第39話 王都への進出
ベルフォード保湿軟膏の販売が始まってから、数か月が経っていた。
「こちらが、今月の売上です」
アルが帳簿を開きながら報告する。
「保湿軟膏は、領内でかなり売れております」
「本当?」
リアは帳簿を覗き込んだ。
「はい。特に水仕事をする女性や、畑仕事をする領民たちからの評判が良いようです」
「それは嬉しいわね」
リアは笑顔になった。
傷薬に続いて、ベルフォード保湿軟膏も新たな商品として定着しつつあった。
「それから、アルベルト商会から連絡が届いています」
アルが、別の書類を取り出した。
「王都へベルフォード保湿軟膏を卸したいそうです」
「王都に?」
リアは、思わず顔を上げた。
「ええ。王都の商人たちから、問い合わせが増えているようです」
保湿軟膏は、アルベルト商会を通じて少しずつ他の地域にも流通していた。
しかし、王都は別格だった。
貴族や商人が集まり、流行の中心でもある。
そこで商品が売れれば、ベルフォード領にとって大きな利益になる。
「……王都へ進出するのね」
リアはゆっくりと呟いた。
「はい」
アルが頷く。
「アルベルト商会が、王都の商人を通じて販売する予定となっております」
アルは、少し考えてから続けた。
「王都での販売を本格化させるのであれば、商品の反応を直接確認するのも良いかもしれません」
「確かに……」
リアは考え込んだ。
これまで、ベルフォード領での販売は自分たちの目の届く範囲で行ってきた。
領民たちの反応を聞き、改良を重ねることもできた。
しかし、王都の貴族たちが同じように気に入ってくれるとは限らない。
「……行きましょう」
リアは顔を上げた。
「王都で、実際にどのような反応をされるのか見てみたいわ」
「承知しました」
アルが頷いた。
「では、準備を整えましょう」
◇◇◇
それからしばらくして、リアたちは再び王都を訪れていた。
今回は保湿軟膏を王都の商人へ届けることが目的だ。
「王都は、相変わらず人が多いですね」
セレスが周囲を見渡しながら言った。
「ええ」
リアも頷いた。
行き交う人々。 大きな商店。 華やかな衣装を身につけた貴族たち。
ベルフォード領とは、まるで別の世界のようだった。
「リア様」
レオンが声をかける。
「私から離れないようにしてください」
「分かっているわ。でも、大丈夫よ」
リアは笑った。
「王都には何度も来ているもの」
「それでもです」
レオンは真剣な表情を崩さなかった。
そのときだった。
「お母さん……?」
小さな声が聞こえた。
リアが振り返るとそこには、周囲を見回しながら不安そうに立っている小さな子供がいた。
「どうしたの?」
リアが声をかけると、子供はびくりと肩を震わせた。
「お母さんが……いなくなったの」
リアは周囲を見渡した。
人が多い王都では、少し目を離しただけで子供とはぐれてしまうこともある。
「大丈夫よ。私たちが一緒に探してあげるわ」
「本当?」
「ええ」
リアは子供に微笑みかけた。
「お母さんの特徴を教えてくれる?」
子供から話を聞きながら、リアたちは周囲を探し始めた。
しばらくすると――。
「いた!」
少し離れた場所から、女性の声が響いた。
「お母さん!」
子供が駆け出す。
「まあ……!」
女性は、子供を抱きしめた。
「ありがとうございます!本当にありがとうございます!」
「無事に見つかってよかったわ」
リアは笑顔で答えた。
しかし、そのときだった。
「……」
少し離れた場所から、こちらを見ている男たちがいた。
リアは、何となく視線を感じて振り返った。
「どうかした?」
セレスが尋ねる。
「いえ……」
リアが再び視線を向ける。
だが、誰もいなかった。
「気のせいかしら」
リアが呟いた直後だった。
「おい」
男の声が聞こえた。
振り返ると男たちがこちらへ近づいてきていた。
「お前ら、さっきからこの辺をうろついているな」
「何か用かしら?」
リアが尋ねる。
「別に。ただ、少し話を聞きたいだけだ」
男たちは、リアたちを取り囲むように立った。
レオンがリアを庇うように一歩前へ出る。
そして、アルが男に話しかけた。
「話とは?」
男の一人が鼻で笑った。
「何だ?護衛か?」
「ずいぶんと偉そうだな」
男の一人が腕を伸ばした。
しかし――。
「触るな」
レオンの声が響いた。
次の瞬間、男の腕が弾かれる。
「なっ……!」
レオンは、リアと男たちの間に立っていた。
「これ以上、近づくなら容赦しません」
男たちは一瞬怯んだ。
だがそれも一瞬だった。
「やっちまえ!」
男たちが一斉に襲いかかってきた。
だが、レオンは冷静に男たちの攻撃をかわしていく。
1人の腕を掴み、地面へ倒す。
別の男の攻撃を受け流し、足を払う。
「すごい……」
リアは思わず呟いた。
「リア様!」
セレスの切羽詰まった声に、リアが振り返る。
別の男が、リアへ向かって走ってきていた。
「危ない!」
アルが叫ぶ。
リアが身を引くより早く――。
レオンが目の前に立った。
男の拳が、レオンの腕をかすめる。
「レオン!」
リアが声を上げた。
「大丈夫です!」
レオンはすぐに男を取り押さえた。
そして、しばらくすると、男たちは全員地面に倒れていた。
「……」
周囲には、静寂が戻っていた。
「リア様、お怪我は?」
アルが尋ねる。
「大丈夫よ」
リアは答えた。
「レオンが守ってくれたから」
リアはレオンを見る。
「レオンも大丈夫?」
「はい」
レオンは答えた。
「かすっただけです」
「本当に?」
リアはレオンの腕を確認する。
「血は出ていないわね」
「はい」
レオンは笑顔でリアをみつめる。
アルは黙ってリアを見つめていた。
「アル?どうしたの?」
リアが首を傾げる。
「いえ」
アルが微笑んだ。
「……何でもありません」
その様子を見ていたセレスは、口元を押さえた。
「……本当に、本人だけが分かっていないのね」
「セレス?」
「なんでもないわ」
その後、男たちは王都の衛兵へ引き渡された。
「まさか王都でこんなことが起こるなんて……」
セレスは小さく呟いた。
「でも、みんな無事がったからよかったじゃない!今はそれよりも――」
リアは、王都の商人との面会場所へ視線を向けた。
「商品を見てもらいましょう」
「この状況で商売の話をするの?」
セレスが呆れたように言った。
「もちろんよ。そもそも、この後は衛兵の仕事よ。私達は何もできないもの」
「それもそうだけど、なんかもっとこう……」
セレスは食い下がるが、リアの頭の中は既に軟膏のことで頭がいっぱいだった。
そんなリアをセレスは見つめ、ため息をつく。
「もう、本当に仕方のない代理領主様なんだから。ほら、アルベルト商会に行くんでしょう?」
そうして、一行はアルベルト商会へやってきた。
中では既にダリオが待っていた。
「こちらが、ベルフォード領で作られた保湿軟膏です」
リアは早速、ダリオの前に小さな容器が置く。
「これが噂のベルフォード保湿軟膏ですね?」
「はい」
ダリオは興味深そうに容器を手に取った。
「化粧品はすでにいくつかありますが……」
ダリオは容器からリアへ視線を移す。
「これは、従来の化粧品とは違うとか?」
「ええ。このベルフォード保湿軟膏は乾燥や肌荒れに悩む人々のために作られています」
「今も化粧品はありますが、どれも肌を隠すことがメインとなっています。でも、これは違う」
リアは一呼吸置いて、ダリオを見つめ直す。
「これは、肌状態を改善することをメインにしています」
「なるほど。」
ダリオは試しに保湿軟膏を手の甲へ塗った。
「……これは」
ダリオの表情が変わった。
「思ったよりも、伸びが良いですね」
「べたつきも少ないでしょう?」
「ええ」
ダリオは何度も手を動かした。
「これは庶民だけでなく、王都の貴族夫人たちにも売れるかもしれません」
「本当ですか?」
「はい」
ダリオは保湿軟膏を見つめた。
「肌を気にされるご婦人方はとても多いのです。肌荒れを隠すのではなく、改善するとなると、きっと興味を持たれると思います」
リアは安心したように笑い、アルベルト商会を後にした。
◇◇◇
リア達がダリオと話して数日が経った。
リア達は王都にあるタウンハウスに居た。
「リア様」
アルがダリオを連れてタウンハウス内にある執務室へやってきた。
「それで……、ベルフォード保湿軟膏はどうだったの?」
ダリオは、手にしていた帳簿をリアに見せた。
「かなり評判が良く、在庫が足りないくらいです」
「本当?」
リアの表情が明るくなる。
「はい。最初は商人たちが購入していたのですが、最近では貴族からの注文も増えています」
「貴族から?」
リアは少し驚いた。
「ええ。どうやら、ある貴族夫人が使用したところ、非常に気に入られたようで」
ダリオは、少し楽しそうに続けた。
「その夫人が、ご友人たちに勧めたそうです」
「……口コミで広がったのね」
「はい」
リアは、嬉しそうに保湿軟膏を見つめた。
「それなら、もっと王都の女性たちに喜んでもらえる商品を作れないかしら」
「また新商品なの?」
セレスが驚きながら言う。
「ええ」
リアは、当然のように頷いた。
「保湿軟膏がこれだけ喜ばれるなら、もっと使いやすい商品を作りたいもの」
「使いやすい商品?」
「ええ」
リアは前世の記憶を思い出していた。
乳液。 クリーム。 美容液。
どれもこの世界にはないものだ。
「軟膏よりも、もっと軽くて、顔に使いやすいものがあれば……」
リアの頭の中に、前世の記憶が浮かんだ。
――化粧水。
この世界にはまだ存在しない、肌に水分を与えるための商品。
「……作れるかもしれないわ」
リアは、ゆっくりと顔を上げた。
「次は、もっと肌に潤いを与える商品を作るわよ」
「また新商品ですか?」
セレスが呆れたように尋ねる。
「ええ」
リアは、楽しそうに笑った。
「今度は、軟膏ではなくて――」
リアは、前世の記憶にあった商品を思い浮かべた。
「水のように使えるものを作るの」
こうして、ベルフォード領では保湿軟膏に続く、新たな化粧品の開発が始まろうとしていた。




