第8話 荒地開拓伯令嬢、世界樹を根づかせない
白泉窪地は、低い斜面に囲まれた明るい場所だった。
中央の泉から、白い鉱砂を巻き上げて水が湧いている。苔と若木には淡い光が宿り、魔法を持たない者にも、空気が肌を撫でるような感覚があった。
一方、窪地の周囲には深い溝が走っている。焼いた古根が黒い断面を見せ、そばの石杭には根を切った年月が刻まれていた。
ネリアは靴を脱ぎ、泉の近くへ膝をついた。両手で土へ触れ、目を閉じる。
魔力はある。
泉の底、苔の内側、土に混じる白い砂。小さな光の粒が窪地へ溜まっている。聖苗もそれを感じているらしく、根包みの中で白い根先を動かした。
樹医が土の深さと水を調べ、運搬架を開く。根先は白く、葉には張りがある。
「苗に異常はありません。土も水も、三候補ではここが最良でしょう」
聖域監督司祭セヴェランが満足そうにうなずいた。
「これほど魔力がある。根づかない理由はありません」
聖女ネリアも、そう感じていた。地中深くの流れまでは見えない。それでも自分が触れられる範囲では、ここが最も聖苗を迎えようとしている。
「この場所なら、応えてくれます」
立ち上がると、アクシスが尋ねた。
「場所を変えるなら、今でしてよ。ほかの二か所にもご案内いたしますの」
ネリアは首を横に振った。
「白泉窪地を選びます。資料を読み、土と水を確かめたうえで、私が決めました」
聖苗の白い幹へ触れる。
「私が、この子を根づかせます」
日が傾く前に、植樹の準備が始まった。
白樹騎士が窪地の周囲へ白い杭を立て、聖布で円を作る。キリハルト兵と作業員が穴を掘り、水を運び、石を除いた。硬い古根が見つかると、アクシスが大斧・開拓の伐採側の刃で断った。
聖苗が土へ下ろされる。樹医が根を広げ、白砂を混ぜた土で一層ずつ包んでいく。
ここまでは植樹だった。
ネリアが根と土地を結んで初めて、植定となる。
白い外套を脱ぎ、裸足で土へ入った。片手を聖苗の幹へ、もう片方を根元の地面へ置く。
「天へ枝を、地へ根を。荒ぶる流れをその身へ受け、清き巡りとしてお返しください」
祈りに応え、聖苗の内側で光が灯った。
白い根がゆっくりと開く。土の隙間を探り、泉の方角へ細い光を伸ばした。窪地に溜まっていた魔力が根へ吸い寄せられ、白い幹を上っていく。
濁っていた苔から黒さが抜けた。閉じていた銀緑色の葉が、一枚だけ開く。
白樹騎士たちから、安堵の息が漏れた。
「ご覧なさい。聖樹は、この土地をお選びになった」
セヴェランの声が遠く聞こえる。
ネリアは、土の下へ意識を沈めていた。
根は窪地の魔力を吸い、さらに外へ伸びていく。光の糸が斜面へ届き、その先にある流れを探す。
そこで、途切れた。
一本だけではない。東も、西も、村の方角も、根が触れる先に焼かれた断面がある。細い流れは残っていても、吸い上げた魔力がつながる大きな道が見つけられない。
世界樹は魔力を清める。
そのためには、清めるべき魔力が流れ続けなければならない。
白泉窪地にあったのは、川ではなく、切り離された水溜まりだった。
「まだです」
ネリアは祝福を強めた。
額から汗が落ちる。自分の魔力を根へ通し、もう一度、その先へ呼びかける。聖苗も白い根を震わせ、切れた道の向こうを探した。
返事はない。
「聖女様、そこまでです」
樹医の手が肩へ触れた。
「いま続ければ、この子が蓄えた力まで使います。初日の祝福としては十分です」
ネリアはすぐに手を離せなかった。王都でアクシスに力を見せつけられたことも、エッダの期待も、ここまで聖苗を運んだ者たちの祈りも、指先へ絡みついている。
それでも、聖苗を弱らせてまで成功を作るわけにはいかなかった。
ゆっくりと手を離す。
銀緑色の葉は一枚、開いている。根も土へ入った。まだ失敗したわけではない。
「三度の日の出まで、待ちます」
ネリアは自分へ言い聞かせるように告げた。
◆
一度目の日の出。
開いた葉は閉じていなかった。しかし新しい芽は動かず、根元の土にも、伸びた根が押し上げる亀裂はない。
ネリアは夜明け前から祈っていた。祝福を加えず、ただ聖苗の中にある流れを確かめ続ける。
「食べなさいまし」
背後から声をかけられた。アクシスが湯気の立つ豆のスープと黒パンを持っている。
「結構です」
「聖女様が倒れたら、失敗の署名をいただけませんの」
「まだ失敗していません」
「でしたら、成功の署名をなさるためにお食べなさいまし」
どちらに転んでも食べさせるつもりらしい。ネリアは椀を受け取った。
「そのパンは、エッダからですの。世界樹が根づくようにと」
硬い黒パンを、スープへ浸す。
「あなたに反対している方からの差し入れを、受け取るのですね」
「うちの麦を粉にしていただいておりますもの。政治と粉挽きは別でしてよ」
「エッダさんが王国を選んでも?」
「面白くはございませんわね」
アクシスは聖苗の横へ腰を下ろした。
「ですが、わたくしの民だから守ると言っておいて、わたくしを選ばないなら見捨てるでは、筋が通りませんの」
ネリアは黒パンを噛んだ。粗い麦の味がする。王都の大聖堂で食べる白いパンより硬いが、温かかった。
世界樹を植えれば、人々を救えると思っていた。
けれど、ここにいる人々は、すでに何度も互いを救ってきたのではないか。道を作り、橋を直し、魔物を追い、反対する者へもパンを焼く。その暮らしへ聖樹を加えることと、聖樹のために暮らしの形を変えることは、本当に同じなのだろうか。
答えは出なかった。
二度目の日の出。
樹医が細い根を一本だけ掘り、長さを測った。根は生きているが、初日から伸びていない。白泉の魔力も、祝福の直後に薄くなったまま戻っていなかった。
「もう一度、祝福します」
ネリアが立ち上がると、樹医は首を横に振った。
「初日以上の力を加えれば、正常な判定ではなくなります」
「ですが、このままでは」
「聖女の力を土地へ注ぎ、苗が根づいたように見せることはできます。しかし、それは世界樹が土地から育ったのではありません」
「聖女様の力が足りないと決まったわけではない」
セヴェランが進み出た。
「魔寄せの森には、それだけの穢れがあります。通常より強い祝福が必要なのでしょう」
「それでは、三度の日の出を待つ決まりに意味がありません」
トマスが儀礼書を開いた。
「地方司祭は黙って――」
「条件を変えるなら、そのとおり報告します」
ゼノ・ブルーウィロウが遮った。
「僕の役目は、植定が正規に行われたか確かめることです。成功させることではありません」
全員の視線がネリアへ集まった。
力を加えれば、もう一枚くらい葉を開かせられるかもしれない。さらに根を押し広げれば、どこかに残った流れへ届くかもしれない。
だが、そのために聖苗の力を使い切れば、根づけなかったときに王都へ帰すことさえできなくなる。
ネリアは、聖苗の幹を見た。昨日より白さが鈍っているように思えた。
「追加の祝福は行いません」
セヴェランが何か言おうとしたが、ネリアは先に続けた。
「この子を根づかせるために来ました。私の意地のために、この子を弱らせるつもりはありません」
自分で選んだ場所だった。だから、失敗しそうになったときも、自分で止めなければならなかった。
その夜、ネリアは聖苗のそばでアクシスへ尋ねた。
「あなたは、最初からこうなると知っていたのですか」
「知っていたなら、もっと偉そうな顔をしておりますの」
アクシスは火へ薪を足した。
「五分でしたわ」
「半分は、根づくと思っていたのですね」
「ええ」
「根づいたら、どうするつもりだったのですか」
「根づいてから、次の喧嘩のやり方を考えますの」
あまりに迷いなく答えるので、ネリアは小さく息を吐いた。
「無計画なのですね」
「負けた後の作戦まで先に考えすぎると、勝てる戦いでも弱くなりましてよ」
「それは、作戦とは言わないと思います」
「では、開拓ですの。道がなければ、その場で作りますわ」
焚き火の向こうで、アクシスが笑った。
三度目の日の出。
銀緑色の葉は落ちていなかった。聖苗は生きている。しかし新しい芽は動かず、根も初日の長さから伸びていない。土地とつながった徴である白い根脈も、地表へ現れなかった。
樹医は幹と葉を確かめ、根を一本ずつ聖水で洗った。
「聖苗に病変なし。運搬による傷なし。魔物との遭遇による損傷もありません」
失敗を、苗の弱さや事故のせいにはできない。
王国書記が記録板を構える。白樹騎士、キリハルト側の立会人、トマス、マルク、ゼノ。全員が、ネリアの言葉を待っていた。
大聖堂で聖女に選ばれてから、ネリアが祝福した苗はすべて根づいた。すでに整えられた聖苑や、古い世界樹の根域に植えたものばかりだった。それでも失敗を知らないことは、自分の使命が正しい証だと思っていた。
喉が詰まる。
聖苗の白い幹へ触れると、弱い鼓動が返ってきた。この子は生きている。無理に力を使わせなかったから、帰ることができる。
ネリアは顔を上げた。
「三度の日の出を越えても、新しい根と芽の成長は確認できません」
一度、息を吸う。
「聖苗ユグラリア第七分枝は、この地へ植定しませんでした。植定不成と認定します」
書記の筆が動き始めた。
セヴェランが、その記録へ目を向ける。
「キリハルト家が三十年にわたって地下根を破壊し、聖苗の生育を妨げた。この点も記すべきでしょう」
「地下根を切ったことは記録してください」
ネリアは答えた。
「同時に、それが村と街道を魔物から守るための作業だったことも。候補地の資料は事前にすべて示され、白泉窪地を選んだのは私です。移動中、キリハルト家は私たちと聖苗を守りました。儀式への妨害はありません」
「聖女様」
「事実です」
失敗の痛みは消えない。だが、それを他人へ移せば、自分で選んだ意味まで失われる。
「私の名で、そのように記録してください」
ネリアは植定不成記録へ署名した。
続いて樹医、ゼノ、マルクが署名する。王家の監察役の欄へ名を書き終えたゼノが、アクシスを見た。
「候補地の開示、道中の護衛、儀式への協力に、虚偽も妨害もなかった。僕もそう報告する」
「初めて、監察役がいてよかったと思いましたわ」
「初めてなのか」
「婿候補としては、一点加算して差し上げますの」
「その採点をやめろ」
笑い声は小さかった。ネリアは笑えなかったが、腹を立てる気にもならなかった。
聖苗を土から掘り上げる。根を聖水で洗い、新しい白苔と聖布で包む。ネリアは一本も傷つけないよう、自分の手で根を運搬架へ戻した。
「私は、正しく行いました」
口に出すつもりはなかった言葉が漏れた。
「正しく選んで、正しく植えました。それでも、この土地は応えてくれませんでした。私に、何が足りなかったのでしょう」
「聖女様が下手だったんじゃございませんの」
アクシスが隣へ立った。
「この森が、今は世界樹を食わせられねえんですわ」
「慰めているのですか」
「まさか。わたくしは森を守って勝ちましたの。勝った相手まで折る必要はございませんわ」
悔しい。
けれど、今度はその悔しさから目を逸らしたくなかった。
「次は、負けません」
「次が正規に来るなら、お待ちしておりますわ」
ネリアは、包み終えた聖苗の根へ最後に触れた。
その瞬間。
白泉窪地のものではない、巨大な魔力が指先へ触れた。
遠い。
管理林の根切り溝よりも先。閉鎖林の奥深く。白泉窪地では何も答えなかった土地の向こうから、祝福へ遅れて返事が来たようだった。
聖なる光ではない。
冷たく、重く、地中で眠る何かの呼吸に似ている。
ネリアは顔を上げ、木々に隠された閉鎖林の方角を見た。
「どうかなさいましたか」
セヴェランの声に、ネリアは首を横に振った。
「……いいえ。疲れただけです」
確かめられないことを、告げるべきではないと思った。
だが、セヴェランはネリアが見た方角を覚えていた。
◆
植定不成の知らせが村へ届いても、全員が喜んだわけではなかった。
開拓館へ戻る途中、エッダが道端に立っていた。使節団へ差し入れた黒パンの籠を抱いている。
「根づかなかったんですね」
「ええ」
ネリアが答えると、エッダは目を伏せた。
「これで、うちの息子はまた見張りへ出るんですね」
アクシスの勝利を責めているわけではない。ただ、自分が望んだ未来が来なかったことを悲しんでいた。
「たしかに今日の勝ちで、魔物が減るわけではございませんの」
アクシスが言った。
「ですが、だからといって、あなたの畑まで教団へ渡してよいことにはなりませんわ。王国の兵が欲しいなら求めなさいまし。世界樹が欲しいなら、畑と引き換えにせず要求なさいまし」
「そんなことが、できるんですか」
「できるようにするための三十二日ですの」
エッダは納得しなかった。それでも、もう一度だけアクシスを見て、今度ははっきりと頭を下げた。
開拓館へ着くと、老樹医は第一の聖苗を翌朝に中央樹院へ戻すと決めた。植定不成の原因が苗にないことを改めて検査し、開いた根を養生しなければならない。護衛の半数と王国書記が同行し、正規の植定任務はそこで終了する。
「私はこちらへ残ります」
ネリアが告げると、セヴェランが眉を寄せた。
「植定は終わりました。聖女様が留まる理由はありません」
「植定に失敗したからです」
ネリアは、道の向こうにいるエッダを振り返った。
「私は、この土地の人々を救うために来たと申し上げました。世界樹を根づかせられなかったのなら、何が残り、どのように暮らしているのかを見ずに帰ることはできません。三つの候補地と村を確認し、私自身の報告書を作ります」
「僕も残る」
ゼノが続けた。
「僕の監察任務は、聖苗植定だけではない。王領接収と引き渡しが終わるまでだ」
聖域監督司祭セヴェランはしばらく二人を見た後、自分も教団側の折衝を続けると告げた。翌朝に王都へ戻るのは、第一の聖苗と樹医、護衛の一部だけとなった。
開拓館では、ローデンが暦を広げて待っていた。
第二十八日に、植定不成。
三十日の禁止が解ける第五十八日へ、赤い丸をつける。第六十日には接収期限、第六十一日には正規植定の最短成立日と書き込んだ。
「予定どおりでございます」
家令のローデンが言った。
「次に土へ置けるのは第五十八日。そこから三度の日の出を待てば、植定成立は第六十一日。ですが、禁止が解けてから接収期限まで二日あることに変わりはございません」
「承知しておりますの」
アクシスは第五十八日の赤い丸を指で叩いた。
「姉上とマルクには、閉鎖林へ入る道を見ていただきますわ。森外の礼拝所へ、妙な荷が入らないかも」
「それで、残る人手は」
「紙の森を拓きますの」
アクシスは、植定不成記録を持ち上げた。
聖苗を折らず、使節団を追い返さず、王国と教団の決まりを最後まで行わせた。その結果として、三十二日を得た。斧で殴るのとは違う勝ち方だった。
「世界樹へ勝ったのは、今日まででございます」
ローデンが釘を刺す。
「明日からは、紙へ勝たなくてはなりません」
「三十二日もありますのね」
「三十二日しかございません」
「同じことでしてよ」
アクシスは開拓を肩へ担ぎ、歯を見せて笑った。
「父上は三十年かけて森を拓きましたの。わたくしは三十二日で、王都まで道を通してやりますわ」
◆
その夜。
森外の礼拝所へ戻ったセヴェランは、候補地選定に使った地下根図の写しを開いていた。
白泉窪地を含む管理林では、黒い根線が何度も切られ、赤い根焼きの印で囲まれている。第一の聖苗が根づかなかった理由は明らかだった。
地図の端には、調査不能の印がある。
閉鎖林最奥。
ガルド・キリハルトと暗根王グロウルートが相討ちになった討伐跡。そこへ続く太い根線だけは、切断を示す印がない。
「根を切った土地だから育たない」
セヴェランは、ネリアが見ていた方角へ指を置いた。
「ならば、根が残っている土地へ植えればよい」
新しい紙を取り出し、第五十八日の日付を書く。
予備枝一株。
森外礼拝所。
再植定解禁日までに。
封をした手紙は、その夜のうちに王都へ向けて出された。




