第15話 お金がない
街道の視察を終えた翌日。
ベルフォード領主館の執務室には、再び大量の帳簿が積み上げられていた。
崩れた橋も、荒れ果てた街道も、リアの頭から離れなかった。
「あれを放っておくわけにはいかないわ。修繕するには、いくら必要なのか――。まずはそこからね」
リアは静かに呟く。
アルは机の上に数冊の帳簿を並べた。
「では、修繕に必要な費用を確認していきましょう。」
リアは頷く。
橋の修復。街道の整備。巡回の強化。
やるべきことははっきりしている。
問題は――それを実行できるかどうかだった。
◇◇◇
「まず北街道ですが……」
アルが一冊の帳簿を開く。
「橋の修復だけで、およそ金貨120枚。」
リアの手が止まった。
「……そんなに?」
「老朽化だけでなく、土台から作り直す必要があります。」
さらにページをめくる。
「街道の補修が金貨80枚。」
「合わせて200枚……。」
リアは小さく息を吐く。
レオンも腕を組んだ。
「それでも最低限です。」
「最低限?」
「騎士団の詰所や見張り台を整備するなら、さらに必要になります。」
リアは苦笑した。
「始める前から予算オーバーね。」
アルは静かに別の帳簿を開いた。
「では、現在の財政状況です。」
そこには収支が細かく記されていた。
税収。維持費。職員の給与。騎士団への支出。
リアは数字を追っていく。
だが読み進めるほど、表情は曇っていった。
「……残っていない。」
思わず漏れた。
アルが静かに頷く。
「はい。」
「余剰金は、ほぼありません。」
リアはもう一度数字を見直した。
見間違いではない。
収入より支出が多い。
今年を乗り切るだけで精一杯。
修繕費を捻出できる余地など、どこにもなかった。
静まり返った部屋で、ガレスが口を開いた。
「修繕の必要性は理解していました。鉱山が閉鎖されて以降、税収は大きく減りました。その穴埋めをするだけで精一杯だったのです。」
リアは帳簿を閉じる。
昨日見た街道。
あれほど荒れ果てていた理由が、数字になって目の前に現れていた。
「修理したくても、修理できない……。」
アルは苦笑する。
「現実は厳しいですね。」
リアは椅子にもたれ、天井を見上げた。
「もし橋だけ直したら?」
アルはすぐ答える。
「他の予算が足りなくなります。」
「街道だけなら?」
「橋が渡れません。」
「騎士団を増やしたら?」
レオンが苦く笑う。
「給金が払えません。」
答えはすべて同じだった。
足りない。何もかもが足りない。
「まるで穴の開いた桶ね。」
リアはぽつりと呟いた。
「水を入れても、全部漏れてしまう。」
アルが小さく笑う。
「言い得て妙ですね。」
◇◇◇
しばらく沈黙が続いた。
誰もが帳簿を見つめている。
その時だった。
リアは一冊の古い帳簿を手に取った。
鉱山が栄えていた頃の記録。
収入は今の何倍もある。
橋の修繕費。街道の整備費。騎士団の増員。
すべて毎年計上されていた。
「昔は、できていたのね。」
ガレスが頷く。
「はい。」
「当時は鉱山が領地を支えていました。」
「街道も橋も、毎年修繕できていました。」
リアはゆっくり帳簿を閉じた。
「でも今は違う。」
鉱山はもうない。
過去を羨んでも、現実は変わらない。
レオンが腕を組む。
「では、どうされますか。」
問いかけられたリアは、すぐには答えなかった。
橋は直したい。
街道も整備したい。
盗賊対策も必要。
だが、金がない。
何か一つを選べば、 何か一つを諦める。
それが領主の仕事。
前世では、自分は与えられた予算の中で働くだけだった。
だが今は違う。
足りない予算を、どう使うか決める立場だった。
やるべきことが分かっているのに、思うように動けない。
こんなにもどかしさを味わったのは初めてだった。
「……悔しい。」
小さな声だった。
誰に向けた言葉でもない。
自分自身への言葉だった。
◇◇◇
夕方、執務室の窓から橙色の光が差し込んでいた。
リアは街を見下ろす。
市場。住宅。遠くに見える街道。
そこには確かに人々が暮らしている。
「お金さえあれば……。」
そう思った瞬間、リアは首を横に振った。
「違う。」
それだけではない。
お金がない。
それは事実。
けれど――。
本当に足りないものは、それだけなのだろうか。
昨日、街道を歩いた時の景色が脳裏によみがえる。
荷車は少なかった。
だが、畑には人がいた。
市場にも人はいた。
「……。」
リアは何かが引っ掛かる感覚を覚える。
まだ形にはならない。
だが、あと少しで答えに届きそうな気がしていた。
その時だった。
窓の外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
広場では、大人たちが仕事もなく談笑している。
お金がない。仕事もない。
それなのに、働き盛りの大人たちが昼間から広場にいる。
「……。」
リアは眉をひそめた。
何かがおかしい。
点と点が、まだ線にならない。
「どうされました?」
アルが尋ねる。
リアは窓の外から目を離さない。
「……何か、見落としている気がする。」
その違和感の正体を、リアはまだ知らなかった。




