第40話 ベルフォード化粧水
リア達はベルフォード領へ戻ってきてから、すぐに化粧水の製作に取りかかった。
そして、数カ月が経った頃、リアは執務室で満面の笑みを浮かべていた。
「……完成したわ」
リアは、目の前に並べられた小さな瓶を見つめていた。
透明な液体が入った、細長い瓶。
その中身は、これまでベルフォード領で作られてきた保湿軟膏とはまったく異なるものだった。
「これが……新商品ですか?」
アルが瓶を見つめる。
「ええ」
リアは頷いた。
「ベルフォード化粧水よ」
「化粧水……?」
「肌に潤いを与えるためのものなの」
リアは前世の記憶を思い出しながら説明した。
「保湿軟膏は肌を守るもの。でも、これはもっと軽く使えるわ」
リアは手の甲に少量を垂らした。
「洗顔した後に肌へ馴染ませるの。そうすれば、肌に水分を与えられる」
「なるほど……」
アルは興味深そうにリアの手を見つめた。
「たしかに、保湿軟膏よりもずっと軽いですね」
「でしょう?」
リアは嬉しそうに笑った。
「これなら顔にも使いやすいわ」
◇◇◇
ベルフォード化粧水の販売が始まってから、しばらく経った。
最初は、保湿軟膏を購入していた女性たちが中心だった。
「保湿軟膏が良かったから、こちらも試してみようかしら」
そんな声から始まった。
しかし――。
「この化粧水、すごく良いわ!」
「肌に馴染ませると、しっとりするのに重くないの」
「毎日使いたくなるわね」
少しずつ、評判が広がっていった。
そして、評判が広がるにつれて、購入者も増えていった。
「申し訳ありません。次回入荷分までお待ちいただくことになります」
「それで、次回の入荷の予定はいつなの?」
「実は入荷時期が未定でして……」
「未定ですって?」
「申し訳ありません。ベルフォード領での生産が追いついていないようで……」
「まったく……。まさか、こんなに売れるとは思わなかったわ。もう少し多めに買っておくべきだったわね」
アルベルト商会ではそんな会話が毎日何回も行われていた。
さらに、王都の商人たちの間でも、ベルフォード化粧水の名前が知られるようになっていた。
そうして、その噂は商人たちの間だけにとどまらなかった。
王都の貴族たちが集まる場所でも――。
「ねえ、ベルフォードの商品って知ってる?」
「もちろんよ。最近、とても話題になっているもの」
「保湿軟膏だけじゃないのよ。最近は化粧水という商品も出たらしいわ」
「化粧水?」
「ええ。肌に使うものらしいのだけど、とても評判が良いみたい」
そんな会話を、少し離れた場所で聞いていた少女がいた。
エレノア・ベルフォード。
愛称をエリーと呼ばれる、ベルフォード伯爵家の次女であり、リアの妹だった。
「……ベルフォード?」
その名前を聞いた瞬間、エリーの胸が小さく跳ねた。
「……お姉様の商品だわ」
エリーは思わず、そう呟いた。
驚きはあったが、それ以上に胸の奥から込み上げてくるものがあった。
隣にいた令嬢が、エリーを見ながら尋ねる。
「エリー様、今のベルフォードというのは……」
エリーは微笑んだ。
しかし、その笑顔の奥には、ほんの少しだけ複雑な色が浮かんでいた。
「お姉様が作った商品です」
「でも……」
周囲の令嬢たちが顔を見合わせる。
「たしか、婚約破棄された方よね?」
「婚約破棄をしたセドリック様は、今ではエリー様の婚約者だと聞いたけれど……」
「ベルフォード領も、かなり厳しい状態だったのではなくて?」
「それなのに、王都でこれほど話題になる商品を?」
次々と向けられる言葉に、エリーは黙り込んだ。
――婚約破棄。
――セドリック。
――お姉様。
その言葉を聞くたびに、胸の奥が痛んだ。
「……そうですね」
エリーは、ゆっくりと口を開いた。
「お姉様は、ベルフォード領へ向かわれました」
エリーの言葉に令嬢の一人が首を傾げる。
「どうして、そんな状況で商品を作れるのかしら?」
エリーは、答えようとして――やめた。
どうして。
そんなこと、エリーにも分からなかった。
ただ、お姉様は昔からそうだった。
誰もが諦めそうなことにも、一人で向き合っていた。
幼い頃のエリーには、それが理解できなかった。
「どうして、お姉様はそこまで頑張るのだろう」
そう思ったこともある。
もっと自分の幸せを考えればいいのに。
もっと楽に生きればいいのに。
けれど、お姉様はいつも前を向いていた。
「……お姉様は、昔からすごい方でしたから」
エリーは、そう答えた。
その声には、迷いがなかった。
「本当に?」
令嬢が尋ねる。
「ええ」
エリーは頷いた。
「……お姉様は、きっとベルフォード領でも頑張っていらっしゃると思います」
「でも、婚約破棄されてしまったのでしょう?」
その言葉に、エリーの指先がわずかに震えた。
「……はい」
リアが王都を去った日のことが、脳裏に浮かぶ。
もっと強く反対していれば、何かが変わっていたのだろうか。
「……お姉様は、大丈夫です」
エリーは、そう答えた。
「お姉様なら、きっとこれからも、たくさんの人を驚かせると思います」
「ずいぶん、お姉様を信じているのね」
「……はい」
エリーは微笑んだ。
「だって、お姉様ですもの」
その言葉に、胸の奥がかすかに痛んだ。
――お姉様なら大丈夫。
エリーは、ずっとそう思っていた。
婚約破棄された時も。
王都を去っていった時も。
そう思っていれば、自分は何もしなくてもいいような気がした。
けれど、リアが王都を去ったあと、エリーは何度も考えた。
あの時、もっと強く反対していれば。
もっと早く真実を伝えていれば。
結果は、変わっていたのだろうか。
「……お姉様」
エリーは、誰にも聞こえない声で呟いた。
本当は、直接伝えたい。
――すごいですね、と。
けれど、今の自分に、その言葉を伝える資格があるのかは分からなかった。
だから今は、遠く離れたベルフォード領へ思いを馳せる。
「……お姉様。どうか、元気でいてください」
その願いは、王都の喧騒に静かに溶けていった。
◇◇◇
その頃、ベルフォード領では――。
「……王都での注文が、また増えています」
アルが帳簿を見ながら報告していた。
「本当?」
リアは目を輝かせた。
「ええ。保湿軟膏に続いて、化粧水もかなりの人気となっております」
「よかった……」
リアは、ほっと息を吐いた。
「これなら、ベルフォード領の新しい収入源になりそうね」
「すでに、かなり大きな収入源になりつつあります」
アルは微笑んだ。
「薬草から作った傷薬。そして保湿軟膏。さらに化粧水」
アルは、帳簿を見つめた。
「ベルフォード領の薬草が、これほどの価値を生み出すとは……」
「価値は、作るものよ」
リアは、楽しそうに笑った。
しかし、リアはまだ知らなかった。
ベルフォード領で生まれた商品が、王都の社交界を大きく騒がせようとしていることを。
そして――。
その噂を、かつてリアの婚約者だった男も耳にしようとしていることを。
ベルフォード化粧水の成功は、リアの過去を知る者たちのもとへも、少しずつ近づいていた。
次にその名を聞くことになるのは――。
かつてリアの婚約者だった、セドリックだった。




