第6話 荒地開拓伯令嬢、世界樹を急がせる
王都から戻ったアクシスが署名したのは、自分が荒地開拓伯ではないと認める書面だった。
王都から戻った翌朝。
キリハルト城の広間には、王領接収特使エルマー・ハークと若い書記、それにキリハルト家の主だった者が集まっていた。
長卓の上へ、三通の書面が並べられている。
その一通目には、『荒地開拓伯職権返還及び引渡確認書』と記されていた。
初代荒地開拓伯ガルド・キリハルトの官職が、その死亡時に失効していたこと。現在までキリハルト家が行使してきた徴税、裁判、徴兵、通行管理の権限を、王会議から六十日目までに停止すること。官印、兵士団、裁判記録、街道と城砦の管理を、王国から派遣される後任へ引き渡すこと。
アクシスは、文面を最初から最後まで読んだ。
「父上の官職は三年前に消えていた。わたくしが後を継ぐことも認めない。だから、六十日だけ引き渡しのために使わせた権限を返せ。そういうことですのね」
「そのとおりです」
特使エルマーは向かいの席から答えた。
「王都で、陛下から直接お聞きになった内容と相違はないはずです」
「ええ。聞きましたわ」
アクシスは羽根筆を取った。
隣に座る家令のローデンは止めなかった。母リディアも、卓の反対側に立つ義姉カリナも、何も言わない。
紙の最後には、署名する者の名を書く空白がある。
荒地開拓伯キリハルト卿ではない。
ただの、アクシス・キリハルト。
十五歳で父の官印を握ってから、三年間、その名で命令書へ署名したことはなかった。
筆先を紙へ置く。
「父上の死と一緒に消えたものを、今さら返せというのも妙な話ですわね」
「必要なのは、今後その権限を行使しないという確認です」
「でしたら確認なさいまし。陛下の前で承ったことを、森へ帰った途端に違えるほど、安い口をしておりませんの」
アクシスは自分の名を書いた。
力が入りすぎたらしく、最後の一画で紙がかすかに鳴った。
エルマーは署名を確かめ、若い書記へ渡した。書記は砂を振って墨を乾かし、時刻と立会人の名を記録する。
「ご協力に感謝します」
「まだ一枚目でしてよ」
「残る二通も、引き渡しを円滑に進めるためのものです」
二通目は、『魔寄せの森返還承諾書』だった。
アクシスは読み始めた。
魔寄せの森、その内部にある開墾地、管理林、城砦、村落、街道、橋、水路、鉱物、木材、その他一切について、キリハルト家が占有、管理、収益、開墾、相続に関する権利を主張せず、王国へ返還することを承諾する。
「さっきより、ずいぶん長くなりましたわね」
「土地と施設を引き渡した後、権利関係を残さないための書面です」
「分かりましたわ」
アクシスが羽根筆を紙へ向ける。
その筆軸を、ローデンの人差し指が押さえた。
「こちらへは、署名なさらないように」
「何でですの」
「お返しするものではないからです」
アクシスは筆を持ったまま、家令を見た。
「森は王領で、父上の官職が切れたから返せと言われたんですのよ。さっきの紙と同じ話でしょう」
「同じ土地に関する、別の話でございます」
ローデンは返還承諾書の文面を指でたどった。
「王国からガルド様へ預けられたのは、徴税、裁判、徴兵、通行管理といった官職上の権限です。官印も、王国から渡されたものでございます。ですから返せと言われれば、返さなくてはなりません」
次に、窓の外を示した。
城壁の向こうに第一村の屋根が見える。その先には、雨に濡れた畑と見張り塔がある。
「ですが、あの畑は王国から預かったものでしょうか。北村の水路も、第二村の柵も、王都から荷車に載せて運んできたものではございません」
「土地そのものは、最初から王のものだと」
「王に上級支配権があることと、開墾した者に何の権利もないことは同じではありません。荒地開拓伯を任命すると同時に、開拓のための民を募った。そのための墾森永年私財令がございます」
エルマーの目が、わずかに細くなった。
「古い勅令だ。魔寄せの森へ適用されるとは、まだ決まっていない」
「適用されないとも、決まっておりません」
ローデンは乾いた声で返した。
「ガルド様は暗根王を討ち、三十年かけて森を拓きました。家中だけではなく、三千二百人の住民が畑を耕し、家を建て、井戸を掘り、墓を作っております。官職が一代で終わっても、開墾に基づく保有、収益、相続、共同利用の権利は残る可能性がございます」
「可能性、ですのね」
アクシスが言った。
「はい。原契約との関係も、どの土地へ誰の権利が認められるかも、これから調べなくてはなりません」
「まだ決まってもいない権利のために、署名するなと?」
「権利がないと決まる前に、放棄する必要はございません」
ローデンは筆軸から指を離した。
「それに、この紙でお嬢様が放棄できるのは、せいぜいキリハルト家の権利までです。村人が自分で拓いた畑や、村が共同で使っている水路と墓地を、お嬢様一人の署名で差し出すことはできません」
アクシスは、改めて返還承諾書を読んだ。
さきほどの確認書は、何月何日までに、どの権限と印を渡すかが書かれていた。
こちらの紙には、一切という言葉が何度も出てくる。どの畑を誰が拓いたか。誰の家がどこにあるか。共同の水路や墓地をどうするか。それらは一つも書かれていない。
「特使殿」
アクシスは羽根筆を置いた。
「キリハルト家に何の開墾権もないのでしたら、この紙へ署名を求める必要もないんじゃございませんの?」
エルマーは、すぐには答えなかった。
若い書記が手元の記録から顔を上げる。
「後日の争いを避けるためだ」
やがてエルマーは言った。
「王国は、荒地開拓伯の官職と、開拓地の管理を一体としてガルド卿へ預けたと解釈している。しかし、キリハルト家が異なる主張をするなら、それを記録する必要がある」
「では、記録してくださいまし。官職上の権限は、第六十日目にお返しします。開墾した土地の権利は、調べ終わるまで放棄いたしませんわ」
エルマーは返還承諾書を引き戻した。
「内務省へ報告する」
「お早めにお願いいたしますの」
三通目の武装解除に関する同意書も、アクシスは署名しなかった。代わりの王国兵の人数、配置、到着日が決まってから協議する。兵士長ブラムが特使へ繰り返してきたことを、そのまま確認した。
アクシスが署名したのは、一通だけだった。
王から借りた権力を返す紙。
自分たちが作ったものまで返す紙ではない。
◆
「では、橋を三本ほど壊しますわ」
その日の夕刻。
家族と家臣を集めた作戦会議で、アクシスは最初にそう言った。
広げられた地図には、王都から魔寄せの森へ至る街道と、聖樹植定使節団の予定経路が記されている。
使節団が王都を発つまで四日。予定どおりなら、魔寄せの森へ到着するのは十六日後だった。
「完全に落とす必要はありませんの。桁が傷んだことにして、一台ずつ渡す。荷車が詰まれば三日は稼げますわ」
「却下いたします」
ローデンが言った。
「では、飼葉を買い占めますの。途中の宿駅から馬を出せなくすれば――」
「却下です」
「魔物の繁殖期で通行止め」
「却下」
「まだ三つしか言ってませんわ」
「残る案も、似たようなものでしょう」
ローデンは地図の隅へ、四十八と書いた。
「使節団を一日遅らせても、こちらの期限が一日延びるわけではございません。六十日目になれば、開拓した街道の通行管理権は王国へ移ります。その後は、王国兵が自分で橋を直し、自分で道を開けます」
「それまでに四十八日ありますの」
「遅らせることへ四十八日を使えば、こちらも何一つ進みません」
アクシスは唇を曲げた。
「ですが、聖苗を植えられたら、森は聖域になりますのよ」
「聖域になれば、土地をめぐる争いも聖樹教の管轄へ移されます」
リディアが言った。
「墾森永年私財令で開墾権を認めさせるにしても、その前に聖域とされれば、畑を耕すにも木を伐るにも教団の許可が必要になります」
「正確には、植えただけでは聖域になりません」
答えたのは、卓の端に座るトマス・リンデンだった。
キリハルト領の教区司祭である。村の出生、婚姻、死亡、埋葬を記録し、ガルドの死を知りながら王都へ告げなかった人物でもある。
今日は使い込まれた教典ではなく、地方教区向けの儀礼書を持ってきていた。
「聖苗を土へ置くのが植樹です。聖女が祝福し、根が土地の魔力へ接続したことを確認するのが植定。教会法上、土地が聖域となるのは植定が成った後です」
「根づくまでは、ただの苗木ですのね」
「聖物ではあります。乱暴に扱えば、わたしも怒ります」
「乱暴にはいたしませんわ。まだ」
トマスは聞かなかったことにして、儀礼書を開いた。
「祝福から三度の日の出を越えても新しい根と芽が動かなければ、植定は不成となります。聖苗は掘り上げ、根を聖布で包み直し、少なくとも三十日は休ませる。根を開く祝福を続けて行えば、苗が土地の魔力を過剰に吸い上げる危険があるためです」
「一度失敗すれば、次に植えられるのは三十日後」
リディアが確認した。
「正規の手順では」
トマスは、そこで言葉を区切った。
「聖域監督司祭が、規則を守る方であれば」
「守らせればよろしいんですの。聖女様と、樹医と、王家の監察役の目の前で」
アクシスは地図へ目を戻した。
「ですが、世界樹の苗でしょう。魔寄せの森ほど魔力の多い場所なら、どこへ植えても根づくんじゃございませんの?」
「どこでも、ということはないでしょう」
開拓総監マルク・ロームが、別の図面を地図の上へ重ねた。
森の地下を走る魔性樹の根と、魔力集積地を記した図面だった。黒い線の多くは途中で断たれ、その周囲を赤い記号が囲んでいる。
「街道と村の近くでは、三十年かけて地下根を切りました。根焼きもしています。水路と火除け帯で、魔力が一つの場所へ集まらないようにもした」
「地上に魔力が残っていても、地下はつながっていない?」
「はい。つながっていれば、暗根王が死んだ後も、村の下から魔性樹が生えていました」
マルクは三か所へ丸をつけた。
「湧水があり、地表の魔力が濃く、聖苗の候補になりそうな場所です。どこも、かつては魔力の集積地でした。しかし今は、周囲の根を切り、村や街道から分けてあります」
「聖苗は根づきませんの?」
「世界樹を植えたことはありません。断言はできません」
「役に立たねえ返事ですこと」
「断言できないことを断言する者よりは、役に立ちます」
マルクは表情を変えずに答えた。
アクシスは三つの丸を見た。
いずれも街道から外れ、森の奥にある。使節団の重い荷車で入るなら、橋と道を整え、途中に宿営地を用意しなければならない。
「こちらが場所を決めたら、わざと根づかない土地へ連れていったと言われますわね」
「言われるでしょうな」
家令のローデンがうなずく。
「でしたら、全部見せますの。土も、水も、魔力も、根を切った記録も。聖女様と樹医に、自分で選んでいただきますわ」
「選んだ場所で根づいた場合は?」
兵士長ブラムが尋ねた。
「そのときは、根づいてから考えますの」
「逆にひとつの候補地で根付かなかった場合、他の候補地に移される可能性は?」
「その場合でも、魔寄せの森の魔力帯の範囲ならやはり三十日後です」
トマスが補足した。
「作戦と呼ぶには、ずいぶん神頼みですな」
「聖女様を相手にするんですもの。少しくらいは神様にも働いていただきますわ」
アクシスは地図の上で、王都から森へ延びる街道を指でたどった。
「使節団が予定どおり着くのは、十六日後でしたわね」
「はい」
「遅すぎますわ」
卓を囲んだ者たちが、アクシスを見た。
「聖苗が根づかないという結果を作るなら、一日でも早い方がよろしいんでしょう。残った時間で、開墾権を調べ、王都へ訴える。でしたら、橋を壊している場合じゃございませんの」
アクシスは先ほど壊すと言った橋を、指先で叩いた。
「全部直しますわ。荷車が二台ずつ渡れるように」
「使節団を、こちらから急がせるおつもりですか」
リディアが聞いた。
「ええ。最短の道を教えて、飼葉も替え馬も用意する。持ってこなくてよい荷物はこちらでそろえますの。森へ着いたら、聖女様がお望みの場所へ、わたくしが直々にご案内いたしますわ」
カリナが、三つの候補地を順に見た。
「途中に、魔物が出ます」
「それも見ていただけばよろしいんですの。清めたいとおっしゃる森が、どういう場所なのか」
「死なせないようにしてください」
「姉上も一緒に来てくださるんでしょう?」
「そのつもりです」
カリナは普通の調子で答えた。
「でしたら、一人も死なせませんわ」
アクシスは両手を卓へついた。
「決まりですの。根づけ屋を止めるのはやめますわ。植えて、根づかず、掘り返して帰るところまで、全力でお手伝いいたしますの」
◆
翌朝、特使エルマーの前へ、新しい書面が積まれた。
「今度は何の承諾書ですか」
「こちらからの受け入れ計画ですわ」
アクシスは一枚目を開いた。
王都から魔寄せの森までの推奨経路。宿駅ごとの距離。飼葉と食料を受け取れる場所。壊れやすい橋と、迂回した場合の日数。森へ入ってから使える柵宿と、聖苗を安置できる部屋。
二枚目には、使節団が王都から運ばなくてもよい物資を記した。
宿営用の天幕、薪、飲み水、馬の飼葉、牛車の予備車輪、橋板、縄、杭、儀礼場に使う木材。キリハルト側で用意すれば、使節団の荷車を減らせる。
三枚目は、森の入口まで迎えに出す案内人、荷車大工、馬医、護衛の名簿だった。
「予定より三日は早く着けるはずですの」
エルマーは三枚を読み、最初の一枚へ戻った。
「昨日まで、植樹使節を妨害するつもりだったのではありませんか」
「昨日のわたくしに聞いてくださいまし」
「同じ人物でしょう」
「人は一晩あれば賢くなりましてよ」
エルマーは納得しなかった。
「何を企んでいる」
「王命へ協力しようとしておりますの。拒んでも疑われ、手伝っても疑われるのでしたら、どうすれば信用していただけるのかしら」
「あなたの場合、まずその笑顔をやめることだ」
自分が笑っていたことに、アクシスはそこで気づいた。
「失礼いたしましたわ。難しい仕事を見つけると、楽しくなってしまいますの」
「ますます信用できない」
エルマーは言いながらも、書面を捨てはしなかった。
「使節団の編成は、まだ王都で進められている。いま早便を出せば、荷車と物資を減らすことはできるかもしれない」
「でしたら、特使殿の印をお願いいたしますの。王国の宿駅は、追放された令嬢の頼みでは動いてくださいませんもの」
「物資を用意する費用はどうする」
「王国の使節団を、王命によって迎えるための費用ですわ。村から無償で取り上げる気はございませんの」
今度はローデンが、見積書を差し出した。
飼葉、麦、薪、材木、職人の日当、荷車と馬の借り賃。一つずつ数量と価格が書かれている。
「王国に払っていただきます」
「内務省の認可なしに、この全額は約束できない」
「でしたら、特使殿が認められる範囲を先に。残りは使節団へ直接売ります。受領証だけは、必ず出していただきますわ」
「土地を取り上げる相手からも、代金を取るのか」
「土地を取り上げる相手だからこそ、ただで差し上げる理由がありませんの」
エルマーは見積書を若い書記へ渡した。
「王都へ送る。認められるかは、私には保証できない」
「十分ですわ。認めないと返事をするころには、こちらの準備が終わっておりますもの」
「勝手に用意した物資まで、王国が買うとは限らないぞ」
「その場合は、村で使いますの。飼葉も薪も橋板も、あって困るものじゃございませんわ」
エルマーは深く息を吐いた。
それでも最後には、受け入れ計画と早便の革筒へ、王領接収特使の印を押した。
◆
その日の昼、王都へ向けた早便が城門を出た。
続いて、森の外にある宿駅へ先触れが走った。使節団のために飼葉と麦を確保すること。使わなかった分はキリハルト家が買い取ること。馬と荷車を貸した者には、王国の受領証を渡すこと。
開拓総監マルクは、街道と三本の橋へ人を分けた。
アクシスは、そのうち最も古い橋へ来ていた。
魔神戦争のころに架けられた石脚の上へ、ガルドたちが木の桁と橋板を足した橋である。冬の凍結で桁が割れ、いまは荷車を一台ずつ渡していた。
木こりと大工が、道の脇へ新しい材を並べている。
「お嬢。本当に、こいつを直すんですか」
古参の木こりが尋ねた。
「世界樹を運ぶ荷車が通るんでしょう。橋板を二枚ほど外しておけば、いい足止めになりますぜ」
「昨日のわたくしなら、四枚外してましたわね」
「では」
「今日は、倍に増やしますの」
アクシスは大戦斧・開拓を肩から下ろした。
尺取り虫指で太さを測る。
「使節団の荷車で落ちないように、桁も増やしますわ。聖苗が折れたら、根づくかどうか試せませんもの」
「何で、そこまで」
「森を取り上げに来る方々へ、森がどういう場所か見ていただくためですの。入口で帰られたら困りますわ」
木こりは、まだ納得していない顔をしていた。
「王都へ降ったわけじゃありませんのよ」
アクシスは材木へ最初の切り込みを入れた。
「王都が作った決まりのなかで勝つには、その決まりを最後までやっていただく必要がございますの」
二度、三度と同じ場所へ斧を入れる。深くなった切り込みへ楔を当て、大工が木槌を振るった。
材木が乾いた音を立てて割れた。
「運びますわ。今日中に一本目を替えましてよ」
アクシスが材木の端を担ぐ。
木こりたちも、残った側へ手をかけた。
橋を壊すより、直す方が人手も時間もかかる。
街道を塞ぐより、重い荷車を奥まで通す方が難しい。
それでも開拓団は、もともと何もないところへ道を通してきた者たちだった。
夕刻には、最初の桁が入れ替えられた。
橋の上を、石を積んだ荷車がゆっくりと渡る。板は軋んだが、桁は沈まない。向こう岸まで着くと、大工たちから声が上がった。
そのころには、王都へ向かう早便は、最初の宿駅で新しい馬へ乗り替えていた。
革筒の中には、追放された荒地開拓伯令嬢からの申し出が入っている。
聖樹植定使節団の到着を、三日早めるための支援計画。
アクシスは直したばかりの橋に立ち、王都へ続く街道を見た。
止めるために、急がせる。
聖苗が根づかないという結末まで、一日でも早く連れてくる。
「さあ、いらっしゃいまし」
開拓を肩へ担ぎ、アクシスは笑った。
「世界樹の根っこが、わたくしたちの森に負けるところを見せて差し上げますわ」




