第3話 違和感
翌朝。
リアは朝食を終えると、昨日アルから渡された帳簿を抱え、書斎へ向かった。
窓から差し込む柔らかな朝日が、革表紙を照らしている。
長い年月を重ねてきたことが一目で分かる帳簿だった。
角は擦り切れ、表紙には細かな傷が刻まれている。
何人もの人が手に取り、何度も開き、そして悩んできたのだろう。
リアはそっと表紙を撫でた。
その手に伝わる感触は、ただの本のものではない気がした。
ベルフォード領の歴史。
人々の暮らし。
領主たちの決断。
そんなものが、この中に詰まっているように思えた。
「さて……」
小さく呟き、椅子に腰を下ろす。
帳簿を開く。
紙の擦れる音が静かな部屋に響いた。
規則正しく並ぶ数字。整った文字。
どこか懐かしい光景だった。
「まさか転生してまで帳簿と向き合うことになるなんて……」
思わず苦笑する。
前世では嫌というほど見た。
朝から晩まで。時には深夜まで。
数字を追い続ける毎日だった。
もう二度と見なくて済むと思っていたのに。
人生というものは案外しつこい。
リアは肩を竦めた。
「せめて今度は残業がないことを祈りたいわね」
誰に言うでもなく呟く。
もちろん返事はない。
少しだけ気が楽になったところで、改めて帳簿へ視線を落とした。
◇◇◇
最初に見えたのは、やはり収入の減少だった。
税収。商業収入。各種徴収金。
どれも少しずつ下がっている。
市場で見た光景を思い出す。
空いたままの店。減った人通り。
疲れた表情の領民たち。
数字だけを見ても分からないことは多い。
けれど、昨日見た人々の姿を思い出すと、不思議と帳簿の数字が現実と繋がって見えた。
「やっぱり厳しいわね……」
ぽつりと漏れる。
想像以上というほどではない。
むしろ予想通りだった。
領地の活気が失われれば収入も減る。
それは当然の流れだ。
リアはさらにページをめくった。
次に支出を見る。
こちらも増えている。
ただし全てではない。
減っている項目もある。
削れるところを削りながら、必要な部分には金を回している。
そんな印象だった。
「お父様も随分悩まれたのね……」
自然とそう思った。
帳簿は嘘をつかない。
少なくともそこに書かれた数字には、誰かの決断が残る。
どこを削るか。
何を守るか。
簡単に決められるものではない。
領民の暮らしが掛かっているのだから。
リアは一度目を閉じた。
父の顔を思い浮かべる。
真面目で責任感が強い人だ。
今も領内を回り続けているという。
きっと休む暇もないのだろう。
そう考えると胸の奥が少し痛んだ。
再び帳簿へ視線を戻す。
前年。さらに前年。その前。
数字を追う。
比べる。戻る。また比べる。
同じ作業を何度も繰り返した。
気付けば窓の外の日差しも高くなっている。
それでもリアは手を止めなかった。
何かが気になる。
だが、それが何なのかは分からない。
「……変ね」
思わず呟いた。
収入が減っている。
それは分かる。
支出が増えている。
それも分かる。
数字そのものはおかしくない。
説明しようと思えば説明できる。
なのに妙な引っ掛かりが残る。
リアは机を指先で軽く叩いた。
考え込む時の癖だった。
前世からずっと変わらない。
数字を見れば見るほど、むしろ違和感が大きくなっていく。
何が変なのだろう。
収入か。支出か。
それとも別の何かか。
考え込んでいると、不意に声が掛かった。
「何か気になることでも?」
顔を上げる。
いつの間にかアルが立っていた。
銀の盆には湯気の立つ紅茶が載っている。
「びっくりしたわ」
「失礼いたしました」
アルは穏やかに微笑んだ。
「何度かお声を掛けたのですが」
「全然気付かなかったみたいね」
「ええ」
即答だった。
少し悔しいが、反論はできない。
リアは苦笑しながらカップを受け取った。
紅茶の香りがふわりと広がる。
一口飲むと温かさが身体に染み渡った。
「ありがとう」
「少しは休憩なさってください」
「そんなに酷かった?」
「朝からほとんど姿勢が変わっておりません」
「それは良くないわね」
「はい」
アルは真顔で頷いた。
思わず笑ってしまう。
彼はおそらく心配性なのだろう。
だが、その心配が嫌ではなかった。
むしろ安心する。
この館に帰ってきたのだと実感できるから。
「何か分かりましたか?」
アルが尋ねる。
リアはカップを置いた。
少し考える。
そして首を横に振った。
「分からないの」
「分からない?」
「ええ」
自分でも不思議だった。
数字は読める。
状況も理解できる。
なのに答えが見えない。
帳簿へ視線を落とす。
「赤字なのは分かるわ」
「はい」
「領地が苦しいのも分かる」
市場で見た母親の顔が浮かぶ。
幼い子どもへ向けていた、あの申し訳なさそうな笑顔。
胸が少し重くなった。
「でもね」
リアは小さく眉を寄せた。
「何だか話が繋がらないの」
アルが静かに目を細めた。
「繋がらない、と申しますと」
「上手く言えないんだけど……」
リアは苦笑する。
違和感はあるのだが、言葉にならない。
霧の向こうに何かがあるのは分かるのに、その輪郭が見えない。
そんな感覚だった。
アルは急かさない。黙って待っている。
リアはもう一度帳簿へ目を落とした。
帳簿は多くを語らない。
ただ、そこに事実だけを並べている。
だからこそ難しい。
数字だけで全てが分かるわけではない。
けれど数字には必ず理由がある。
リアはそう考えていた。
だが、ページをめくるほど疑問は増えていった。
どうしてここまで苦しくなったのか。
その流れが見えてこない。
ふと、幼い頃の記憶が蘇った。
暖かな日差しの差し込む庭園。
隣には母がいた。
『リア』
優しい声だった。
『結果も大事ですが、結果だけを見てはいけませんよ』
『結果?』
幼いリアは首を傾げた。
『ええ』
母は花を見つめながら微笑んだ。
『人は目に見えるものばかり追いかけてしまうものです』
『じゃあ、何を見ればいいの?』
『どうしてそうなったのかを考えるのです』
母はリアの頭を優しく撫でた。
『どんな結果にも過程や人々の思いがありますから』
その言葉は当時よく理解できなかった。
けれど今なら分かる気がする。
リアは静かに帳簿を閉じた。
ぱたり、と小さな音が響く。
アルが不思議そうな顔をした。
「お嬢様?」
リアは閉じた帳簿に手を置いたまま考える。
そして、ゆっくり口を開いた。
「赤字そのものは問題じゃないわ」
アルが目を瞬いた。
「それは……どういう意味でしょうか」
リアは窓の外へ視線を向けた。
「市場を見たでしょう?」
「はい」
「人が減っている。商人も減った」
「その通りです」
「だったら収入が落ちるのは自然なことよ」
アルは黙って聞いている。
「領地が苦しいのも事実」
「はい」
「だから赤字になること自体は不思議じゃないわ」
リアは帳簿を軽く叩いた。
「気になるのは、その先なの」
「その先……ですか」
「ええ」
リアはゆっくり頷く。
「収入が減った。支出が増えた。
でも、それは結果でしょう?」
静かな部屋に言葉が落ちる。
「でも、どうしてそうなったのかが見えてこないの」
アルはしばらく何も言わなかった。
驚いたように帳簿を見つめている。
やがて小さく息を吐いた。
「私はずっと赤字ばかり見ておりました」
どこか自嘲するような声だった。
リアは首を横に振る。
「私もそうよ」
結果は目に見える。
だから人はそこへ目を向ける。
それは間違いではない。
「私だって同じだもの」
前世を思い出す。
数字に追われる毎日。
目の前の仕事を処理するだけで精一杯だった。
もっと早く気付けていれば。
もっと深く見られていれば。
そんな後悔を抱いたこともある。
だからこそ今度は同じ失敗をしたくなかった。
「焦って答えを出しても仕方ないわ」
リアは穏やかに言った。
「分からないなら、まず分からないことを認める」
アルは大きく頷く。
「帳簿だけでは足りないわね」
リアは立ち上がった。
窓際まで歩く。
庭の向こうには領地の街並みが広がっている。
昨日見た景色が頭をよぎった。
疲れた人々。寂しい市場。
それでも店を開け続けていた老人。
荷車を引いていた青年。
皆、生きようとしていた。
数字だけでは見えなかったものだ。
「実際に見て回りたいわ」
リアはそう言った。
アルも立ち上がる。
「領内を、ですか」
「ええ」
帳簿の向こう側を知りたい。
人の話を聞きたい。
何が起きているのか、この目で確かめたい。
そう思った。
アルは少し考え込み、静かに口を開く。
「でしたら、まず騎士団へ向かわれてはいかがでしょう」
「騎士団?」
「はい」
返事は早かったが、どこか歯切れが悪い。
リアはその違和感を見逃さなかった。
「何かあるの?」
アルはすぐには答えない。
珍しいことだった。
普段の彼なら、聞かれたことには真っ直ぐ答える。
そのアルが言葉を選んでいる。
リアは自然と背筋を伸ばした。
やがてアルは苦笑する。
「騎士団長へお会いになれば分かるかと」
「ずいぶん意味深ね」
「そうかもしれません」
リアは腕を組んだ。
ますます気になる。
騎士団。そして騎士団長。
帳簿の違和感と関係があるのだろうか。
それとも全く別の問題なのか。
まだ分からない。
「分かったわ」
リアは頷いた。
「明日、騎士団へ行く」
アルが深く一礼する。
「承知いたしました」
◇◇◇
その夜。
寝室へ戻った後も、リアの頭からアルの表情が離れなかった。
『騎士団長へお会いになれば分かるかと』
あの言葉。
そして、どこか言いにくそうだった様子。
アルがあんな顔をするのは珍しい。
窓の外では夜風が木々を揺らしている。
リアは静かに目を閉じた。
帳簿から答えは見つからなかった。
けれど、何も得られなかったわけではない。
むしろ疑問は増えた。
そして、その先にいる人物の存在も。
騎士団。
騎士団長。
帳簿には載っていない何かが、そこにある気がした。
明日、自分の目で確かめよう。
そう決意しながら、リアは静かに夜空を見上げた。




