第1話 婚約破棄
王都フローラルの大広間は、今夜も眩い光に包まれていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリア。
磨き上げられた大理石の床。
優雅な音楽と、貴族たちの楽しげな笑い声。
誰もが華やかな夜を楽しんでいる。
――少なくとも、表面上は。
「聞きまして?」
「ええ、ベルフォード家のことですわよね」
「最近はかなり苦しいらしいですわ」
「お気の毒ですこと」
近くで囁かれる声が耳に入る。
けれど、私ヴァレリア・ベルフォード―通称リアは顔色ひとつ変えなかった。
今さら慣れたものだ。
ベルフォード伯爵家。
かつては豊かな鉱山と交易で栄えた名門貴族。
しかし今は違う。
鉱山は閉鎖。人口は減少。財政も悪化している。
「それにしても、あの方も大変ですわね」
「セドリック様のこと?」
「ええ。婚約者があれでは……」
くすり、と笑い声が上がる。
リアは小さく息を吐いた。
冷たい。愛想がない。面白みがない。
帳簿ばかり見ている。
何度も聞かされた言葉だ。
けれど仕方がないと思っている。
領地が苦しいのは事実なのだから。
放っておけば、困るのは領民たちだ。
だから夜会の合間にも資料を読み、王都へ来る商人の話を聞き、少しでも領地の助けになる情報を集めていた。
それが将来、婚約者であるセドリックの役にも立つと思っていたからだ。
将来は夫婦として領地を支え合う。
そう信じていた。
「皆様」
不意に聞き慣れた声が響く。
大広間が静まり返った。
視線が一斉に中央へ集まる。
そこに立っていたのは、婚約者のセドリック・ヴァンレインだった。
「本日は皆様にお伝えしたいことがあります」
穏やかな笑顔。整った顔立ち。
社交界でも人気の高い青年。
だが、リアは胸騒ぎを覚えた。
最近の彼はどこかおかしかった。
領地の話をすると話題を変える。
将来の話をすると曖昧に笑う。
以前のように目を合わせてくれない。
嫌な予感だけが募っていた。
「私は本日をもって、ヴァレリア・ベルフォードとの婚約を解消したいと思います」
会場がざわついた。
「まあ……!」
「婚約破棄?」
「こんな場所で?」
驚きの声が広がる。
しかしリア自身は不思議なほど冷静だった。
驚いていないわけではない。
ただ、どこかで予感していたのだ。
「彼女は優秀です」
セドリックが続ける。
「努力家であり、誠実な女性でもあります」
会場が静かになる。
「ですが、私たちは価値観が違いました」
リアは黙って聞いていた。
「私は共に支え合える伴侶を求めています。しかし彼女と話すのは領地のことばかりでした」
ざわり、と空気が揺れる。
違う。
好きで話していたわけではない。
ベルフォード領を守りたかっただけだ。
それに――。
本当はもっと他愛ない話もしたかった。
一緒に笑ったり、未来を語ったり。
そんな時間を望まなかったわけではない。
ただ、それより先に守らなければならないものがあっただけだ。
「私はもっと、心から笑い合える相手と歩みたい」
そう言って、セドリックは隣へ視線を向けた。
そこにいたのは――妹のエリーだった。
会場からどよめきが起こる。
だがリアは違和感を覚えた。
エリーは笑っていない。
むしろ顔色が悪い。
今にも泣き出しそうだった。
(……?)
だが考える暇はない。
会場中の視線が返答を待っている。
リアは静かに顔を上げた。
「……そうですか」
ただ一言だけ告げた。
胸の奥に、小さな何かが落ちていく感覚だけが残った。
◇◇◇
舞踏会の後、リアは父に呼び出された。
ベルフォード家が王都で借りている屋敷。
応接室には重い沈黙が流れていた。
向かいに座る父は、いつもよりずっと老けて見えた。
幼い頃は大きな背中だと思っていた。
どんな問題も解決してくれる頼もしい父だった。
だが今は違う。
領地の問題に何年も向き合い続け、その肩には深い疲労が滲んでいた。
「……申し訳ない」
開口一番の謝罪だった。
「本来なら、私が守るべきだった」
「お気になさらないでください」
「しかし――」
「婚約破棄はセドリック様の意思です」
ベルフォード家には、もはや侯爵家に対抗できる力はない。
二人とも理解していた。
父は深く息を吐いた。
「リア。ベルフォード領へ戻りなさい」
「分かりました」
即答した娘に、父は驚いたように目を見開く。
「……恨まないのか?」
「お父様が一番苦しいでしょう?」
父は言葉を失った。
ベルフォード領は崩壊寸前だ。
父は何年も一人でそれを支え続けてきた。
責める気にはなれなかった。
やがて父は静かに呟く。
「すまない」
その一言だけが妙に胸に残った。
◇◇◇
翌朝、リアは王都を発った。
「お気の毒ですわね」
「辺境送りでしょう?」
「ベルフォード領なんて、もう終わりではなくて?」
背後から聞こえる囁き声。
だが振り返らない。
反論する意味はなかった。
馬車の扉が閉まり、ゆっくりと動き出す。
窓の外には見慣れた王都の景色が流れていた。
美しい街並み。
整備された石畳。
賑わう商店。
だが、不思議と未練はなかった。
「ようやく……」
小さく呟く。
「ようやく役に立てる」
王都ではできなかった。
婚約者という立場も、社交界のしがらみもあった。
だが領地なら違う。
自分の目で見て、自分の足で動ける。
その時だった。
突然、激しい頭痛が走った。
「っ……!」
思わず頭を押さえる。
視界が揺れる。
吐き気。耳鳴り。
そして――。
知らない光景が流れ込んできた。
空を突くような高い建物。
夜なのに昼のように明るい街。
見たこともない乗り物。
そして机の上に積み上がった大量の書類。
『まだ終わらないの?』
『今月も残業だね』
『予算足りません』
『また赤字か』
次々と響く声。
知らない言葉に、知らない景色。
なのに不思議と意味だけは理解できた。
「な、何なの……?」
頭が割れそうに痛い。
さらに記憶が流れ込む。
四角い板のような物を叩く自分。
光る画面。会議室。終電。
そして大量の数字。
数字。数字。数字。
「……あ」
そこで気付いた。
私はこの光景を知っている。
知っているどころではない。
毎日見ていた。
毎日向き合っていた。
毎日うんざりするほど。
それは――。
「会社……」
自然と口から言葉が漏れた。
聞いたこともないはずの単語なのに。
意味が分かる。理解できる。
そして最後の記憶が蘇る。
机に積まれた書類。終わらない仕事。重い身体。霞む視界。
『少し休んだら?』
『決算終わってから』
そう答えた自分。
そして――。
机に突っ伏したまま意識が途切れた。
そこで全てが繋がった。
「……嘘でしょう」
震える声が漏れる。
私は知っている。あの女性を。
誰よりも知っている。
なぜなら――。
「私だわ」
そう。私は前世で会社勤めの女性だった。
毎日働き続け、数字に追われ、上司に振り回 され、休むこともできず、最後は過労の末に命を落とした。
――いわゆる社畜OLである。
しばらく沈黙する。
そしてリアは額を押さえた。
「……せっかく新しい人生が始まったと思ったのに」
また立て直し案件なの?
そんなの聞いていない。
◇◇◇
ベルフォード領への旅は数日続いた。
その間、リアは何度も前世の記憶を整理していた。
会社。上司。会議。決算。
聞き慣れないはずの言葉が、なぜか自然に理解できる。
そして気付く。
前世の自分もまた、問題だらけの組織の中で働いていたのだと。
不正。責任転嫁。慢性的な赤字。現場の疲弊。
会社が壊れていくのを見ていた。
何もできなかった。
いや、正確には違う。
できることはあったのかもしれない。
ただ、一人ではどうにもならなかった。
その後悔だけが今も残っている。
(今度は……)
窓の外を見つめる。
(今度は違う結末にしたい)
そんなことを考えているうちに馬車が速度を落とした。
「お嬢様。ベルフォード領へ到着いたしました」
リアは窓の外を見る。
そして言葉を失った。
石畳は割れ、雑草が伸びている。
かつて子どもたちが遊んでいた広場には人影が少ない。
噴水は止まり、水も流れていなかった。
閉じられたままの店も目立つ。
(こんなに酷かったかしら……?)
市場へ近づく。
露店は少ない。
客もほとんどいない。
活気がない。
商人たちは疲れた顔で商品を並べていた。
市場の片隅では、小さな男の子が母親の袖を引っ張る。
「母ちゃん、今日のご飯は?」
母親は困ったように笑った。
「ごめんね、今日は我慢しておくれ」
「……うん」
子どもは素直に頷いた。
その様子が胸に刺さる。
だが同時に気付いた。
まだ完全には終わっていない。
店を開ける人がいる。
畑へ向かう人がいる。
荷車を引く人がいる。
苦しくても、この土地で生きようとしている人がいる。
なら――終わってはいない。
リアは馬車を降りた。
乾いた風が頬を撫でる。
目の前に広がる故郷を見つめ、静かに息を吐いた。
「……想像以上ね」
その声は小さかった。
けれど、その瞳に諦めはなかった。




