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第11話 荒地開拓伯令嬢、奮闘する

 荒地開拓伯令嬢アクシス・キリハルトが一歩踏み出すより先に、聖女ネリアが外套の裾をつかんだ。


「まだ、幹には刃を入れないでください」


 夜明けの空へ伸びた黒聖樹は、いまも太くなり続けている。白い樹皮の下を黒い筋が脈打ち、そのたびに討伐跡の斜面が割れた。一本の根は白泉の方角へ、もう一本は南の畑へ向かっている。


「伐らなきゃ黒聖樹は村まで行きますのよ」


「分かっています。でも、聖苗はまだ生きています」


 ネリアは黒い根脈の残る手を幹へ向けた。


 すでに人の胴より太くなった根元の中央に、細い白い光が残っている。第二の聖苗がもともと持っていた幹と根。その外側へ暗根王の黒い魔力が絡みつき、奪った力で巨大な樹体を作っていた。


「私が、白い流れを根元へ戻します。黒い根との境を見つけます。それまで、幹の芯だけは伐らないでください」


 全部伐り払う方が早い。


 開拓団が魔性樹木を処理するときも、救える木と救えない木を分ける。病変が幹の中心まで入っていれば、周囲ごと焼く。森と村を守るだけなら、この黒聖樹もそうするべきだった。


 だが、これはネリアが預かり、アクシスたちが一度は無傷で王都へ帰そうとした聖苗でもある。


「面倒くせえ注文ですこと」


 アクシスは大戦斧・開拓《フロンティア》の狙いを幹から外し、襲いかかってきた枝へ向けた。


「承りましたわ。残すところは、聖女様が最後まで見ていてくださいまし」


「はい」


「その命令は無効です」


 聖域監督司祭セヴェランが割って入った。


 法衣は土に汚れ、先ほどアクシスに引き起こされた襟も崩れている。それでも、聖域監督司祭としての口調だけは失っていなかった。


「聖女に、植定した世界樹の伐採を命じる権限はありません。白樹騎士は聖樹を守りなさい。この者たちを近づけてはならない」


 白樹騎士たちは動かなかった。


 黒い枝が再び身をよじる。騎士の一人へ打ち下ろされた先端を、カリナの黒刈《リーパー》が横から払った。


「これは、いまも私たちを襲っています」


 ネリアがセヴェランの前へ立った。


「私が祝福を流しました。私は、この場所を植定地として認めていません。それでも、この子を暗根王へつないでしまった責任は、私にあります」


 振り返り、白樹騎士たちを見る。


「聖苗を守るため、暗根王に侵された根と枝を伐ってください。負傷者と、根を切る方々を守ってください」


 最初に剣を下げたのは、礼拝所からネリアへ知らせに来た若い騎士だった。


「聖女様の命に従います」


 一人が動くと、ほかの騎士も剣先を黒聖樹へ向けた。


「信仰へ背くおつもりですか」


 セヴェランの声に、若い騎士は答えなかった。代わりにゼノが細剣を鞘へ納め、二人の間へ入る。


「あなたには、ここにいてもらう」


「王家の剣士が、聖域監督司祭を拘束すると?」


「強行植定の記録が完成するまで、当事者を現場から離さない。処罰ではない。証拠の保全だ」


 ゼノは白樹騎士を二人指した。


「見ていてくれ。逃がすな。それと、黒聖樹にも食わせるなよ」


 セヴェランの命令では動かなかった騎士が、今度はうなずいた。


      ◆


 総監マルクは地割れへ欠けた指を差し入れ、土をひとつまみした。


「四本です」


 地下根図を地面へ広げる。紙の上には、三十年かけて見つけた暗根王の根と、切断、根焼き、魔力集積地の印が残っていた。その古い線へ、いま目の前で伸びている地割れを書き加える。


「こいつを育てている太い流れが、四本あります」


 東。白泉の水路へ入り、第二村へ向かう根。


 南。畑の湿った土を通り、村の内柵へ向かう根。


 西。三年前に切った魔力集積地へ伸び、古い根網をつなぎ直そうとしている根。


 そして北。閉鎖林のさらに奥へ続く、暗根王の最古の幹線根。


「最後のは旧王根と呼んでいました。切株の下を通っています。こいつが一番太い」


「四本とも伐ればよろしいんですのね」


「一班ずつ動かしていては間に合いません。全部を掘り出す必要はありません。三十年前から切ってきたところへ、最後の四か所を足します」


 マルクは図の上へ四つの石を置いた。


「四班は同時に配置へ入ります。切るのは東、南、西の順です。逃げた魔力を北の旧王根へ追い込み、再接続される前に最後の一本を焼き切ります。そうすれば、こいつは森から切り離せます」


「作業班は」


 カリナが尋ねた。


「鐘は鳴りました。ですが、まず村人を下げなくてはなりません。鋸と楔と油をここまで上げるにも、二刻はかかります」


 その間にも、黒聖樹は待ってくれない。


 斜面の土が弾けた。人の腿ほどある根が二本、マルクとネリアへ伸びる。


 アクシスが横から入った。


 幅広い斧刀が一本目を断つ。振り抜いた斧頭を止めず、右足を軸に腰を回す。反対側の厚く狭い刃が戻り、硬化した二本目の節を叩き割った。


 断面から黒い汁が飛ぶ。


「二刻、持たせればよろしいんですのね」


 別の細根が足元から上がった。


 柄を立て、低い位置へ斧刀を通す。そのまま石突きを軸に斧頭を回し、背後から来た枝をもう一方の刃で受けた。


 右から左。


 左から右。


 柔らかな生根には幅広い刃。魔力で固めた節には厚く狭い刃。大きく振り切ってから戻すのではない。斧頭の重みを腰と足で受け、次の円へつなぐ。


 四キロを超える鉄の塊が、アクシスの周囲を回り始めた。


 乱舞ではない。一撃一撃が必殺の斬撃。一度ごとに土を踏み、息を吐き、全身で斧頭の向きを変える。だが、どちらの刃が前へ出ても木を断てる双頭斧だから、戻すだけの動きがない。


 黒い根が入るたび、斧刀がそこにあった。


 アクシスを中心に、黒根の入れない円が生まれる。ネリアとマルクがその内側へ下がり、白樹騎士が負傷者を運び出した。


 カリナは低く身を沈め、黒刈《リーパー》でアクシスの足元を抜けようとする細根を刈る。ゼノは円の外から入る槍状根へ細剣を添え、斧の軌道へ押し込んだ。


「そんな型、いつ作ったんですか」


 カリナが尋ねる。


「三年前からですわ」


 アクシスは斧を止めない。


「父上より強くなれば勝てる、なんて考えませんでしたの。父上と同じ倒し方をしたら、父上と同じように死にますもの」


 厚い刃が節を割る。


 返す幅広の刃が、鞭のような根を二本まとめて断つ。


「残念ながら暗根王を一撃で倒す技じゃございませんの。倒したあとまで、根に殺されず斧を振り続けるための型ですわ」


「名前は」


「そうですわねぇ――大斧術・根絶やし」


「そのままですね」


「開拓の技に、武芸風の名前なんざ要りませんの」


 白樹騎士の隊長が、六人をネリアの周囲へ集めた。


「我々は六人で聖女さまをお守りする!」


 若い騎士が、中央で舞うように戦う、アクシスの斧の円軌道を見る。


「彼女は一人で、黒聖樹の攻撃を受けているのか……?」

「たしか王都では、正騎士級と」


「魔神戦役式騎士戦力査定は、腕前の順位ではない。魔物を相手に、何を任せられるかの査定だ」


 隊長は盾を構えた。


「そして戦力査定の多寡は必勝も無力も意味しない。聖女様と作業員は我々が守る。彼女の斧を止めるな」


 その円は、作業班が来るまでの道を守った。


      ◆


 三度目の鐘が鳴ったあと、南畑では収穫前の麦が捨てられていた。


 兵士長ブラムは民兵を二列に分け、一列に老人と子供を内柵へ送らせ、もう一列に家畜を追わせた。地面の下から根が通るたび、畝が盛り上がり、青い麦が土ごと倒れる。


「まだ刈れる!」


 鎌を持った男が畑へ戻ろうとした。ブラムが襟をつかみ、道へ引き戻す。


「麦は来年も作れます。人間は畑から生えてきません」


「でも、冬の種まで――」


「備蓄を開けます。足りなければ、俺がお嬢に王都から買わせます」


 黒根が土を割った。


 盾兵が前へ出る。根を止めるためではない。逃げる者へ届くまでの時間を作るため、盾の面を斜めに当てた。持ち上げられた兵を、後ろの二人が引きずり戻す。


 最後の荷車が内柵へ入るのを見て、ブラムは木こりと土木役を集めた。


「ここから先は、行けと命じない。残る者だけ、鋸と楔を積め。根焼きの油もだ。戦える者は作業員の盾になる」


 誰も英雄の顔はしていなかった。


 自分の畑を根に割られた者。逃げる途中で靴をなくした者。家畜を追って息を切らした者。それでも、荷車へ鋸を投げ込み、油樽を縛った。


 第二村では、粉挽き小屋の水車が止まっていた。


 白泉から来る水路の土手が、黒い根に押し上げられている。木製の樋が外れ、濁った水が畑へ漏れていた。


「母さん、内柵へ行けって!」


 エッダの長男が叫ぶ。


「あんたが先に行きな」


「母さんは!」


「水路番と水門を開けたら行く。夜警へ入りたいなら、命令を聞きな!」


 息子を村人へ押しつけ、エッダは水路番と二人で古い水門へ梃子を差し込んだ。


 粉挽き小屋へ送る流れを閉じる。代わりに、普段は増水時しか使わない逃がし水門を開いた。水が黒根の通る土手へ集中する。


 土が流れ、根の黒い表面が現れた。


 世界樹が根づけば、息子を夜警へ出さずに済むかもしれないと思った。王国兵が来れば、夫のように村の警戒で死ぬ者も減ると思った。その考えは、いまも変わっていない。


 だが、これは水路を壊し、家と畑へ向かっている。


「世界樹が欲しいと言ったよ」


 エッダは水に濡れた梃子を握り直した。


「でも、こんなものまで欲しいとは言ってない」


      ◆


 正午前、最初の荷車が討伐跡へ着いた。


 鋸、斧、鉄の楔、綱、油、火鉢。荷台から降ろされるものは、暗根王を討つために作られた武器ではない。昨日まで橋を直し、木を倒し、水路を掘るために使われていた道具だった。



「まず西を露出させます。切断は東からですが、一番浅いここなら、配置を早く終えられます」


 マルクが作業班を導く。


 三年前に焼いた跡が近く、四本の中では最も浅い。カリナが前へ出て、周囲の魔蔓と細根を黒刈《リーパー》で払った。


 黒い護衛根が一本、地面から起き上がる。


 カリナは外側へ半歩ずれ、根の動く方向から外れた。大鎌の内刃を根元へ掛け、引きながら断つ。


 切断された先が、土へ落ちた。


 断面は黒く、魔力の動きも消えている。通常の魔性植物なら、もう動かない。


「ここは通れます。鋸を入れてください」


 カリナは次の細根へ向かった。


 背後で、黒い断面から白い糸が伸びた。


 切り落とされた側へ絡みつく。糸が縮み、二つの断面を引き寄せる。白い繊維が傷を縫うように入り込み、黒根の魔力が戻った。


「姉上!」


 アクシスの声より早く、根がカリナの足首へ巻きついた。


 小柄な身体が宙へ上がる。


 地面へ叩きつけられ、息が漏れた。さらに伸びた棘が腿を裂き、黒刈《リーパー》が手から離れる。


 カリナは、近づくまで根に気づけなかった。


 アクシスが『根絶やし』の型を崩した。


 幅広い刃を根へ食い込ませ、姉の足を締める部分から断つ。斧を返す間が空き、円の外で待っていた槍状根がネリアへ走った。


 ゼノの細剣が触れる。


 根の先がわずかに上がり、白樹騎士の盾へ当たった。騎士が倒れたが、ネリアには届かない。


 アクシスはカリナを抱えて円の内側へ戻した。


「姉上!」


「聞こえています」


 カリナは苦しそうに息を吸い、断たれたはずの根を見た。


「私の、見立て違いです」


「あとで聞きますわ。脚は?」


「骨は無事です。走るのは難しいですが」


 ネリアが根の断面へ駆け寄った。


 黒い木質の間に、白い糸が残っている。聖苗の力と同じ光だった。


「聖苗の再生力が、黒い根まで治しています」


「切っても戻るってことですの?」


「離した直後なら、まだ白い糸は細いです。切った瞬間に、断面を焼いてください」


 マルクが作業班へ振り返る。


「根切りと根焼きを一組にする! 鋸が抜けたら、間を置かず火を入れろ!」


 白樹騎士が盾を持ち、火鉢を運ぶ者の前へ立った。


「我々が細根を防ぎます。作業を」


 先ほどまで土地を接収するために来ていた騎士と、接収へ抵抗していた開拓民が、同じ根を挟んで並ぶ。


 カリナはトマスに腿を縛らせ、大鎌を拾った。


「姉上は下がってくださいまし」


「走る役は降ります」


「全部降りろと言っておりますの」


「北の旧王根は、待ち受ける仕事です。走れなくてもできます」


「できるかどうかを聞いてるんじゃございませんわ」


「お嬢様ができるかどうかで決める方なので、私も同じにします」


 アクシスは言葉に詰まり、舌打ちした。


「死んだら許しませんわよ」


「わかってますよ」


      ◆


 午後、魔寄せの森で四つの根切りが始まった。


 東根。


 エッダたちが崩した水路の土手へ、木こりが到着した。露出した根の下へ綱を回し、牛に引かせて水面から持ち上げる。


 黒い細根が水中から跳ねた。白樹騎士の盾へ巻きつき、木板を軋ませる。その横から民兵の鉈が入り、盾ごと持っていかれる前に断った。


 二人挽きの鋸が太い根へ食い込む。


 黒い汁と水が混じり、刃を重くした。押して、引く。押して、引く。水路番が桶で刃を洗い、また鋸が動く。


 最後の繊維が切れた。


 白い糸が伸びるより先に、エッダが油布を断面へ押しつけた。根焼き役が火鉢から炭を移す。


「東側、切れた!」


 角笛が一度鳴った。


 南根。


 兵士長ブラムは盾兵を半円へ並べ、その内側で土木班に溝を掘らせた。魔力へ引かれた根鎧猪《プラントボア》の小型種が二頭、倒れた麦を踏み越えてくる。


「作業員を見ろ! 追うな!」


 槍兵が猪を倒すためではなく、溝から遠ざけるよう穂先を入れる。白樹騎士が横へ回り、木質の瘤へ剣を当てた。民兵が作業員を穴から引き上げる。


 土が崩れ、南根が露出した。


 楔を二本打ち、割れた隙間へ油を流す。斧と鋸が同時に入り、切断面へ火が走った。


 角笛が二度鳴った。


 西根。


 総監マルクは地中から現れた赤黒い炭を見つけた。三年前、ガルドたちが根を焼いた跡だった。


「ここです。古い傷へ新しい根を重ねています」


 木こりが炭化した境目へ鉄楔を打つ。


 一打ごとに、三年前の黒い層と、いま生えた白黒の層が離れていく。最後は鋸ではなく、牛と滑車で根を古傷から引き剥がした。


 火が入る。


 角笛が三度鳴った。


 残る魔力が、北へ流れた。


      ◆


 旧王根が、地面を持ち上げた。


 討伐跡から閉鎖林の奥まで、土の下に巨大な獣が身を起こしたように尾根が生まれる。西、東、南を失った魔力が、一番古く太い根へ集中していた。


 北側では、カリナと古参の木こりが待っている。


「来ます。二歩、下がってください」


 腿から血を滲ませながら、カリナが指示する。


 土が割れた瞬間、木こりたちは根の両側へ鉄杭を打ち込んだ。綱を掛け、滑車で持ち上げる。旧王根の表面から細根が無数に生えた。


 カリナの黒刈《リーパー》が低く走る。


 一度に全部は刈らない。動かない左脚を軸にせず、右足で間を作り、届く範囲だけを確実に落とす。外へ逃れた根は、白樹騎士と民兵が受けた。


 二人挽きの鋸が入る。


 黒聖樹の幹が、大きく身をよじった。


      ◆


 中央では、アクシスの呼吸音が響いていた。


 何度、開拓《フロンティア》を返したか分からない。


 柄を握る手の皮は裂け、血で滑る。肩は熱を通り越し、骨の内側から冷えていた。それでも斧頭を止めれば、その瞬間に根が円へ入る。


 幅広の刃で生根を断つ。


 返す厚い刃で節を割る。


 足元。


 右。


 背後。


 左。


 根絶やし。


 斧を振るう自分の方が先に根絶やしにされそうだった。


 円の内側で、ネリアは黒聖樹の根元へ両手を当てていた。白い祝福が幹へ入るたび、黒い筋がその腕へ伸びようとする。


 ゼノが細根を流し、白樹騎士が切る。騎士の一人が倒れると、別の者が盾を拾った。


「白い流れが、戻ってきています」


 ネリアは目を閉じたまま告げる。


「あと少しです。根元へ集めます」


 遠くで、三度の角笛が聞こえた。


「三本ですわね」


「北だけです」


 直後、旧王根から逆流した魔力が幹へ入った。


 黒聖樹の枝が一斉に下がる。何十本もの先端が、槍のように中央へ向いた。


「伏せてください!」


 カリナの声が北から飛ぶ。


 アクシスは伏せなかった。


 斧頭の円を頭上へ移す。太い枝は断ち切れなくても、先端を叩いて軌道を外す。ゼノと白樹騎士が、円の隙間へ入る細い枝だけを処理した。


 北側で、鋸の音が続く。


 旧王根は、ほかの三本より硬かった。刃が節へ当たるたび、鋸を持つ木こりの腕が跳ねる。


 カリナは根の上へ大鎌を掛けた。


「楔を、もう一本お願いします」


 鉄が打ち込まれる。


 ひびが走る。


 古参の木こりが最後に鋸を引き、カリナが残った繊維を大鎌ですくい上げた。


「火を」


 油布が押し込まれ、炎が切断面を覆った。


 角笛が四度、鳴った。


      ◆


 黒聖樹が止まった。


 再生しかけていた根の断面から、白い糸が消える。枝の先が垂れ、黒紫の葉が一枚ずつ落ち始めた。


 開拓民の間から、息とも歓声ともつかない声が上がる。


 アクシスは斧を止めなかった。


 父が倒れた夜も、暗根王の地上部は倒れていた。


 森が静かになり、全員が勝ったと思った。


 そのあとで、父は胸を貫かれた。


 ガルドの斧痕が残る切株の下で、土が一点だけ盛り上がった。


 一本の黒根が飛び出した。


 人の腕より細い。だが、先端は槍の穂のように硬く尖り、まっすぐアクシスの胸を狙っている。


 三年前と、同じだった。


 アクシスは振り向かない。


 黒聖樹の幹へ向け、開拓《フロンティア》を握り直す。


 自分の斧ですべてを処理しようとすれば、父と同じところで止まる。


 だから、背中を預けた。


 ゼノが一歩、黒根とアクシスの間へ入る。


 細剣が黒根の側面へ触れた。


 正面から止めない。右足を外へ開き、半身を入れ替え、伸びていく力へほんのわずかな横向きの道を作る。


 黒根がゼノの刃を滑った。


 軌道が数寸ずれ、アクシスの脇を抜ける。切先は背後の地面へ深く突き刺さった。


「――柳は折れず、風を知る」


 王立練兵院では、広い面で押し潰す『大はたき』を流そうとして、ゼノ自身が飛ばされた。


 今度は、流すべき一本を選んだ。


 自分の技を証明するためではなく、味方の斧を止めないために。


「隙間は僕が守る」


 ゼノは根を押さえたまま言った。


「君は振り続けろ」


 アクシスは返事をしなかった。


 斧を黒聖樹へ向けたまま、前へ出た。


      ◆


 地下からの流れを失っても、巨大な幹にはまだ魔力が残っていた。


 マルクが斜面を測り、倒す方角を示す。


「討伐跡の内側へ落とします。東へ傾ければ水路が潰れる。南なら畑と避難路です」


 ネリアが根元へ祝福を集める。


 黒い樹皮の一部が白く透けた。元の聖苗が持っていた根冠と、そこから伸びる細い若芽。白い命が、巨大な幹から自分を引き剥がすように根元へ縮んでいく。


 胸の高さより少し下に、淡い白線が一周した。


「この線より上は、暗根王に侵されています」


 ネリアが目を開く。


「根元の白い芯だけ、残してください」


「難しい注文は、これで最後になさいまし」


 アクシスは息を整え、木こりへ場所を譲った。


 白線より上、倒す側へ受け口を作る。幅広の斧と鋸が三角形に木を削り、黒白の木片が落ちた。反対側へ追い口を入れる。


 楔が打ち込まれた。


 幹の高い位置へ何本もの綱を回す。滑車を通し、牛と人が討伐跡の内側へ引く。白樹騎士も剣を置き、綱へ加わった。


 セヴェランが、斜面の上から声を張る。


「おやめなさい! 世界樹を倒せば、この土地に二度と祝福は――」


「黙って見ていてください」


 ネリアが振り返らずに言った。


「いま、この子を救います」


 アクシスは追い口の前へ立った。


 腕が上がらない。


 開拓《フロンティア》を一度地面へ立て、柄へ両手を掛ける。裂けた手の皮が木へ張りついた。


 ここまで何百回と斧を振った。


 最後に必要なのは、踊るような切り返しではない。


 木を倒すための一撃だった。


「引いてくださいまし!」


 牛が進む。


 開拓民と白樹騎士が綱を引く。


 アクシスは腰を落とし、開拓《フロンティア》を横へ振った。


 幅広い刃が追い口へ食い込む。


 幹は倒れない。


 斧を引き抜く。黒い汁が刃を伝った。


「楔!」


 マルクの声に、木こりが鉄楔を打つ。


 乾いた音が、幹の中で続いた。


 アクシスがもう一度斧を入れる。


 白い繊維が残っている。


 綱が張り、牛の蹄が土へ沈む。カリナも北から戻り、腿を引きずりながら綱へ手を掛けた。ブラムが兵士を並べ、声を合わせる。


「引け!」


 木こりが楔を打つ。


 白樹騎士が引く。


 エッダたち第二村の者も、水に濡れたまま綱へ加わる。


 アクシスは三度目の斧を振った。


 大斧術――大切断。


 最後の繊維が切れた。


 黒聖樹が、ゆっくり傾く。


 巨大な枝が周囲の木々を押し倒し、黒い葉が空を埋めた。綱が倒れる方向をわずかずつ修正する。幹は第二村にも南畑にも向かわず、暗根王討伐跡の内側へ落ちた。


 地面が揺れる。


 風が斜面を駆け上がり、全員の服と髪を打った。


 黒い葉が降る中で、アクシスは大戦斧・開拓《フロンティア》を地面へ立てた。


 荒地開拓伯令嬢が世界樹を伐った。


 だがそれは、彼女一人で倒した樹ではなかった。


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