第二十一話 羨望の深淵
洞窟の闇が完全に光に押し返されていた。
天井の岩肌に刻まれた無数の亀裂から、溜まっていた湿気が白く煙り、聖なる輝きに照らされて真珠のような粒となって舞っている。壁一面の光苔は、セイが放つ圧倒的な熱量に共鳴し、かつてないほど鮮やかな瑠璃色の輝きを放ちながら、洞窟の隅々までを照らし出していた。
セイの灯火はまるで生き物のように揺れ、闇を包み込むだけでなく、私自身の胸の痛みを吸い取るようだった。
(これが、灯火の完全覚醒)
胸を締め付けていた黒い鎖が、音を立てて砕け消えていく。その破片が精神の深みへと沈み、代わりに安らぎが全身を駆け巡る。
長く続いた呪い──。血を飲むたびの苦痛と孤独と死への絶望。すべてが今、この瞬間消えた。
私の魂を何百年もの間繋ぎ止めていた鉛の重しが消え去り、肺の奥まで澄み渡った空気で満たされていくのを感じた。
「ラグナ……」
セイが私の胸に顔を埋め、声を震わせている。
涙が頬を伝い、灯火の光と混ざり煌めいていた。そのしずくが暗い土の上に落ちるたび、そこから小さな光の輪が波紋のように広がっていく。彼の体温は、氷のように冷え切っていた私の胸を、優しく溶かしていった。
「セイ、お前が居たから私はもう一度呪いに歯向かおうと思えた。ありがとう」
「うん、僕もうラグナを一人にしないから」
セイの言葉が、胸の奥に深く突き刺さる。
何年も、何百年も背負ってきた孤独が、ようやく消え去る瞬間だった。
その時、黒い霧が再び洞窟の奥から現れた。岩の隙間から染み出す汚泥のように、どろりとした不浄な気配が足元を這い回る。
「ふん。愛で呪いを消せるとはな。甘い世界だ」
ランバードがゆらりと姿を現した。だが以前のような圧倒的な恐怖はなかった。セイの灯火が、透き通った盾となって私たち二人を守ってくれている。光と闇がぶつかり合う境界では、チリチリと火花のような音が響き、負の感情が浄化されていく。
しかしランバードは、私が思っていたよりずっと深い怒りを胸に抱えていた。
その証拠に、彼の纏う闇の密度が、先ほどまでとは比べ物にならないほど濃くなっている。セイの灯火が完全覚醒を果たした瞬間から、何かの箍が外れたように、ランバードの闇は膨れ上がっていた。彼の背後に広がる影は、もはや単なる投影ではなく、物理的な質量を持った深淵となって洞窟の天井を侵食し、不気味な脈動を繰り返している。
「……見苦しい」
ランバードが低く吐き捨てた。その声には、嘲りではなく、剥き出しの憎しみが滲んでいる。
「何が?」
「灯火だ」
ランバードの瞳が、セイの発する光を睨みつける。その目に宿るものは怒りだけではなく、深い絶望がにじんでいる。
「光はいつも、何故お前のところへ行く?何故……お前だけが──」
その声が、わずかに震えていた。
(ランバード……)
その言葉に含まれるランバードが灯火を憎む理由を、私は今になって初めて理解した。
彼は力が欲しかったのではない。最初は、ただ選ばれたかっただけなのだ。そのたった一つの肯定を得るために、彼は永遠とも思える時間を彷徨ってきたのだ。
「私は一族で最強だった」
ランバードが静かに話し始める。感情を押し殺した声に、不気味な耳鳴りのような静寂が場を支配する。
「お前より強く、お前より多くの血を支配した。誰もが私を恐れ、誰もが私に従った。それだけの力があった」
彼の言葉に合わせて、壁面の岩肌がミシミシと軋み、闇の圧力で砕けていく。
「……ランバード」
「なのに」
その言葉が、洞窟の壁に染み込むように落ちた。
「灯火は、お前を選んだ」
沈黙が、重くのしかかり、セイが私の服の端をそっと握ってくる。その指先の小さな震えを通じて、彼の不安と、それでも私を信じようとする強さが伝わってくる。
「力では手に入らないものがある……、と気づいた時、私はどれほど惨めだったか」
ランバードの瞳が、セイへ向いた。灯火の白い光に照らされたその顔は、憎悪と、自分を拒絶した世界への呪詛が混ざり合い、ひどく歪んでいた。彼の周囲に渦巻く闇は、もはや彼自身の意志すら飲み込み、自我を削り取りながら暴走を始めているようだった。
「強さが全てではないなら、何のために私はこんなに強くなった?何のために、一族の頂に立った?
答えてみろ、ラグナよ!!」
「……答えられるほど、私はお前の痛みを知らない」
「そうだ。お前には分からんだろうな」
その言葉は、凍てついた大地に突き刺さる墓標のように、虚無感を伴って響いている。
「お前は落ちぶれた吸血鬼だった。弱く、忌避され、どこにも居場所がなかったのだ。それなのに……灯火はお前を選んだ。その事実が、私には何百年経っても、理解できなかった」
(そうか。ランバードにとって私の存在は、ずっとそういうものだったのか)
弱いくせに選ばれた者。力があるのにに選ばれなかった者。
その残酷な対比が、ランバードの中で逃げ場のない毒となって腐り続けていたのだ。闇に侵食された彼の魂はもはやその矛盾を抱えきれず、自らをも破壊しようとするほどに悲鳴を上げていた。




