第2話 帰郷
ベルフォード領へ到着したその日。
リアは領主館へ向かう馬車の中で窓の外を見つめていた。
市場で見た光景が頭から離れない。
活気のない通り。
少ない人影。
疲れた表情の領民たち。
そして、幼い子どもに向けられた母親の申し訳なさそうな笑顔。
胸の奥が重い。
領地の財政が苦しいことは知っていた。
けれど、それはあくまで報告書の上の話だった。
数字で見るのと、自分の目で見るのとでは全く違う。
馬車が緩やかな坂を上る。
やがて見慣れた建物が見えてきた。
ベルフォード家の領主館だ。
幼い頃から何度も見てきたはずの場所。
だが近付くにつれて、リアは言葉を失った。
外壁には細かなひびが入っている。
窓枠の塗装も所々剥がれていた。
門の鉄柵には錆が浮き、かつて色鮮やかな花で埋め尽くされていた花壇には雑草が目立つ。
(本当に余裕がないのね……)
市場の様子からある程度は覚悟していた。
だが現実は、その予想を少しずつ上回ってくる。
馬車が止まり、御者が扉を開く。
リアが足を下ろそうとした、その時だった。
「お帰りなさいませ、リア様」
懐かしい声が聞こえた。
思わず顔を上げる。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
白髪を丁寧に整えた執事服姿。
年齢を重ねた今も背筋は真っ直ぐ伸びている。
ベルフォード家の執事、バーナードだ。
「バーナード……!」
声が自然と弾んだ。
王都を出てからずっと張り詰めていたものが、ふっと緩む。
バーナードは深く一礼した。
「ご無事で何よりでございます」
「ええ。バーナードも元気そうで安心したわ」
顔を上げたバーナードは優しく微笑む。
「老いぼれですので、あちこち軋んでおりますが」
「嘘ね」
「なぜそう思われます?」
「本当に軋んでいたら、さっきみたいな綺麗なお辞儀はできないもの」
バーナードが少し目を丸くした。
そして小さく笑う。
「それにしても、大きくなられましたな」
「もう十八歳ですもの」
「私の中では、庭の木に登って落ちかけていたお嬢様のままです」
「それは忘れてください」
反射的に返すと、バーナードが珍しく肩を震わせた。
「木登りは禁止だと言った翌日に、もっと高い木へ登られましたな」
「子どもだったのよ」
「池へ飛び込んで風邪を引かれたこともありました」
「それも忘れて」
「厨房へ忍び込んで焼き菓子を――」
「バーナード!」
思わず声を上げる。
すると老人は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、リアもつられて笑ってしまう。
ほんの少しだけ。
だが王都を出てから初めて浮かべた自然な笑顔だった。
バーナードはそんな彼女を見て、どこか安心したように目を細めた。
「お疲れでしょう」
「少しだけ」
「では中へ。温かいお茶をご用意しております」
「ありがとう」
二人は並んで館の中へ入った。
◇◇◇
館の中は静かだった。
静かすぎると言ってもいい。
以前は違った。
使用人たちが行き交い、どこかしらから話し声が聞こえていた。
忙しなく働く姿が当たり前だった。
だが今は足音だけが響く。
廊下を歩いても誰ともすれ違わない。
「使用人も減ったのね」
ぽつりと漏らす。
バーナードは少しだけ表情を曇らせた。
「やむを得ませんでした」
「そう……」
責めるつもりはない。
むしろ当然だろう。
領地が苦しいのだ。
館だけ今まで通りというわけにはいかない。
それでも胸が少し痛んだ。
ここには思い出がたくさんある。
走り回って叱られた廊下。
母とお茶を飲んだ部屋。
妹と隠れんぼをした階段。
それらが少しずつ色を失っている気がした。
応接室へ案内される。
ほどなくして紅茶が運ばれてきた。
香りは良い。だが以前より葉の質は落ちている。
焼き菓子もない。
昔なら必ず用意されていたはずだった。
バーナードも気付いているのだろう。
何も言わない。
だからリアも触れなかった。
代わりにカップを手に取る。
一口飲む。温かかった。
それだけで少しほっとする。
「美味しいわ」
「ありがとうございます」
バーナードの表情が柔らかくなった。
その反応に、リアは少しだけ胸が痛む。
きっと彼も苦しいのだ。
長年仕えてきたベルフォード家が衰えていく姿を見続けてきたのだから。
「領地の状況は?」
リアは静かに尋ねた。
バーナードの表情が少し曇る。
「市場はご覧になりましたか」
「ええ」
「なら、おおよその状況はお分かりかと」
静かな声だった。だが重みがあった。
「若い者は王都へ流れております」
「やっぱり……」
「商人も減りました。街道の状態も良くありません」
リアは頷く。
今日だけでも十分見えていた。
活気が失われている。
人が減っている。
皆、生きることに精一杯だ。
「でも」
リアは窓の外を見た。
「まだ終わってはいないわ」
市場で見た人々を思い出す。
店を開いていた老人。
荷車を引いていた青年。
畑へ向かう農夫。
皆まだ踏ん張っている。
完全に諦めてしまったわけではない。
バーナードは少し驚いたように目を見開いた。
そして穏やかに笑った。
「お嬢様らしいお言葉です」
「そうかしら?」
「ええ」
短い返事だった。
だがそこには長年の信頼が滲んでいた。
リアは少しだけ嬉しくなる。
王都では否定されることが多かった。
だがここには、自分を理解してくれる人がいる。
それだけで心強かった。
「お父様は?」
「領内各地を回っておられます」
バーナードは答える。
「少しでも状況を改善しようと必死です」
その言葉にリアは小さく息を吐いた。
父も諦めてはいない。
その事実だけで救われる。
「そう」
「ですが……」
バーナードは少し考えるように目を伏せた。
「お嬢様のお力になれる者をお連れします」
そう言って部屋を出ていった。
残されたリアは紅茶を見つめる。
静かな部屋だった。
だが不思議と孤独ではない。
この館にはまだ人がいる。
この領地にはまだ守りたいものがある。
それを思うだけで少し前を向ける気がした。
やがて扉が開く。
バーナードは一人の若い男性と共に戻ってきた。
20代前半くらいだろうか。
茶色の髪を短く整え、執事服をきちんと着こなしている。
どこか真面目そうな雰囲気の青年だった。
「リア様、こちらはアルです。本日よりお嬢様の補佐を務めます」
「初めまして。アルと申します」
青年は緊張した様子で頭を下げた。
そんな彼の手には、一冊の分厚い帳簿があった。
年季の入った革表紙。
何度も開かれた跡がある。
彼はそれを大切そうに抱えていた。
「お嬢様がお望みになると思いまして」
バーナードの言葉にリアは思わず苦笑する。
「私、そんなに分かりやすいかしら」
「ええ」
即答だった。
「昔からそうでした」
「否定できないわね」
アルが少しだけ笑う。
その笑顔につられ、リアも微笑んだ。
帳簿を受け取る。ずしりと重かった。
紙の重さだけではない。
この領地の時間。人々の暮らし。積み重なった苦労。
そんなものまで詰まっている気がした。
アルは帳簿を見つめた。
その表情には悔しさが滲んでいる。
きっと彼も、この領地の現状を見続けてきたのだろう。




