第十五話 闇の侵食と灯火の予感
洞窟内の空気が、物理的な質量を伴って凍りついていく。
入口に立つランバードから放たれる気配は、もはや単なる敵意ではない。それは、光を拒絶する「夜」そのものだった。
世界のどこにも逃げ場など存在しないと思わせるほどに濃く、鉛のように重い闇が、じわじわと青い光苔の輝きを塗り潰していく。
私の隣で、セイの小さな手が小刻みに震えているのが分かった。
(怖いだろう……。すまない、こんな場所まで追い詰められてしまって……)
だが、彼は決してその手を離さなかった。それどころか、震えを押し殺すように、私よりも強くしっかりと私の手を握り返してきたのだ。
掌から伝わる確かな体温が、私の胸を激しく奮い立たせる。
(この手を、二度と離さない。運命がどれほど過酷であろうと、この温もりだけは絶対に……)
ランバードは洞窟の入口に、黒い霧が人の形を成したかのような不気味な姿で佇んでいた。彼の瞳だけが、暗闇の中で濁った赤色に光り、私たちを冷酷に射抜いている。
「庇うとは、どこまでも愚かなことだな、ラグナ。かつての最強が、今や一介の人間を盾に生き長らえようとは」
「セイには……指一本、触れさせない」
私は掠れた声で、けれど断固とした意志を込めて告げた。一歩、セイを庇うように前に出る。
「ほう。お前にそれができると?その、満足に力も出ない呪われた身体でか?血液を啜ることもできず、ただ朽ちるのを待つだけの死にかけの吸血鬼が、何を守れるというのだ」
ランバードの挑発は鋭利な刃となって私の耳を刺し、過去の傷口を抉ろうとする。
だが、不思議だった。以前であれば絶望に染まったであろうその言葉が、今の私には遠い雑音のようにしか聞こえない。胸の奥が疼く痛みさえ、今の私には心地よかった。
(セイ……お前が私の呪いを、内側から弱めているのが分かるんだ)
繋いだ手から絶え間なく流れ込んでくるのは、冷えた魂を再燃させる灯火のような熱だ。セイという存在そのものが、私の内側に巣食う漆黒の闇に、小さいけれど、決定的な亀裂を入れ続けている。
「ラグナ……僕も、あなたを守りたい」
背後からセイの小さく、芯の通った声が響いた。
「セイ。嬉しいが、今は下がっていなさい。守るのは、私の役目だ」
「でも……僕も、何かできるはず。だって、さっきから僕の胸が……すごく熱いんだ。ラグナを助けたいって思うたびに、中から熱が溢れてくるの」
その言葉に、私は驚愕して彼を振り返った。
(もしかして……セイは『灯火』なのか?)
『灯火』。
それは数多ある『灯の血』の継承者の中でも、千年に一度現れると言われる伝説の特異個体だ。ただ血を与えるだけでなく、その魂そのものが巨大な光の源泉となる存在。
もし彼が真に覚醒すれば、宿主の呪いを消し去るだけでなく、あらゆる悪意を弾き飛ばし、対象を完全に守護する聖域すら発現させることがあるという。
だが、完全な覚醒には、あまりにも残酷で、けれど美しい「条件」があった。
(……心の底からお互いを真に愛し、己を捨ててでも相手を救いたいと願ったとき。そのとき初めて、魂の扉は開かれる。……だが、セイは、こんな私を、本当に愛してくれるのだろうか?)
数百年を闇に生きた怪物を、この清らかな少年が受け入れるはずがない。そんな自嘲的な思考が脳裏を掠める。しかし、その迷いを断ち切るように、ランバードの不快な笑い声が洞窟を震わせた。
「さて、時間をかける必要はないな。ラグナ、お前のような出来損ないが傍に居ると、前回同様『灯の血』はお前の所有物となってしまう。お前だけがその恩恵を独占し、私を拒む……そんな不平等、耐えられたものではない」
ランバードの声が低く響くと同時に、彼の足元から黒い触手のような闇の奔流が、一気に洞窟の奥へと伸びてきた。
「セイ、危ないっ!!」
私は思考を放棄し、本能のままに彼を強く抱き寄せた。背中を丸め、迫りくる闇の衝撃から彼を隠すように──。
その瞬間、物理的な衝撃というよりも、魂を直接凍結させるような激痛が私の背中を打った。肺の中の空気が無理やり押し出され、視界が真っ白に染まる。
「が……はっ……!!」
骨が軋む音。筋肉が凍りつく感覚。
しかし、それ以上に──腕の中で震えるセイの、折れてしまいそうなほど細い身体が、何よりも恐ろしく、そして何よりも愛おしかった。
自分の身がどうなろうと構わない。肉が削げ、魂が磨り減ろうとも、それは既に終わった命の代償に過ぎない。
だが、この腕の中から、二度と誰かを失う地獄を味わうことだけは──絶対に、許せない。
胸の奥が焼けつくように疼く。呪いの鎖が、主の反抗を鎮めるように再びその輪を締め直している。
それは筆舌に尽くしがたい苦痛だった。だが同時に、私自身が数百年抱え続けてきた「弱さ」や「恐怖」が、光に晒されて剥き出しになっていくような感覚でもあった。
──守れなかった。
あの日、雪の森で、私は守りたかった唯一の光を失った。
だからこそ、あの日から私は、ただ後悔という名の泥濘の中で立ち止まっていたのだ。
「……もう……二度と……!」
絶望に押し潰されそうな視界の中で、セイの白い光がわずかに揺れる。小さく、今にも消えてしまいそうな儚い光。
しかしその光は、私が長年、自らの意志で殺し続けてきた「願い」を鮮烈に呼び起こした。
(──生きたい。……セイのために。セイを、守り抜くために、私は生きていたい)
その思いが、漆黒の絶望の底に小さな種火として灯った瞬間、心臓を縛り上げていた呪いの鎖が、ギチギチと音を立てて軋み、ほんのわずかに緩む気配がした。
驚きに息を呑みながらも、その微かな変化は、私にとって何よりも甘美な救いだった。
セイという存在が、私を根本から作り変えている。彼の放つ光の矢が、私の内側の闇に深々と亀裂を入れている。
(これほどまでに、誰かを欲したことはなかった。これほどまでに強く、生きたいと……明日を見たいと願ったことは……!)
腕の中で震えるセイの鼓動が、私の胸へと確かに伝わってくる。
そのトク、トクというリズムは、呪いの冷たさよりもずっとずっと温かく、力強かった。
闇の奔流が周囲を埋め尽くす中、私はたった一つの、簡潔で揺るぎない答えに辿りついていた。
──もう、逃げない。
何者からも、運命からも、そして己の過去からも。
セイだけは。この光だけは、私が必ず守り抜く。
「ラグナ……! 血が、あなたの血が……っ!」
セイの悲鳴のような声が聞こえる。闇がさらにその濃度を増し、ランバードの勝ち誇ったような声が洞窟中に響き渡った。
「無駄だ、ラグナ。抗えば抗うほど、呪いはその身体を内側から破壊する。お前に呪いを解く術などない。結末は変わらん。貴様はここで朽ち果てるのだ」
「……結末なら、今この場所で、私が変えてみせる」
私は膝をつきながらも、ランバードを真っ向から睨み据えた。




