第7話 疑念
翌日、リアはアルと共に執務棟へ向かっていた。
領主館の一角にあるその建物は、文官たちが日々の業務を行う場所だ。
帳簿を調べているうちに、一人の名前が何度も目に入るようになった。
ガレス。
父を支える右腕。
領地運営の実務を任されている人物。
そして、緊急対策費について詳しい数少ない人間でもある。
「少し緊張するわね」
リアが呟くと、隣を歩くアルが静かに答えた。
「ガレス様はよくリア様の話をされてましたよ」
「えっ、そうなの…。一体どんな話を…。」
「リア様が幼い頃、帳簿へ落書きをされたとか」
「そんなことした覚えないんだけど」
リアは少しだけ顔をしかめる。
幼い頃のリアは思っていた以上に自由だったらしい。
そんな話をしているうちに目的の部屋へ到着した。
アルが扉を叩く。
「ガレス様。リア様がお見えです」
「おお。お通ししてください」
穏やかな声が返ってきた。
扉が開く。
部屋の奥に座っていた男が立ち上がった。
五十代半ばほど。白髪の混じった髪。柔らかな笑み。
威圧感とは無縁の人物だった。
「お久しぶりですな、お嬢様」
その声を聞いた瞬間、リアは少しだけ肩の力が抜けた。
記憶の中と変わらない穏やかな声だった。
「ガレス」
リアも自然と表情を緩める。
「久しぶりね」
「元気そうで何よりです」
「ガレスも変わらないわね」
「はは。歳だけは取りましたが」
そう言って笑う姿は、幼い頃の記憶とほとんど変わらなかった。
穏やかな笑い声が響く。
幼い頃、父の代わりに勉強を見てくれたこと。
一緒に庭を散歩したこと。
そんな記憶がふと頭をよぎる。
少なくともリアの知るガレスは、領民思いで誠実な人物だった。
リアは席へ座った。
軽い雑談を交わした後、本題へ入る。
「今日は少し聞きたいことがあるの」
「何なりと」
ガレスは快く頷いた。
リアは持参した帳簿を開く。
「この緊急対策費について教えてほしいの」
ガレスは帳簿へ目を落とした。
「ああ、それですか」
特に動揺した様子はない。
「盗賊対策の費用です」
「盗賊被害はそんなに深刻なの?」
「ええ」
ガレスは深く頷いた。
「商人が襲われた件もございますし、護衛依頼も増えております」
「でも騎士団は人手不足だったわ」
「だからこそ必要なのです」
「必要?」
「全てを騎士団だけで解決できるわけではありません」
ガレスは静かに続けた。
「領民による自衛団への支援や、情報提供者への謝礼も必要になります」
「情報提供者がいるの?」
「ええ。行商人や街道沿いの村人たちです。盗賊は突然現れるわけではありませんからな」
ガレスは落ち着いた口調で説明した。
理屈としては理解できる。
いや、むしろ納得できる説明だった。
だがリアの胸の違和感は消えなかった。
リアは続ける。
「街道整備費は?」
「老朽化した街道の補修です」
これも特におかしくない。
むしろ納得できる説明だった。
「騎士団の予算が減っているのは?」
ガレスは少しだけ表情を曇らせた。
「残念ながら領地の収入が減っております」
「だから削減した?」
「はい」
即答だった。
「苦しい判断でした。しかし限られた予算の中で優先順位を付けなければなりません」
リアは黙って聞く。
説明は筋が通っている。
矛盾も見当たらない。
だが――。
何かが引っ掛かる。
「騎士団はかなり苦しい状況だったわ」
「承知しております」
「それでも必要だった?」
ガレスは静かに頷いた。
「全ては領地のためです」
その言葉に、リアの胸が僅かにざわついた。
領地のため。領民のため。
間違ったことは言っていない。
それなのに、なぜだろう。
ガレスがその言葉を口にした瞬間だけ―。
ほんの一瞬だけだが、視線が帳簿から逸れたように見えた。
その姿にリアは見覚えがあった。
前世で上司が不都合な事実を隠そうとする時の姿に似ていた。
もちろん気のせいかもしれない。
ガレスは父の右腕だ。
長年領地を支えてきた人物。
疑う理由などない。
だが、リアの中の何かが、小さく警鐘を鳴らしていた。
◇◇◇
部屋を出た後、リアは廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
「どうでしたか」
アルが尋ねる。
「分からないわ」
リアは正直に答えた。
「説明は全部正しかった」
「では問題は?」
「それも分からない」
自分でも曖昧だと思う。
証拠はない。矛盾もない。
それでも、胸の奥が落ち着かなかった。
「アル」
「はい」
「私、考えすぎかしら」
アルは少しだけ考えた。
そして静かに答える。
「リア様は疑問に思ったことを徹底的に調べ上げる方ですので」
リアは思わず苦笑する。
「褒めてる?」
「ええ」
アルは真顔だった。
リアは窓の外を見る。
遠くに騎士団の訓練場が見えた。
欠けた剣。空いた棚。人の減った宿舎。
あの光景は嘘ではない。
そして帳簿の数字もまた嘘ではない。
ならば、嘘をついているのは誰だ。
その考えが浮かび、リアはすぐに首を振った。
まだ決めつけるには早い。
証拠はない。違和感しかないのだから。
だが、その違和感は確実に大きくなっていた。
「アル」
「はい」
「倉庫の在庫記録って残っている?」
アルが僅かに目を瞬く。
「ございますが…」
「見せてほしいの」
「帳簿だけでは足りませんか」
「ええ」
リアは窓の外を見た。
「少し確かめたいことがあるの。」
その瞬間、胸の中の違和感が、初めて一つの形を持った気がした。




