第4話 荒地開拓伯令嬢、残り四十九日(1)
灰色の伝書鳥が魔寄せの森へたどり着いたのは、王都を発った翌日の夕刻だった。
西の空は雨雲に覆われ、森から吹き下ろす風が、第一村の屋根を低く鳴らしていた。畑では春蒔きに備えた土起こしが続き、街道脇の共同井戸には、一日の仕事を終えた女たちが集まっている。
鳥に最初に気づいたのは、見張り塔の上で鐘番をしていた少年だった。
村の北には、石造りのキリハルト城がある。城といわれているが、こつこつと砦を改築した質素なものである。
城の鳥小屋を預かるのは、城壁ではなく第一村の見張り塔だった。高い木々に囲まれた城よりも、開けた畑の中にある塔の方が、遠くから帰る鳥には見つけやすい。
灰色の鳥は、村の上を一度だけ回った。風にあおられて高度を落とし、それでも塔の屋根へ爪をかける。少年が両手で抱き上げると、胸は小刻みに震え、羽は雨と泥で汚れていた。
右脚に、細く巻かれた紙がある。深緑と金茶の二色で編まれた紐はキリハルト家、結び目へ差し込まれた赤い糸は急報を示していた。
少年は鐘を鳴らそうとして、手を止めた。
魔物の襲来を告げる鐘ではない。火事でも、倒木でもない。だが、王都へ向かった女主人から急の鳥が帰ることが、よい知らせであるはずはなかった。
「城へ走れ!」
塔の下にいた父親が叫んだ。
少年は鳥を胸へ入れ、階段を駆け下りた。井戸端の女たちが道を空け、畑にいた男たちが鍬を止める。何があったのかと尋ねる者はいたが、答えられる者はいない。
灰色の翼が運んできたものを、村はまだ知らなかった。
◆
そのころ、アクシスは街道の上で馬を急がせていた。
王都を出て二日目になる。引き渡し命令書と通行証があるため、宿駅では継立馬を借りられた。それでも馬だけを乗り潰す早馬と、荷物を積んだ馬車とでは、進める距離が違う。
アクシスは馬車の横を馬で進み、何度目かになる振り返りをした。
「もう少し速く走れませんの?」
「走れます」
御者台に座ったローデンが答えた。
「ただし今日の夕方に馬が潰れ、明日からお嬢様が馬車を引くことになります」
「わたくしなら引けましてよ」
「馬車だけなら。荷と私まで引かせるのは、家令として気が引けます」
「降りて走ればよろしいんじゃなくて?」
「家令を何だと思っておいでで?」
「役に立つ荷物ですわ」
ローデンは手綱を握ったまま、深く息を吐いた。否定しないのは、自分でも似たようなものだと思っているからかもしれない。
道の両側には、王都近郊の穏やかな麦畑が広がっていた。森は遠く、土はよく均され、畑の境には低い石垣が続いている。三十年かけて木を伐り、根を掘り、魔物を追い払って作った土地とは違う。
アクシスの頭には、王都の早馬の姿が焼きついていた。
王立練兵院の外を駆け抜けた、内務省の紋章をつけた二騎。あの者たちは一日も休まず、宿駅ごとに馬を替えて進む。自分たちより先に着くのは分かっていた。だから鳥を飛ばした。それでも、森で何が起きているかを考えるたび、腹の底へ石を詰め込まれたような気分になる。
「母上が、妙な紙へ署名させられていたらどうしますの」
「奥方様が、文面を読まずに署名をなさると?」
「読みすぎて、王使を三日ほど机の前に立たせるかもしれませんわ」
「それは相手の心配です」
「ブラムは、武器庫を渡せと言われたらどうすると思いますの?」
「まず命令書を見せろと言います。書いてあれば人数を確かめ、代わりに村を守る兵が何人来るのか尋ねるでしょう」
「相手が答えなかったら?」
「答えるまで、同じ質問をします」
それもブラムらしい。あの兵士長は、アクシスのように斧で相手を黙らせることはできない。その代わり、部下を一人も勝手に動かさず、必要な返事が来るまで持ち場を離れない。
「姉上が一番心配ですの。あの人、静かな顔で役人を刈りかねませんわ」
「カリナ様でしたら、役人を刈る前に護衛の足場を刈るでしょうな」
「余計に悪いじゃありませんの」
アクシスは手綱を握る手へ力を込めた。
心配なのは家族や兵士だけではない。城の倉へ種麦を取りに来るはずの北村の農家がいる。水路番の爺さんは、王国へ土地を返せと言われて意味が分かるだろうか。父の代から街道脇で蹄鉄を打ってきた鍛冶屋は、王国直轄になれば仕事が増えると喜ぶかもしれない。六つの村が、一つの返事をするとは限らなかった。
「鳥は、今ごろ着いております」
ローデンが言った。
「風が悪くとも、早馬より一日は先です。お嬢様の命令を読めば、皆様は何をすべきか分かります」
「紙一枚で足りますの?」
「お嬢様が書いたのは、抵抗するな、集まるな、署名するな、調べろ、の四つです。それ以上のことは、現地を見ている者が決めるべきでしょう」
「最後に、勝手に諦めるなとも書きましたわ」
「殴ると書いてありました」
「意味は同じですの」
ローデンは、そこで初めてアクシスを見た。
「お嬢様が三年かけて、任せてきた方々です。離れた場所だからとて十日ほども信じられないのでは、任せたことになりません」
痛いところを突く男だった。
十五歳で父の官印を握ってから、アクシスはすべてを自分で決めてきたわけではない。母は城と家政を守った。姉は森と現場を守った。ローデンは文書と物資を整え、ブラムは兵をまとめた。誰か一人が欠けても、三年間のどこかで開拓団は崩れていた。
アクシスは前へ向き直った。馬の首筋は汗で濡れている。これ以上急がせれば、次の宿駅へ着く前に脚を痛めるだろう。
「分かりましたわ。予定どおり、十日で戻りますの」
「ご理解いただけて何よりです」
「その代わり、わたくしが帰るまでに何か盗られていたら、あなたも一緒に殴りますわ」
「誰をです?」
「これから考えますの」
アクシスは馬の速さを、ようやく馬車へ合わせた。
◆
鳥便の紙は、第一村からキリハルト城へ運ばれた。
アクシスの実母、リディア・キリハルトは執務室で封を解き、一度目は母として、二度目は城を預かる者として読んだ。
夫ガルドの死を王都へ明かしたこと。アクシスの爵位継承が認められなかったこと。六十日以内に土地、兵、街道、台帳を王国へ引き渡すこと。聖樹植定使節団が世界樹の聖苗を運んでくること。
娘の字は、最後の数行になるほど小さく、詰まっていた。
リディアは読み終えた紙を、机の上へ置いた。暖炉の火はすぐそばにある。しかし、三年間の欺罔を支えた女は、不利になりそうな紙を見たからといって、燃やしはしなかった。
「到着した日と時刻を、鳥便台帳へ記してください。紙は原本のまま保管します。村長たちには写しを」
書記がうなずき、紙を受け取ろうとした。
「最後の一文もですか」
書記の指先が、余白へ小さく書かれた文を示している。
『勝手に諦めた者は、帰ったらわたくしが殴りますわ』
「そこを省けば、あの子の手紙ではないでしょう」
リディアは静かに答えた。
執務室には、すでに主だった者が集められている。
兵士長ブラム・ホルトは、城内にいながら鎖帷子をまとっていた。大柄ではあるが、アクシスやガルドのように、一人で大きな魔物を倒せる男ではない。槍も盾も剣も一通り使うが、彼の本当の仕事は、後ろにいる兵を逃げずに立たせ、無事に持ち場へ帰すことだった。
窓際には、黒髪の小柄な女がいる。
カリナ・キリハルト。アクシスの腹違いの姉であり、ガルドが遍歴騎士だったころから森を歩いてきた、開拓団最古参の一人である。壁へ立てかけた大鎌・黒刈は、農具を基にした長い柄と横向きの刃を持ち、魔草や蔓、低い根を刈るために補強されていた。
カリナは伝書を読んでも、顔色を変えなかった。感情が乏しいわけではない。口へ出す前に、必要な言葉とそうでない言葉を分ける癖がある。
「アクシスは、いつ戻りますか」
「通行証を使っても、十日ほどでしょう」
リディアが答えると、カリナは小さくうなずいた。
「では、それまで持たせます」
もう一人、卓上へ三枚の地図を広げている男がいた。
開拓総監マルク・ローム。四十八歳。測量人として森へ入り、木こりになり、今では根見、伐採、根切り、道、橋、水路の仕事をまとめている。剣も槍も持たず、腰に下げているのは折尺と墨壺だった。魔性樹の根に奪われた左手の四本指が、地図の上で動く。
「王国の使者は、明日には来るでしょう」
マルクは街道の宿駅を指でたどった。
「早馬なら、王都から三日。二騎だけなら、橋も渡れます」
「城門を閉めるか」
ブラムが尋ねた。
「いいえ」
リディアは即座に答えた。
「門は開けてください。兵も増やしません。特使の馬には飼葉を与え、使者には食事と部屋を用意します」
「武器庫を渡せと言われた場合は」
「中を見せてください。鍵は渡さないように」
ブラムは眉を動かしたが、反論しなかった。
「何を根拠に断ります」
「アクシスが引き渡し責任者に指定されています。責任者の不在中に、わたくしが勝手な引き渡しをするわけにはまいりません」
「王使が、待てないと言ったら?」
「待てない理由を書いていただきます。署名と王印も忘れずに」
ブラムの口元が、わずかに緩んだ。
リディアはカリナへ向き直った。
「村の者を、城へ集めないようにしてください。王都への怒りで、鉈や弓を持ち出す者が出るでしょう」
「承知しました」
「無理に押さえれば、かえって騒ぎになります」
「話します。それでも聞かなければ、道を塞ぎます」
カリナは普通の丁寧語で、静かに言った。大鎌を持つ女の言葉としては物騒だが、少なくとも人を刈るとは言わなかった。
「マルク総監は、止められる仕事と止められない仕事を分けてください。新しい土地を拓くことは、もう許されないかもしれません」
「既存の水路と橋まで止めれば、土地を返す前に壊れます」
「その違いを、王都の方にも分かるように書いてください」
「図面にしてもよろしいですか」
「文章より、そちらの方がよいでしょう」
最後に、リディアは家中の印章を集めるよう命じた。ガルドの官印はすでに封じてある。キリハルト家の印、城の倉庫印、兵士団の受領印、村との契約に使う印。誰か一人が王使に迫られても、勝手に捺せないよう、すべてこの執務室へ置く。
王命を拒む準備ではない。
何を命じられ、誰が受け取り、どこまで渡したかを、二度と曖昧にしないための準備だった。
◆
内務省の騎手二人は、翌日の昼に到着した。
先頭の男はエルマー・ハークと名乗った。内務省領地整理局の次官補であり、魔寄せの森の王領接収特使を命じられている。四十前後の角張った顔に、短く刈った褐色の髪。豪奢な服も武器もなく、泥のついた官服の胸へ王国紋章をつけていた。
もう一人は、命令書の革筒を守る若い書記である。二人とも馬を乗り替えてきたため、本人より先に馬の方が倒れそうだった。
城門は開かれた。
ブラムは通常の門衛だけを並べ、自分も兜を脱いで出迎えた。槍兵を増やさず、弩兵を壁へ上げず、それでも門の内側には、日ごろと同じ兵が持ち場についている。
エルマーは歓迎に礼を述べ、休息より先に公示を求めた。
城下の第一村へ人が集められた。畑仕事の途中で来た者、鍛冶場から革前掛けのまま出てきた者、子供の手を引いた者。第一村だけではない。六つの村へ同じ文を掲示するため、村長の使いも呼ばれている。
エルマーは見張り塔の下へ立ち、革筒から王命の写しを取り出した。
「初代荒地開拓伯ガルド・キリハルトは、三年前に死亡していた。その官職は死亡時に失効しており、以後、キリハルト家が行った徴税、徴兵、裁判、通行管理は、正当な権限を欠くものである」
ざわめきが広がった。
ガルドが亡くなったのは三年も前のことだったが、疑問を持つ者はいた。なぜアクシスが二代目荒地開拓伯に任官されないのか。アクシスの成人を待っているのだと聞かされ、納得していた。権限が失効していたという言葉が、人の口から口へ移っていく。
「国王レオネル三世陛下は、六十日以内に魔寄せの森の統治権、兵権、通行管理権、城砦、各種台帳を王国へ返還するよう命じられた。アクシス・キリハルトの爵位継承は認められず、同人は王都より追放された」
今度は、はっきりと怒声が上がった。
嘘だと叫ぶ者がいた。王都は三十年も何もしなかったと罵る者がいる。反対に、王国直轄になれば街道が整い、税も軽くなるのではないかと囁く者もいた。
「魔寄せの森は王領として再編され、世界樹ユグラリアの聖苗を迎える。聖域化により魔力を鎮め、住民の安全と王国の安寧を――」
「畑はどうなる!」
群衆の中から声が飛んだ。
「家は。井戸は。俺たちは、ここから追い出されるのか」
「個々の住民の処遇は、引き渡し期間中に調査する。残留を希望する者は、聖樹教の庇護下へ入ることもできる」
「調査が終わるまで、麦は蒔いていいのかよ!」
エルマーは答えを急がなかった。手元の王命に、そのことは書かれていない。
「本官が、ここで独断してよい事柄ではない。要望は書面で受け取り、内務省へ送る」
気休めを言わない点では、誠実な男だった。だが、畑を耕す者にとって、答えのない誠実さは空腹と大差がない。
王命の写しが、見張り塔の板壁へ打ちつけられた。
キリハルト家は取り潰される。
その言葉だけは、詳しい法律を知らない者にも伝わった。
◆
公示の後、エルマーはキリハルト城の広間へ通された。
食事が出され、馬には飼葉が与えられた。暖炉の近くには濡れた外套を乾かす場所が用意され、書記のための机、紙、墨まで置かれている。
「行き届いた歓迎に感謝いたします、リディア夫人」
「王命を運んでくださった方を、雨ざらしにはできませんもの」
リディアは卓を挟み、エルマーと向かい合った。
卓上には、三通の書面が置かれている。魔寄せの森返還承諾書。キリハルト城および倉庫の仮受け渡し書。兵士団の武装解除命令を、家中へ徹底することを約する同意書だった。
「いずれも、六十日の準備を始めるためのものです。ただちに退去を求める書面ではありません」
「承知しております」
「では、署名を」
エルマーが羽根筆を差し出す。
リディアは受け取らなかった。
「陛下は、ガルド・キリハルトの官職が三年前に失効したとお定めになりました」
「そのとおりです」
「では、わたくしは三年前から荒地開拓伯夫人ではございません。領主の妻でない女に、領地を返還する権限がございますか」
エルマーの眉が、初めて動いた。
「あなたはキリハルト家の家政を預かり、城に残る最上位の者だ」
「家の印を預かってはおりますが、王領を動かす権限は預かっておりません。まして王命は、娘のアクシスを六十日間の引き渡し責任者としています」
「その娘が、いまここにいない」
「だからこそ、勝手に署名できません」
リディアは声を荒らげなかった。王都の大広間で人を煙に巻くほどの宮廷人ではない。しかし、夫と娘が森で木と魔物を相手にしている間、契約、相続、徴税、婚姻、埋葬に関する書面を扱ってきた。
「権限のない女に署名させた書面を、陛下の命令より重くお扱いになるおつもりでしょうか」
「そのような意図はありません」
エルマーは羽根筆を置いた。怒鳴らず、三通の書面を手元へ戻す。
「では、何になら署名できますか」
リディアは、あらかじめ用意していた一枚を差し出した。
王命を受領したこと。王領接収特使を城内へ迎えたこと。引き渡し責任者アクシス・キリハルトは現在帰還中であり、到着後すみやかに協議へ応じること。
それだけが記されている。
「こちらでしたら」
エルマーは文面を二度読み、若い書記にも確認させた。キリハルト側が王命を拒否していない証明にはなる。だが、土地や城を渡す同意には使えない。
「よいでしょう」
二通作られた受領証へ、リディアとエルマーがそれぞれ署名する。片方は特使が持ち、片方は城に残された。
リディアは初めて、茶の入った杯へ口をつけた。
「娘が戻るまで、お茶くらいはお出しできます」
「十日ぶんとなると、遠慮したいものです」
「もう三日ほど過ぎておりますわ」
エルマーは笑わなかったが、杯は受け取った。




