第7話 荒地開拓伯令嬢、聖女を案内する
聖女ネリア・ルートレイスが初めて魔寄せの森を見たのは、予定より三日早い朝だった。
王会議から数えて二十五日目。王都から続く街道の先には、黒々とした森と、そこへ食い込むように延びた一本の道があった。
王儀で開拓団の規模を聞いていた。
でも、もっと荒れた土地を想像していた。荷車の轍さえろくになく、魔物を恐れない無法な開拓民が、粗末な小屋を建てて居座っている。聖樹教で聞かされた話から、ネリアはそんな景色を思い描いていた。
実際の街道は、二台の荷車がすれ違えるほど広かった。雨水を逃がす溝が両側に掘られ、路肩には距離を示す杭が立っている。冬に傷んだという橋には新しい桁が入り、聖苗を載せた車が渡っても、板一枚大きく軋まなかった。
「また新しい材です」
ネリアが幌の隙間から橋を見ていると、向かいに座る老樹医が言った。細い指は、膝の間に置かれた白木の運搬架から離れない。
「この三日で、三本直したそうですよ。荷車を軽くしてくださったおかげで、聖苗の揺れも少なく済みました」
「私たちを、急がせるために?」
「そのようですな」
運搬架の中には、世界樹ユグラリアから分けられた一株の聖苗が収められている。人の胸ほどの高さしかない若木で、白い幹には銀緑色の葉が七枚ついていた。根は湿らせた白苔と聖布に包まれ、樹医が宿駅ごとに水と魔力の状態を確かめてきた。
細く、頼りなく見える。それでも母樹から分かれて以来、何年もの養生を受け、ネリアの祝福へ耐えられるまで育てられた命だった。
ネリアは聖布へ手を置いた。
「もうすぐ着きます。あなたが根を張る土地です」
答えるように、布の下で根先がかすかに動いた。
◆
森の入口にある開拓館の前で、アクシス・キリハルトは使節団を待っていた。
深緑の革鎧と、裾の分かれた金茶色の上衣。長い金髪を後頭部で編み、双頭大戦斧・開拓を背負っている。王都の武芸懇親会で見たときより、この森の景色に馴染んでいた。
その隣には、黒髪の小柄な女が大鎌を持って立っている。少し離れて、指の欠けた男と、使い込まれた法衣姿の司祭もいた。
使節団の先頭が止まると、アクシスは道の脇へ下りた。王都の教本からそのまま抜き出したような礼をする。
「ようこそ、魔寄せの森へ。予定より三日も早くお越しくださるなんて、わたくしの歓迎が届いたようで何よりですの」
聖域監督司祭セヴェランは、歓迎という言葉を聞いても表情を緩めなかった。
「追放と接収を命じられた方が、聖苗の到着を急がせるとは思いませんでした」
「わたくしも、森へ戻ったばかりのころは思っておりませんでしたわ」
「何を企んでいるのです」
「聖女様がお選びになった土地へ、聖女様のお手で世界樹を植えていただくだけですの。王命へ従っておりますでしょう?」
「君が従順だと、かえって疑わしいな」
白樹騎士の列から、ゼノ・ブルーウィロウが進み出た。王都の練兵館で叩き飛ばされたときと同じ細身の剣を佩き、アクシスの顔ではなく、足と斧の位置を見ている。
「よい勘をしていらっしゃいますの」
「否定はしないのか」
「嘘までついて歓迎するほど、親しくなった覚えはございませんわ」
アクシスは笑ってから、聖苗の運搬架へ近づいた。樹医の許しを待ち、白木の枠を覗き込む。
「思ったより小さいんですのね。替えの苗は、どちらの荷車に?」
「替えなどありません」
ネリアは思わず、強い声で答えていた。
「聖苗は橋板や車輪ではありません。一株を植定できるまで育てるのに、多くの方が何年も祈り、世話をしています。この森へ正式にお預かりしたのは、この子だけです」
アクシスはネリアを見た。からかわれるかと思ったが、すぐに頭を下げる。
「それは失礼いたしましたの。でしたら、なおさら折らずにお返ししませんと」
「お返しいただくつもりはありません。私が根づかせます」
王都の懇親会では、斧を振るうアクシスに驚かされるばかりだった。今度は自分の役目である。ネリアが言い切ると、アクシスの口元が楽しそうに上がった。
「ええ。お願いいたしますわ」
そのとき、街道脇に集まっていた村人の中から、一人の女が進み出た。四十歳ほどで、袖と前掛けに白い粉がついている。
「聖女様。ひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」
「はい」
「世界樹が根づけば、魔物は出なくなるんですか。うちの息子は、夜の見張りへ出なくて済むようになりますか」
女はエッダ・ハインと名乗った。第二村で粉挽き小屋を営み、夫を六年前の魔物警戒で失ったという。来年には長男が村の夜警へ入る。
ネリアは、王都から持ってきた使命が、初めて一人の生活へつながったのを感じた。
「世界樹は土地の魔力を清め、魔物の発生を抑えます。すぐに一頭も出なくなるとは言えません。でも、森を恐れず暮らせる土地へ変えていけます。そのために、私は来ました」
エッダの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
「住民の方々を追放するわけではありません」
セヴェランが続けた。
「聖樹へ仕える民として、教団の保護を受けながら暮らせます。王国兵も配置されるでしょう」
「それなら、私は――」
「畑と粉挽き小屋が、誰のものとして残るかは書面でお確かめなさいまし」
アクシスが口を挟んだ。エッダの方を見ているが、咎める声ではなかった。
「残ってよいと言われるのと、自分の家へ自分のものとして住めるのは、別の話ですの」
「お嬢が勝っても、魔物が消えるわけではないでしょう」
「ええ」
アクシスは否定しなかった。
「だから、あなたが王国を選ぶ権利まで取り上げる気はございませんの。選ぶ前に、値札と契約を読めと言っているだけですわ」
エッダは黙って頭を下げた。その礼が聖女へ向けたものか、アクシスへ向けたものか、ネリアには分からなかった。
◆
開拓館の長卓には、三つの候補地を記した図面と調査記録が並んでいた。
街道に近く、地盤の安定した炭焼平。湧水があり、地表の魔力が最も濃い白泉窪地。古い根道の一部が残る可能性はあるものの、水と風に難がある北根台。土の深さ、水量、日照、魔物の発生、村からの距離まで、十年ぶんの記録が添えられている。
「こちらで場所を決めれば、根づかない土地へわざと案内したと言われますでしょう」
アクシスは三枚の図面をネリアの前へ押し出した。
「ですから、すべてお見せしますの。聖女様と樹医殿で、最もよい場所をお選びくださいまし」
「閉鎖林の奥は調べていないのですか」
セヴェランが、図面の外側を指した。
開拓総監マルク・ロームが答える。
「暗根王の討伐跡があります。地下魔力は濃いでしょう。しかし荷車道も避難路もなく、根が死んだかも確認できていません。平時の植定地として出せる場所ではありません」
老樹医も首を横に振った。
「土と根の安全を調べていない場所へ、聖苗は下ろせませんな」
セヴェランはそれ以上求めなかった。三候補だけでも、十分な魔力があると考えているらしい。
地方教区の司祭トマス・リンデンが、使い込まれた儀礼書を開いた。
「確認しておきます。聖苗を土へ置くのが植樹。聖女様の祝福を受け、根が土地の魔力へ接続したと確かめられた状態が植定です。三度の日の出を越えても新しい根と芽が動かなければ、植定不成となります」
「その場合、聖苗を掘り上げ、中央樹院へ戻します」
樹医が引き継いだ。
「根を開く祝福は、苗だけでなく土地の魔力も揺らします。同じ植定区域帯では、別の聖苗であっても三十日間は再植定してはなりません。世界樹は同じ根域へ二株を育てられませんからな」
王国書記が一語ずつ記録する。ゼノも壁際に立ち、全員の発言を聞いていた。
「承知しております。魔性地には核となる魔力源がありますからな」
聖女ネリアは儀礼書へ手を置いた。
「正規の手順で行い、私が結果を確かめます」
「聖女様」
トマスが呼びかけた。
「ひとつだけ、地方司祭として申し上げます。世界樹は、魔力を浄化しながら成長します。言い換えれば、魔力を食べ続ける樹です。地表に魔力が溜まっているだけでは、幼い根を養えない場合があります」
マルクが地下根図を重ねた。黒い線の多くは途中で切れ、その周りへ赤い印がついている。
「三十年かけて、村と街道の近くの地下根を切りました。根焼きもしています。水路と火除け帯で、森から魔力が流れ続けないように分けました」
「魔物が出る土地に、魔力が足りないと?」
セヴェランの声には疑いがあった。
「魔物一頭を育てる溜まりと、世界樹を何百年も育てる流れは別です」
マルクの欠けた指が、白泉窪地の周囲にある赤い印をなぞる。
「桶に水は残っている。しかし、水路は切れている。私どもは、そう見ています」
「根づかないと断言できるのですか」
ネリアが尋ねると、マルクはすぐに首を振った。
「世界樹を植えたことはありません。五分です」
「半分は根づくと」
「はい」
隠さず答える態度は、ネリアを侮っているようには見えなかった。できることをすべて行ったうえで、結果を自分へ預けようとしている。
セヴェランが低く言う。
「挑発へ乗る必要はありません。こちらで候補を追加することもできます」
「いいえ」
ネリアは三枚の記録をもう一度見た。
水、土、日照。聖苗が感じ取っている魔力の向き。最も強いのは、白泉窪地だった。根の切断記録を含めても、これよりよい場所はない。
「第二候補、白泉窪地を選びます。現地で最後の確認を行い、条件に相違がなければ、そこへ植えます」
アクシスの目が細くなる。
「よろしいんですのね」
「私が選びました」
ネリアは署名欄へ自分の名を書いた。
「私が、この子を根づかせます」
◆
白泉窪地へ向かう一行は、二台の荷車と十数名に絞られた。
先頭はカリナと、赤毛の森猟犬コッパ。続いてアクシス、マルク、地元の案内兵。聖苗の荷車を白樹騎士が囲み、ネリアと樹医が並んで歩く。セヴェラン、ゼノ、儀礼具を積んだ車が後ろについた。
「荷車の間を詰めてください。白樹騎士の方は、左側を見ていてください。右は私が見ます」
カリナは振り返らず、静かな声で指示を出した。
「その赤い苔は踏まないでください。下に根穴があります」
若い白樹騎士が半信半疑で槍を差し込むと、苔の下が崩れた。人の腰まで入りそうな空洞が現れる。
「……承知しました」
「お願いします」
それから騎士たちは、カリナの指示へ素直に従った。
街道の周りには、木を残した防風林と、若木を植え直した区画がある。山肌に沿って水路が走り、その外側を幅広い火除け帯が囲んでいた。切った木の切株には年月と用途が刻まれ、焼いた地下根のそばには石杭が立つ。
森を倒して畑へ変えただけではない。残す森と切る森を選び、人が住む側へ魔力と魔物が戻らないよう押さえ続けている。
ネリアは、歩きながら何度も振り返った。
世界樹がなければ救われない土地だと思っていた。だが、この道も橋も水路も、三十年にわたる救いの形ではないのか。その考えが浮かぶたび、ネリアは聖苗へ目を戻した。
それでも、魔物への恐怖が消えたわけではない。エッダの夫は死に、息子も夜警へ出ようとしている。人の努力によって保たれる土地を、聖樹によってさらに安全にすることは間違いではないはずだった。
整備された街道を外れて半刻ほど進んだところで、猟犬のコッパが足を止めた。耳を伏せ、風下へ鼻を向けて低く唸る。
カリナはしゃがみ、道脇の黒土へ触れた。掘り返された土は湿り、近くの樹皮へ泥が高く跳ねている。
「止まってください」
声は低いが、全員が動きを止めた。
「大型の根鎧猪が一頭います。右の林です。聖苗の魔力へ寄ってきています」
樹医が運搬架を確かめ、顔を強張らせた。
根鎧猪は魔性樹の根と茸を食べて育つ。背と頭を木質化した瘤が覆い、成長した個体は荷車を横転させるという。
「荷車から馬を外してください。白樹騎士の方は聖苗を囲んでください」
カリナが大鎌・黒刈を下ろした。案内兵が車輪止めを噛ませ、騎士たちが馬具へ走る。
その一人の足へ、地中から黒い蔓が巻きついた。
「動かないで!」
ネリアは杖を土へ突き立てた。白い光が地面を走り、蔓の表面から黒い色を奪う。力を失った蔓を騎士が槍で断ち切ったが、棘は革靴を貫き、足首を裂いていた。
ネリアは負傷した騎士を荷車の陰へ下がらせる。傷へ触れようとした瞬間、林の中で木が折れた。
茶褐色の巨体が、低木を押し倒して現れる。猪というより、根と瘤をまとった丸太の塊だった。左右へ伸びた牙の間から黒い唾液を散らし、聖苗の荷車へ向かって突っ込んでくる。
「ネリア様、お下がりを!」
白樹騎士が叫ぶ。
聖苗の運搬架は、まだ荷車の上にある。馬は片側しか外れていない。ここで車を捨てれば、横転した荷台に苗が巻き込まれる。
ネリアは退かなかった。白木の枠へ片手を置き、もう一方の手で杖を構える。幹と根を守る薄い光が、運搬架の周囲へ広がった。
その前へ、ゼノが入る。
細身の剣を牙の外側へ当て、正面から止めずに右へ走った。刃と牙が擦れ、猪の頭がわずかに外を向く。柳葉流が変えたのは力ではなく、荷車へ届く道だった。
だが、巨体の勢いまでは消えない。ゼノの長靴が泥を滑り、片膝が地面につく。荷車から逸れた猪の先には、ネリアがいた。
「伏せなさいまし!」
アクシスが横から踏み込んだ。
大戦斧・開拓を九十度寝かせ、幅広い斧刀の平を猪の頬当てへぶつける。王都でゼノを押し潰した『大はたき』が、今度は迫る巨体とネリアの間へ壁を作った。
鉄と木質の瘤がぶつかり、低い音が森へ響く。アクシスの靴が土を削ったが、猪の頭はさらに横へ流れ、太い楢へ肩から衝突した。
ネリアの頬を泥が打った。光の膜は揺れたが、聖苗の葉は一枚も落ちていない。
「ご無事ですの?」
「はい!」
「でしたら、その騎士をお願いいたしますわ」
猪はもう向きを変え始めていた。背の瘤から細い根が伸び、周囲の魔蔓が一斉に起き上がる。
カリナの黒刈が低く走った。アクシスの足を狙う根を断ち、返す刃でゼノの退路を塞ぐ蔓を刈る。大型魔物へは近づかず、二人が戦う地面から余計なものだけを消していく。
アクシスとゼノが、太い木を挟んで背中合わせになった。
「聖苗を狙う魔物より、わたくしを見張る方が大事ですの?」
アクシスが言った。ゼノは猪から目を離さない。
「君は王命を受けた土地の当事者だ。何を守り、何を壊したかは、すべて報告する」
猪が前脚で土を掻く。カリナが二人の横へ伸びた蔓を刈り払った。
「剣術指南役の次男坊にしては、ずいぶん報告がお好きですこと」
「ブルーウィロウは、剣を教えるだけの家じゃない。各貴族家へ出入りし、王家へ内情を――」
ゼノは、そこで口を閉じた。
「王家へ内情を?」
「今のは忘れろ」
「なるほど。指南役や稽古相手として懐へ入り、何かあれば王家へ知らせる。公然の秘密というやつですのね」
「君が知らなかったことに驚いた」
「疑ってはおりましたの。ご本人から言質をいただけるとは思いませんでしたけれど」
猪が瘤を木へ擦りつけ、二人へ頭を向ける。アクシスは開拓を低く構えながら、ふむ、と声を漏らした。
「王族が駄目なら、次は近衛のルシアン様を婿候補にと考えておりましたけれど。それなら……、王家へ通じる次男坊で用は足りそうですの」
「待て。何の用が足りるんだ」
「来ますわよ」
二度目の突進が来た。
ゼノは左へ出て、猪の目元へ剣先を走らせた。猪が牙を跳ね上げたところへ、アクシスが低く踏み込む。斧術・根払いで前脚へ絡む木質根を断ち、斧頭と柄を瘤の下へ差し入れた。
「持ち上げますわ!」
「右へ流せ!」
二人の力が同じ方向へ重なった。根鎧猪の巨体が傾き、斜面側へ横転する。
カリナが最後に残った蔓を刈り、首元までの道を開く。露出した柔らかな皮へ、開拓の厚い斧刀が落ちた。
猪は短く鳴き、二度ほど脚を動かして止まった。
森へ静けさが戻る。
ネリアはそこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。杖を置き、傷を負った騎士の靴を脱がせる。
「少し痛みます。足を押さえていてください」
傷口へ両手を添える。白い光が棘の毒を押し出し、裂けた肉を寄せていく。完全には治せないが、出血を止め、支えがあれば歩けるところまでは戻せた。
「ありがとうございます、聖女様」
「礼は、無事に帰ってからにしてください」
ネリアは立ち上がり、聖苗を確かめた。七枚の葉はすべて残っている。幹にも、根包みにも傷はなかった。
「なぜ、守ったのですか」
アクシスへ尋ねる。
「何をですの?」
「私と、聖苗を。あなたは、この子が根づくことを望んでいないのでしょう」
「折れた苗が根づかなかったところで、わたくしの勝ちにはなりませんの。それに、客を森で食わせるほど行儀が悪くはございませんわ」
アクシスは斧刀についた黒い血を拭いながら、当たり前のように答えた。
ネリアは言葉を失った。聖樹を憎み、信仰を侮っている女なら、もっと簡単に敵と呼べた。この女は、聖苗を傷つけず、自分たちを生かしたまま、正しい手順の中で勝とうとしている。
「今度は受けなかった」
ゼノが泥を払いながら言った。
「半分は受けてましたわ」
「君が来る位置へ流したんだ」
「違います。偶然です」
カリナが静かに切った。
ゼノは姉妹を交互に見てから、アクシスへ向き直る。
「それより、さっきの次男坊というのは、まさか僕のことか」
「あなた以外にも、次男坊はいらっしゃるでしょう?」
アクシスは、泥のついた長靴から顔まで、値踏みするようにゼノを眺めた。
「まあ、候補の一人くらいには入れて差し上げてもよくってよ」
「僕を近衛騎士の代用品にするな」
「まだお名前を出しておりませんのに、ご自覚がおありで?」
「いま、そのお話をなさる必要があるのですか」
ネリアが言うと、アクシスは悪びれもしなかった。
「猪が待ってくださらなかったんですの」




