第十二章 記憶の扉が開く刻
ぶつかった瞬間、世界が爆発したかのような衝撃が走った。
本来ならば、この程度の突進、造作もなくいなせたはずだ。かつての私であれば、風を斬るように身をかわし、そのままカウンターの一撃で相手の心臓を穿っていただろう。
だが、現実は残酷だった。
呪いに蝕まれた身体は、もはや精密な機械ではなく、錆びついた旧時代の遺物だ。衝突の余波だけで関節が悲鳴を上げ、筋肉の繊維が一本ずつ引き千切られるような激痛が全身を縦断する。
(……くそ、身体が……熱い……っ!)
血管を流れるのは血ではなく、焼けた鉛のようだ。
呪いが、私の内側から強さという名の地盤を削り取り続けている。足元がふらつき、視界が二重、三重にブレる。
「動け……動け、動け……!!」
歯茎から血が出るほど食いしばり、泥沼に沈もうとする意識を繋ぎ止めた。
痛みなどどうでもいい。そんなものは、セイを失う恐怖に比べれば、羽毛ほどの重みもない。
視界の端で、小さな影が震えている。その震えを止めるためだけに、私は死を拒絶した。
「ハハッ!どうしたラグナ。その足取り、まるでお迎えを待つ老兵だな!」
ランバードが嘲笑とともに、漆黒の爪を振り下ろす。
反射的に腕を交差させて受け流すが、重い一撃一撃が、私の魂を直接削り取るような質量を持っていた。
完全には逃げ切れない。脇腹をランバードの拳が掠め、肋骨が軋む嫌な音が鼓膜の内側で響いた。
「が、はっ……!」
肺から空気が強制的に排泄され、視界がチカチカと明滅する。
呪いの鎖が、実体を持って私の四肢を地面へと引きずり下ろそうとしているかのようだった。
だが、私は膝を突くことは許されない。
そんな私にランバードは、獲物の絶望を嗜むように、次の一手を繰り出してきた。
「その肩、もう使い物にならんだろう?」
黒い爪が空気を引き裂き、私の肩を深く抉る。熱い鮮血が舞い、雪のような冷たい地面を赤く汚した。
その痛みに意識が遠のきかける。
その瞬間──脳裏に、強烈なイメージが走った。
(まただ。また、こうして……私は……)
守れなかった。その後悔の味を、私の魂は知っている。
ランバードに捕らえられ、小さな身体が無惨に折れ、私の名を呼びながら絶望に沈んでいくセイの姿を。存在しないはずの光景が、私の理性を焼き尽くす。
「……させる、か!!」
喉の奥から絞り出したのは、獣のような咆哮だった。私は崩れそうな足に力を込め、再び立ち上がる。
「ランバード……お前に、セイは、指一本……触れさせない……」
「ほう?その死に体で、まだ牙を剥くか」
ランバードの目が、愉悦に細められる。
「呪いに蝕まれ、かつての英雄の影も形もない。それでも、その子供一人のために命を捨てるというのか?」
「……命を捨てるのではない。命を守ると、決めているだけだ」
震える拳を握りしめる。指先に力が入らない。感覚が麻痺し、自分の腕がどこにあるのかさえ定かではない。
呪いの鎖が、ギリギリと軋みを上げる。私の意志が、世界の理に反逆しようとしているかのように。
ランバードの表情から余裕が消え、わずかに眉が潜められた。
「……貴様、まさかその状態で、呪いに抗おうというのか」
「抗うさ。何度でも……何度だって、私は立ち上がる」
その覚悟が引き金だった。
記憶の扉が、凄まじい音を立てて内側から蹴破られた。
──パリンと、頭の芯で、何かが砕ける音がして、視界が一瞬にして純白に塗り潰される。
そこは、吹雪の荒野だった。
凍てつく風が肌を刺し、視界を遮るほどの雪が舞っている。
その場所で、私は誰かを抱いていた。
とても小さくて、壊れそうな身体だ。そして私の胸を濡らす、温かくて、けれど急速に冷えていく血の感触。
「……だめだ……行くな……! 目を開けろ!」
叫んでいるのは、私だ。
顔は泥と涙で汚れ、酷く痛々しいはずなのに、その唇は微かに弧を描いていた。
『ラグナ……僕、嬉しかったんだ……。あなたに、出会えて……』
「喋るな! すぐに治してやる、だから……!」
『ううん……。いいんだ。僕が……灯火になるよ。だから、あなたは、生きて……』
少年の瞼が、ゆっくりと、永遠の眠りへと閉ざされていく。その瞬間、私の中の何かが、修復不可能な音を立てて壊れた。
守れなかった!約束したのに!
この小さな灯火を、私が消してしまった──。
「いやだ……いやだあああぁぁ!!」
記憶が、そこで断絶する。
だが、刻まれた感覚だけは鮮明だった。
私を暖かく包み、絶望の淵から引き戻してくれた、あの少年の声。
『僕が灯になるよ……だから、死なないで……』
そうだ。あの少年は、自分の命を、血を、私に捧げたのだ。
そして、その命を奪ったのは──。
(……ランバード……貴様かっ……!!)
目の前の敵と、過去の惨劇が一本の線で繋がる。
(セイ……お前は……お前は、まさか……)
きっと答えは、すぐそこにある。
なぜ、セイの血だけが私の渇きを癒やすのか?
なぜ、彼といると、凍りついた心が溶けていくのか?
その正体を呼ぼうとした瞬間、意識の底から闇がせり上がってきた。
(くそ……あと、少しなのに!)
抗う力さえ、呪いに吸い取られていく。
身体の末端から感覚が消え、世界が急速に遠のいていくのだ。
倒れゆく私の視界、最後に映ったのは──。
「ラグナーーーッ!!」
必死に手を伸ばし、私の名を呼ぶ、泣きじゃくる少年の顔。
(すまない、セイ……。また、私は……)
最後に浮かんだのは、守りたかったその笑顔と情けなくも、届かなかったその手。
私はその叫びを耳の奥に残したまま、深い、底の見えない闇へと、真っ逆さまに落ちていった。




