第9話 荒地開拓伯令嬢、紙の上で戦う
第一の聖苗が魔寄せの森を去ったのは、植定不成を認めた翌朝だった。銀緑色の葉は一枚も落ちていない。根は新しい白苔と聖布に包まれ、白木の運搬架へ戻されている。老樹医が荷車の揺れを確かめ、白樹騎士と王国書記がその周りを固めた。
街道の先へ消えていく白い幌を、ネリアは森の入口で見送った。
「あの子は、また植えられるでしょうか」
「根に傷はないそうですの。しばらく休ませれば、次の土地では元気に根づきますわ」
隣に立っていたアクシスが答えた。
「あなたは、失敗したとは思わないのですか」
「わたくしは根づかせないために急がせたんですもの。大成功でしてよ」
「そうではなくて」
「聖女様の失敗まで、わたくしが背負う気はございませんの」
冷たい言葉に聞こえた。だが、アクシスは運搬架が見えなくなるまで街道から目を離さなかった。
「聖苗を折らずにお返しした。聖女様は決まりを曲げず、植定不成とお認めになった。昨日の勝ち負けは、それで終わりですわ」
アクシスは踵を返す。
「こちらは、今日から次の森を拓きますの」
◆
開拓館の広間では、第二十九日から第六十日までの暦が壁へ貼られていた。ローデンが黒い墨で現在の日を囲み、三十日の植定禁止が解ける第五十八日へ赤い線を引いている。残された日数は三十二日。長卓の周囲には、リディア、カリナ、マルク、ブラム、トマスが揃っていた。
ネリアとゼノも、少し離れた位置から会議へ立ち会っている。
「三十二日で、紙の上に王都まで道を通しますの」
アクシスが宣言すると、ローデンは羽根筆の先を布で拭いた。
「道の行き先から決めましょう。何を申し立てるおつもりですか」
「わたくしが、父上の開拓地を相続する権利ですわ」
「それだけでしたら、王会議ですでに退けられております」
「朝から気持ちのよいことをおっしゃいますのね」
「気持ちではなく、決定でございます」
乾いた応酬の間に、リディアが一枚の目録を卓へ置いた。
「ガルドが任官したときの原契約を出します。古い文書庫へ入る前に、特使エルマー様の若い書記を呼びましょう。封も紙も、その方の目の前で確かめていただきます」
「後から都合のよい文言を書き足した、と言わせないためですのね」
「ええ。疑われることをした家ですもの。疑いようのない手順を選ばなくてはなりません」
父の死を三年隠したことを、リディアは他人事のように言わなかった。ローデンは徴税台帳と、村ごとの開墾契約を引き受けた。司祭トマスは六つの村で記録してきた出生、婚姻、死亡、埋葬の教区簿を持ち寄るという。
「墓へ入った者まで調べるんですの?」
「ここで生まれ、家族を持ち、ここへ葬られた者がいる。それは、一時的な野営地ではないという証になります」
総監マルクは欠けた指で、卓に広げられた地図を押さえた。
「境界杭の拓本を取ります。畑だけでなく、井戸、水路、牧草地、薪炭林、墓地も。どの村が、いつから、何に使ってきたかを図面へ落とします」
「私兵と呼ばれた連中が、何をしていたかも必要でしょう」
兵士長ブラムが続けた。
「当直、街道警備、討伐、避難誘導。三年分と言わず、残っているものは全部出します。書き手の違う記録も、そのままです」
きれいに書き直せば、作った記録だと疑われる。泥の染みも、血で固まった頁も、そこで働いてきた証拠になる。最後にカリナが口を開いた。
「閉鎖林への道は私が見ます。森外の礼拝所へ入る荷も、確認できる範囲で記録します」
「姉上は紙の仕事をなさらないんですの?」
「苦手ですので」
「わたくしもですわ」
「お嬢様には、署名の仕事がございます」
ローデンに逃げ道を塞がれた。
アクシスは全員を見回した。自分が斧を振るうより前から、それぞれが自分の森へ入る支度を終えている。
「よろしいですわ。原契約を見つけて、台帳と杭で囲んで、わたくしの土地だと王都へ認めさせますの」
「今回、最初に確認するのは村人の土地でございます」
ローデンが訂正した。
「父上の契約から始めるんでしょう?」
「ガルド様に与えられた官職と、開墾した者に与えられる権利は別です。畑を拓いたのが村人なら、保有権を主張するのも村人です」
アクシスは少し考えた。
「わたくしの領民の土地なら、守る側の仕事は同じですわ」
「今は、それで結構です」
ローデンは暦の下へ、新しい紙を留めた。
その横で、ネリアが手を挙げる。
「私は、三つの候補地と六つの村を見ます。植定不成の報告を、自分で完成させたいのです」
「聖女様が土地台帳まで調べる必要はありません」
セヴェランは会議へ出席していなかったが、何を言うかはネリアにも分かった。
「私の名で植定不成を認めました。次に植えるべきかも、見たものをもとに報告します」
「僕も行く」
ゼノが壁から背を離した。
「僕の監察任務は接収まで続く。王都で渡された報告と、現地の違いを確かめたい」
アクシスが目を細める。
「とうとう、わたくしの領地を知りたくなりましたのね」
「監察対象の実態を知りたいだけだ」
「似たようなものでしてよ」
◆
三十日は、待つには長く、仕事をするには短かった。聖女ネリアの白い長靴は、三日で裾まで泥に染まった。五日目には調査図へ書き込む余白がなくなり、七日目には村の子供が、白樹騎士ではなくネリアの名前を呼んで追いかけてくるようになった。
第二村の粉挽き小屋は、共同水路の脇に建っていた。水車が回るたび、石臼の低い音が床から伝わってくる。小屋はエッダ・ハインのものだが、水路の泥は村人が交代で上げ、壊れた水門はマルクの作業員が直している。
ネリアが訪れた日は、エッダの長男が右腕を布で押さえて帰ってきた。来年から夜警へ入るため、村外れで年長者の巡回について歩き、魔性茨の棘に裂かれたという。
「見せてください」
「これくらい、唾をつけておけば」
「毒が残っています。強がるのは洗ってからにしてください」
ネリアは粉袋を並べた台へ少年を座らせた。傷を清め、白い光を細く流す。黒い毒が血とともに浮き、裂けた肉がゆっくり寄った。
少年は痛みに顔をしかめながらも、最後まで声を上げなかった。
「明日までは、重いものを持たないでください」
「夜の稽古は?」
「休んでください」
「母さんにも言ってやってください」
「いま聞きました」
背後からエッダが答えた。安心した顔をした後で、息子の頭を平手で軽く叩く。
少年が粉挽き小屋を出ると、エッダは礼を言い、ネリアへ黒パンを差し出した。
「聖女様。世界樹が根づけば、この子は夜警へ出なくて済むんでしょうか」
第五話の日、同じことを尋ねられている。
「魔物の発生は減らせます」
ネリアは、以前より慎重に答えた。
「ですが、いつから夜警が要らなくなるかは約束できません。世界樹が根づいた後も、外から入ってくる魔物はいます」
「王国兵は来ますか」
「配置されると聞いています」
「何人です?」
答えられなかった。
エッダは責めず、水車へ目を向けた。
「この小屋は、息子へ残せますか。水路へ泥が溜まったら、今までどおり村の者で掘っていいんですか」
「聖域の土地は、教団が管理します。必要な作業なら、許可は――」
「誰にいただくんです?」
ネリアは口を閉じた。魔寄せの森を管轄する聖域は、まだ存在しない。管理司祭も、伐採官も、水路を担当する役人も決まっていなかった。
「申し訳ありません。確認します」
「聖女様が謝ることじゃありませんよ」
エッダはそう言ったが、ネリアには、自分が何を約束してこの土地へ来たのか分からなくなった。
住民は残れる。その言葉の中には、自分の小屋を息子へ残せるかも、水路へ手を入れられるかも含まれていなかった。
北村では、もっと多くの質問を受けた。冬に落ち枝を拾うのに許可はいるのか。家族が増えたら畑を広げられるのか。水路が聖域の根を横切ったら、どちらを動かすのか。先祖と同じ墓へ埋葬してもらえるのか。
「現在の聖域規則では、伐採、採集、水路変更、埋葬には、管理者の許可が必要です」
同行したトマスが答えた。
「すべて禁じられているわけではありません。しかし、ここでは三千人以上が暮らしています。個別の許可を、誰が、どの基準で出すかは決まっていません」
トマスは中央教団を罵らなかった。教典と規則を知る者として、書かれていることと、決まっていないことを分けただけだった。
村の外れには墓地があった。豪華な墓石はない。名前と没年を刻んだ板、石を積んだだけの墓、子供の背丈ほどの若木。三十年の間に亡くなった者が、森へ向かって並んでいる。
ネリアは、白泉窪地で自分が触れた魔力より、この場所に積もった時間の方を重く感じた。
「王都の報告では、暫定集落だった」
剣士ゼノが手帳を閉じた。
「暫定という言葉は、何年まで使えるのでしょう」
「少なくとも、墓の主が孫を持つまでではないだろうな」
少し離れた場所で、アクシスが村人と境界杭を探している。接収に賛成する者も、父の死を隠したことを責める者も、呼ばれれば同じように話していた。
「あなたに不利な証言まで、僕に聞かせていいのか」
ゼノが尋ねると、アクシスは土から抜いた石杭を抱えたまま振り返った。
「わたくしを好いている証拠ではなく、ここに住んでいる証拠を集めておりますの」
「死亡隠蔽も、官印を使ったことも、同じ報告へ書くぞ」
「妻の悪いところまで王家へ報告できるなんて、監察役として満点ですのね」
「誰が妻だ」
「まだ候補ですわ」
「候補に入った覚えもない」
「王都の剣士は、書面がなければ何も認めませんのね」
アクシスは石杭を肩へ担ぎ直し、先へ歩いた。ネリアは二人を見送り、調査図へ墓地の位置を書き込む。
世界樹が魔物を減らす力は、本物である。エッダの息子が傷つかずに済む土地を作れるなら、植える価値はある。だが、そのためにエッダから粉挽き小屋を取り上げてよい理由にはならない。
聖なるものと、人がすでに築いたものを、どちらか一つしか残せないと決めたのは誰なのだろう。
◆
第四十日。
開拓館の長卓は、地図ではなく紙に埋め尽くされていた。リディアが古い文書庫から出した原契約は、羊皮紙の端が変色している。赤い王印、任官当時の内務官の副署、ガルドが押した親指の跡まで残り、エルマーに従う若い書記が、封を開いた日時と立会人の名を別紙へ記録していた。
ローデンは契約末尾の一文へ細い紙を挟んだ。
「『本契約下で自力開墾した土地について、戦後第七勅令の定めを妨げず』。戦後第七勅令とは、墾森永年私財令でございます」
「妨げず、というのは」
アクシスが身を乗り出す。
「荒地開拓伯の契約によって、開拓民へ認められる権利を取り消さない、という意味です」
「やっぱり、わたくしの土地ではありませんの!」
「違います。まず、村人の土地でございます」
ローデンは即座に訂正した。
「ですが、父上が結んだ契約に書いてありますのよ?」
「契約が守るのは、自力で開墾した者の権利です。ガルド様が一人で六つの村を耕したわけではございません」
原契約だけで、六村のすべてが守られるわけでもなかった。そこで、ローデンの台帳がつながる。王国へ納めた収穫税には、どの村の、どの家が、どれだけの麦や炭を納めたかが記されていた。王国は二十年以上、その土地から上がる収穫を受け取り続けている。
トマスの教区簿には、同じ家族の出生、婚姻、死亡が並ぶ。マルクの図面と境界杭の拓本を重ねれば、畑、家、井戸、水路、墓地の位置と、使ってきた者の名が対応した。
ブラムの警備記録は、その境界を誰が守ってきたかを示す。
紙が一枚だけなら、古い約束だった。紙を束ねると、そこに村が現れた。
「お嬢様の伯爵位が戻る証拠ではございません」
家令ローデンは念を押した。
「お父上の領地を相続する約定でもない」
「はい」
「村人が、自分で拓いた土地を持つための紙」
「その可能性を、王国へ審理させる紙でございます」
アクシスは原契約を見下ろした。自分が父から受け継ごうとしていたものは、最初から父一人のものではなかったらしい。
「でしたら、なおさらですわね」
顔を上げる。
「わたくし一人の署名で、勝手に差し出せるものではありませんの」
◆
六村の代表を集めた会合は、その翌日から三日かかった。
請願書へ名を書けば、アクシスを領主として認めることになるのか。王国の直轄を望む者は参加できないのか。移住を選んだ場合も、家や畑の補償を求められるのか。
アクシスは、最初に一つだけ約束した。
「署名しなくても、王国を選んでも、移住しても構いませんの。それを理由に、キリハルト家が罰することはありませんわ」
「なら、これは誰のための請願です」
接収に賛成する炭焼き職人が尋ねた。
ローデンが、請願書の最初の行を読み上げる。
「主語は、六村の住民と各共同体です。求めるのは領主の決定ではなく、各戸の保有、相続、収穫と、各村の共同利用権の確認でございます」
最初に羽根筆を取ったのは、エッダだった。
「私は、王国兵に来てほしいと思っています」
広間に集まった者たちへ聞かせるように言う。
「世界樹が魔物を減らすなら、今でも植えてほしい。でも、粉挽き小屋まで誰かへ差し出すとは言っていません」
署名欄へ、自分の名を書く。
「これは、お嬢さまを領主にする署名じゃない。私たちの畑を、私たちのものだと確かめる署名です」
その後へ、接収賛成派の者も並んだ。アクシスへの忠誠を誓う列ではない。自分の家、自分の畑、自分たちの水路と墓地を、書面の上に残すための列だった。
第四十八日、請願書と証拠の認証写しが革張りの箱へ収められた。原本は魔寄せの森へ残す。認証写しを早馬へ預け、要約を鳥便で王国土地法院へ先に送る。
アクシスは、街道を走り出した馬を館の窓から見送った。
「わたくしが王都へ行ったときより、ずいぶん重い荷物ですこと」
「今度は、お嬢様お一人の要求ではございませんから」
ローデンが答えた。
「わたくし一人では、軽すぎましたのね」
「態度だけは、誰より重うございました」




