第36話 ベルフォード治療薬
王都で起きた土砂崩れから、数週間が経っていた。
大雨によって荒れていた街道も、ようやく通行できる状態へと戻り、リアたちはベルフォード領へ戻ってきていた。
そして、ベルフォード領では――。
「急いでくれ!」
「薬草の仕分けは終わったか!?」
「瓶詰めも手伝ってください!」
「完成した薬は、数を確認してから倉庫へ!」
薬草工房の周囲は、朝から慌ただしい空気に包まれていた。
王都で起きた土砂崩れによって、ベルフォード領の傷薬は一気にその名を知られることになった。
アルベルト商会からは、すぐに追加の注文が届いた。
最初は少量だった。
しかし、注文は日に日に増えていった。
「これで、予定していた分はすべて完成しました」
アルが帳簿を確認しながら報告する。
「本当?」
リアは、机の上に並べられた帳簿へ視線を落とした。
「はい。こちらが、これまでの売上と経費をまとめたものです」
アルは、いくつかの帳簿をリアの前へ並べた。
薬草の仕入れ、工房の設備費、容器の購入費に人件費。
そして、アルベルト商会への販売価格。
リアは、一つひとつの数字を確認していく。
「……」
数字を追うリアの表情は真剣だった。
何度も計算し直し、帳簿をめくる。
そして、もう一度、最後の数字を確認した。
「……黒字ね」
リアは、ぽつりと呟いた。
「はい」
アルが頷く。
「大きく黒字となっております」
リアは、もう一度帳簿を見つめた。
売上から、必要な経費を差し引いても、利益が残っている。
それも、わずかな利益ではない。
ベルフォード領にとって、決して小さくない金額だった。
「……」
リアは、しばらく言葉を失った。
前世でも会社の帳簿を何度も見てきた。
売上、利益、経費、数字の増減。
それらを確認し、会社が利益を出しているかを判断する。
けれど、今、目の前にある数字は違った。
これは、誰かに命じられて作った帳簿ではない。
誰かの会社の利益でもない。
ベルフォード領のために、自分たちで始めた事業の数字だった。
「……黒字になったのね」
リアは、もう一度呟いた。
「はい」
アルは、穏やかな笑みを浮かべた。
「ベルフォード領の新たな産業として、初めて利益を生み出しました」
リアは、帳簿を見つめた。
薬草を育て、薬を作る。
工房を整え、人を雇って、販売する。
そうやって、利益を生み出した。
自分が前世で学んできた会計の知識。
この世界で得た薬草の知識。
領民たちの協力。
アルやレオン、セレスたちの支え。
そのすべてが、今、この数字になっていた。
「……成功したのね」
リアは、ゆっくりと顔を上げた。
「はい」
アルが答える。
「大成功です」
リアはアルの言葉を噛み締める。
「リア様」
レオンが、隣で声をかけた。
「お祝いしませんか?」
「お祝い?」
「はい」
レオンは、楽しそうに笑った。
「ベルフォード領にとって、鉱山衰退以来、初めての大きな成功です」
リアは、少し考えた。
「……そうね」
そして、ゆっくりと笑った。
「みんなでお祝いしましょう」
◇◇◇
その日の夜、ベルフォード領では久しぶりの大きな宴が開かれていた。
広場には、たくさんの料理が並べられている。
焼いた肉。新鮮な野菜。温かなスープ。
そして、領民たちが持ち寄った料理。
広場の中央では、簡素な舞台が作られていた。
リアはその舞台の上に立つ。
「本日は、ベルフォード領の新たな産業の成功を祝いましょう!」
リアは飲み物を高くあげて、叫ぶ。
「ベルフォード領の薬に!乾杯!」
「乾杯!」
領民たちの声が広場に響き渡った。
リアは、集まった人々を見渡した。
以前のベルフォード領では、こんな光景を見ることはできなかった。
領地の未来を心配する声。
税に苦しむ領民。
仕事を失う人々。
不安に満ちた空気。
それが、今は違う。
人々は笑っている。
自分たちが作った薬が売れたことを喜んでいる。
自分たちの働きが、領地の利益につながったことを誇りに思っている。
「リア様」
セレスが、隣から声をかけてきた。
「どうしたの?」
「とても嬉しそうね」
「ええ」
リアは、笑顔で答えた。
「だって、みんながこんなに喜んでいるもの」
「リア様が始めたことよ。リア様がいなければできなかったわ」
「確かに言い出したのは私よ。でも、ここまでやれたのは私だけの力じゃないわ」
リアは、周囲を見渡した。
「みんなで作ったものよ」
その言葉に、セレスは微笑んだ。
「そういうところよね」
「え?」
「ううん。なんでもないわよ」
セレスは、意味ありげに笑った。
そのときだった。
「おい、見ろよ」
少し離れた場所で、領民の1人が声を潜めた。
「アルさん、今日もリア様のそばにいるな」
「そりゃあ、側近なんだから当然だろ」
「いやいや、あれはどう見ても……」
別の領民が、アルとリアを見比べた。
「お似合いじゃないか?」
「だよな!」
「2人とも落ち着いているしな」
「リア様の隣には、アルさんが1番合ってると思うぞ」
その会話を聞いていた別の領民が、首を横に振った。
「いやいや、騎士団長だろ」
「レオン様か?」
「ああ。あの2人の方が絵になる」
「確かに、騎士団長はリア様を守っているしな」
「リア様が危ないと、真っ先に飛んでいくし」
「お似合いだと思うぞ」
少し離れたところで、セレスはその会話を聞いていた。
「……」
そして、アルとレオンを交互に見た。
アルは、リアの好きな料理を取り分けている。
レオンは、リアの移動に合わせて、さりげなく後ろをついている。
そして、肝心のリアはそんな2人の様子をまったく気にしていない。
セレスは、ゆっくりと口元を緩めた。
「……え?」
そして、ぽつりと呟く。
「2人ともそうだったのね?」
セレスの顔にニヤニヤとした笑みが浮かんだ。
「これは……」
「セレス?」
突然、リアに声をかけられ、セレスは慌てて表情を戻した。
「はい?」
「何を見ているの?」
「いいえ。別に?」
セレスは、リアの後ろにいるアルとレオンを見た。
アルは穏やかな表情でリアを見ている。
レオンは、リアの手に料理が乗った皿があることを確認している。
そして、2人ともリアのことを、かなり気にかけている。
セレスは、再びにやりと笑った。
「……これは面白くなりそうね」
「何が?」
「なんでもないわよ」
リアは首を傾げた。
その横でアルが声をかける。
「リア様、こちらの料理はいかがですか?」
「あら、美味しそうね。ありがとう」
すると、レオンもすぐに声をかけた。
「リア様、飲み物はこちらに」
「ありがとう、レオン」
「いえ」
それを見ていたセレスは、目を細めた。
「……やっぱり」
「セレス?」
「なんでもないってば」
リアは、ますます不思議そうな顔をした。
そんなリアを見ながら、セレスは心の中で呟いた。
――本当に、本人だけが分かっていないのね。
宴は、夜遅くまで続いた。
料理を食べ、酒を飲み、歌い笑う。
ベルフォード領に、久しぶりに明るい声が響いていた。
リアは、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
「初めてだわ」
「何がですか?」
リアの呟きにアルが尋ねる。
「自分で考えて、作って、売って……利益を出したの」
リアは、少しだけ照れたように笑った。
「これからも、もっと新しい産業を作っていきたいわ」
リアの目には、これからの未来が映っていた。
薬草、傷薬、そして、まだ見ぬ新しい産業。
ベルフォード領には、まだまだ可能性がある。
リアは、初めてその可能性を、数字として確認した。
ベルフォード領の新たな産業。
その最初の一歩は、確かな成功を収めたのだ。
「あっ、そういえば…」
セレスの呟きにリアは振り向く。
「どうかしたの?」
「この薬、実は――」
セレスはリアに聞こえるようにだけ耳元で話した。
そして、リアの瞳はセレスの言葉に大きく見開き、瞳を輝かせた。




