

「ここがジャングルで最も歴史のある遺跡です! なんと5000年前に建てられたと言われています……つまり、私がまだ幼稚園児だった頃ですね!」

 キャストの冗談にまた笑い声が弾ける。保奈美は「ぷっ」と吹き出して、手で口を覆っていた。


 さらに船は滝壺の手前へ。

「さぁ皆さん、右をご覧ください! あの有名な“ナイアガラの滝”です! そして左には……もっとすごい! “裏側から見たナイアガラの滝”です!!」


 ――大爆笑。

 保奈美はもう涙目になりながら「裏側って……!」と笑っている。

 その姿を見ているだけで、胸が温かくなる。


(……やっぱり、連れてきてよかったな)


 笑いと歓声に包まれながら、船はゆっくりと桟橋へ戻っていく。

 キャストが最後にマイクを掲げる。


「本日のジャングルクルーズはこれでおしまいです! でも大丈夫、入口でまた待ってますから。だって……私は暇なんです!!」


 拍手と笑いに包まれて船は到着。

 保奈美は「楽しかったぁ!」と声を上げて、まるで子どものように飛び跳ねていた。


 オレはといえば、仕事に結びつける発言で叩かれ、いたたまれない時間もあったが……。

 でも、この笑顔が見られるなら、それで十分だ。


――休日にここまで心が洗われるなんて、いつ以来だろうか。

少しだけ肩の力が抜けた気がした。


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