第十三話 蒼い静寂と、魂の残響
深い、底の見えない水の底に沈んでいくようだった。
光さえ届かない暗淵へ、身体の自由を奪われたまま堕ちていく。耳鳴りが、世界のすべてを覆い尽くすほどの轟音となって脳内をかき回した。
何も聞こえない、何も見えない。
音も光も──自分という存在の境界線さえもが、冷たい闇に溶けて消えていく気がした。
ただその中で、胸の奥だけが、焼けつくように熱いのだ。心臓が呪いの熱に浮かされながら、たった一つの答えを求めて激しく脈動していた。
(セイ……)
意識の最後に掴もうとした名を、私は水の中でもがくように呼び続けていた。
肺に溜まった空気が尽きかけ、喉が焼けるような渇きを訴えても、その名を手放すことだけはできなかった。
(セイ……セイ!!)
闇の底に沈みながら、その名だけが泡となって浮かび上がる。だが、実体のない私の声は冷たい水に溶けて掴む間もなく形を失った。何度も、何度も、届かぬ指を伸ばす。あの温もりを失えば、私は二度とこの水面の上には戻れない。そう確信していたから。
……どれほど時間が経ったのか分からない。
死のような眠りの果てで、重い瞼をゆっくりと押し開けると、柔らかな光が視界に滲んだ。
そこは、暗い森の中にある見たこともない洞窟だった。
あたりは薄ぼんやりした青い光で照らされ、壁に生えた光苔が、まるで誰かの呼吸に合わせて淡く波打つように光っている。しんと静まり返った空間に、ただ水滴の落ちる音だけが微かに響いていた。
そして──私の頭を支え、膝枕になってくれているのはセイだった。
「ラグナ、起きたの?」
覗き込んできたセイの声は、ひどく掠れていた。
その瞳の奥には、恐怖と安堵が混ざり合った複雑な色が浮かび、目の下にはくっきりとした影が落ちている。小さな身体で重い私をここまで運び、どれほど長い時間この暗闇で私の目覚めを待っていたのだろうか?泣き腫らした跡が、その白い頬に淡く、痛々しく残っていた。
「ここは……?」
「昔……偶然見つけた、森の奥の洞窟だよ」
私の問いに答えながら、セイは震える指先でそっと私の頬に触れた。その指は氷のように冷たく、けれどそこから伝わる想いは痛いほどに熱かった。
「怖かった……。ラグナが倒れて、動かなくて……息をしてるのかも分からなくて……」
その声は、今にも泣き出しそうだ。私を失う恐怖に、この小さな肩はずっと耐えていたのだろう。
私は重い鉛のような身体を無理やり動かし、ゆっくりと身体を起こした。
胸の奥を呪いの鎖が締めつけ裂けるような痛みが走ったが、不安げに揺れるセイの顔を見ると、不思議と荒い呼吸が落ち着いていくのを感じた。
「すまない、セイ。私が、弱すぎたばかりに、お前にこんな思いを……」
「弱くなんかない……。ラグナは、僕をあんなに守ってくれたもん……。自分の身体がボロボロになっても、ずっと……」
セイの指が迷うように私の乱れた髪を撫でた。
その、壊れ物を扱うかのようなあまりに優しい仕草に、私の胸の奥は守りきれなかった不甲斐なさで裂けるほど痛くなる。
「ねえ、ラグナ」
ふいに、セイが私の肩に額を寄せた。
彼の体温が服越しに伝わり、一粒の熱い涙が、私の胸の上に零れ落ちる。
「僕は……ラグナを救うためだけに生まれたの?」
その問いは、静かな洞窟の中に鋭く響いた。
「セイ……。灯の血は確かに特別だ。私のような呪われた存在には、これ以上ない救いだろう。だが、お前が俺を救うためだけに生まれたわけじゃない。そんなはずがないんだ」
「本当に……?」
「本当だ」
私は自分自身に、そしてセイに言い聞かせるように強く言い切った。
(セイの人生は、セイのものだ。誰かの犠牲になるために、あるいは誰かを癒やすための道具としてこの世に生を受けたわけではない)
誰かに縛られ、運命に消費されるために生まれた存在だと、彼にだけは絶対に思わせたくなかった。
だがセイは泣きそうな顔で、ゆっくりと首を振った。
「違う……。僕、気づいてるんだ。ラグナを見たときから、ずっと何かおかしくて……なんだか、すごく、懐かしくて」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸がきつく、鐘を打たれたように脈打った。
セイは頭で理解するよりももっと深い、魂の根源に近い部分で何かを感じ取っているのだろう。
灯の血とは本来、魂の共鳴によって生まれるものだ。
理論や理屈を超えて、引き寄せられる運命。やはり、セイは私に深く関係がある。過去の、あの雪の日の記憶と──。
「ラグナ、僕ね……嬉しかったんだ」
「何がだ?」
「ラグナが……、僕を必要だと言ってくれたこと」
「必要なんて言ったか、私が?」
自嘲気味に問い返す私に、セイは真っ直ぐな瞳を向けた。
「僕を力いっぱい抱きしめて……守って、離さないって言ったじゃない。あの時、ラグナの心が聞こえた気がしたんだ」
その瞬間、私は呼吸をすることを忘れた。
……そうだ、確かに、私は叫んでいた。
意識が闇に呑まれる寸前、ランバードに奪われまいと、彼を抱きしめて叫んでいたな。
「離したくない」と。「守る」と。
私は初めて心の底から、己の命に代えてでも誰かを守りたいと思ったのだ。




