第16話 眠る羊毛
街道視察から数日が経った。
ベルフォード領主館の執務室では、重苦しい空気が流れていた。
机の上には相変わらず帳簿が山積みになっている。
リアはその数字を眺めながら、小さくため息をついた。
「橋を直すお金がない……。」
昨日から何度計算し直しても答えは変わらない。
橋の修復。 街道整備。 盗賊対策。
必要なのは分かっている。
だが、その最初の一歩を踏み出す資金がなかった。
アルも静かに帳簿を閉じる。
「削れる支出は、ほぼありません。」
「そうよね……。」
リアは椅子にもたれた。
部屋には重たい沈黙だけが残る。
そんな中、ガレスが静かに口を開く。
「……一つだけ、ご覧いただきたいものがあります。」
リアは顔を上げた。
「見せたいもの?」
「はい。」
ガレスは小さく頷いた。
「領地の倉庫です。」
◇◇◇
しばらくして、一行は領主館から少し離れた倉庫街へ向かっていた。
石造りの大きな建物が並んでいる。
その中でも一際大きな倉庫の前で、ガレスは立ち止まった。
「こちらです。」
重たい扉がゆっくり開かれる。
ギィ――。
扉が開いた瞬間、リアは思わず息を呑んだ。
「……え?」
言葉が続かなかった。
そこには倉庫の天井近くまで積み上げられた羊毛の山。
いや、それは山というより、小さな丘だった。
白。灰色。柔らかな羊毛が、何百、何千という袋に詰められ、倉庫いっぱいに積まれている。
「すごい……。」
アルも目を丸くする。
「これほどとは……。」
レオンでさえ驚いたように辺りを見回していた。
リアは近くの袋をそっと開いた。
ふわりと柔らかな羊毛が姿を見せる。
手で触れる。
軽い。
そして驚くほど滑らかだった。
「柔らかい……。」
ガレスが静かに頷く。
「ベルフォード産羊毛です。」
「これ全部?」
「はい。」
リアは周囲を見回した。
倉庫いっぱいに積まれた羊毛。
さらに奥にもまだ積み上がっている。
「これ、どのくらいの量なの?」
「およそ直近3年間で生産した物全てです。」
リアは思わず振り返った。
「3年!?」
リアは思わず聞き返した。
「しかも全部!?」
「商人が来なくなってから、ほとんど出荷できておりません。」
リアは一つの袋を見つめる。
「でも、品質は悪くなってないの?」
ガレスは首を横に振った。
「羊毛は適切に保管すれば長く品質を維持できます。」
アルも袋を確認する。
「確かに傷みはありませんね。」
ガレスは続けた。
「ベルフォード産の羊毛は、王都でも一級品として知られていました。」
「そういえば王都でも見たことがあるわ。ベルフォード産の羊毛を使ったドレスは、とても高価だった記憶があるもの。」
その言葉を聞いたガレスは少しだけ懐かしそうな笑みを浮かべる。
「昔は商人たちが競って買い付けに来たものです。」
リアは倉庫の奥を見る。
これだけの羊毛。もし売れれば――。
「……待って。」
リアの頭の中で何かが繋がった。
「売れなくなったんじゃない。」
ガレスが静かに頷く。
「はい。売れないのではありません。」
「ええ。売れないんじゃなくて……。」
リアは小さく呟いた。
「運べないだけ。」
その言葉に、部屋が静まり返る。
アルもようやく気付いたようだった。
「街道ですか……。」
「そう。」
リアは大きく頷く。
「羊毛はある。品質もいい。買いたい人もいる。でも商人が来られない。だから売れない。」
すべてが一本の線で繋がった。
リアは再び羊毛へ手を伸ばす。
柔らかな感触。それは単なる羊毛ではなかった。
「これは在庫なんかじゃない。」
リアは羊毛を優しく撫でた。
アルがリアを見つめる。
「これは――、眠っている財産よ。」
その言葉にガレスの目がわずかに見開かれる。
誰もそんな言い方をしたことがなかった。
これまでは、売れ残り、不良在庫、重荷。
そう呼ばれてきた。
しかしリアは違った。
価値は失われていない。
眠っているだけなのだ。
だが、アルは現実を口にした。
「しかし王都へ運ぶ方法がありません。」
リアの笑顔が少しだけ曇る。
「そうなのよね……。」
街道は寸断されている。橋は崩れている。盗賊もいる。
結局そこへ戻ってしまう。
ガレスが静かに言う。
「あの橋が通れない限り、荷馬車は王都へ向かえません。迂回路もありませんので…。」
リアは少し考え込む。
やがて、ゆっくり顔を上げた。
「全部直そうとするから駄目なのね。」
アルが首を傾げる。
「……と言いますと?」
リアは倉庫いっぱいの羊毛を見回した。
「橋を立派に直す必要はない。」
「え?」
「最初から完璧じゃなくていい。」
リアは机の上で計算するように指を動かす。
「荷馬車1台。まずは1台だけ通れればいい。」
レオンもリアを見る。
「応急修理ということですか?」
「そう。」
リアは笑った。
「全部の橋を作り直すから金貨120枚もかかる。でも、1台だけ通れる仮橋なら?」
ガレスが考え込む。
「木材と人手次第では……。」
アルも計算を始める。
「かなり抑えられるかもしれません。」
リアは大きく頷いた。
「橋が一本通れれば、羊毛を王都へ運べる。」
アルは頷きながら言う。
「はい。」
「羊毛が売れれば、お金が入る。」
リアは机の上で指を動かしながら、次々と考えを組み立てていく。
「そのお金で橋を本格的に修繕する。」
レオンもその意図に気付き、呟く。
「橋が直れば、今度は商人が戻ってくる……!」
「そう。」
リアは大きく頷いた。
「全部を一度に直そうとするから無理なのよ。まずは羊毛を動かす。その利益で領地を立て直す。」
部屋に静かな沈黙が流れる。
やがてガレスが小さく息を吐いた。
「……なるほど。」
重苦しかった空気は確かに変わっていた。
◇◇◇
倉庫を出る頃には、夕日が羊毛を黄金色に染めていた。
リアは振り返る。
積み上げられた羊毛。
3年間、誰にも運ばれることなく眠り続けた財産。
「もう少しだけ待っていて。」
リアは小さく呟く。
「必ず、あなたたちを王都へ送り出すから。そして、この領地をもう一度動かしてみせる。」
その瞳には、昨日までの迷いはなかった。
ベルフォード領には、お金がない。
だが、希望ならあった。
それは誰にも気付かれず、3年間眠り続けていただけだった。




