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人の多すぎる往来の中で人探しすることに疲れ果ててしまった私たちは、日が落ちる前に帰宅した。玄関の扉はなぜか鍵がかかっていなかった。
「ただいま」
ため息を一つ吐いて、私は部屋の中を見渡した。
「テレサさん!これ、どうしたんですか?」
姪が驚くのも無理はない。家の中に竜巻が入ったかのように、あらゆる引き出しが引っ掻き回され、書類や新聞などの紙類が床一面を覆いつくしているからだ。
「大丈夫。いつものことだから」
足元に転がる本を拾い上げながら、私は部屋の中ほどまで進んでいく。
「強盗ではないんですか?」
「あの人よ。私が留守の時に帰ってくると、こうして家中の引き出しをひっくり返すの」
「何を探しているんですか?」
「もちろん、お金」
いくら探しても見つかるはずがない。引き出しを荒らされるということぐらい分かっているのだから、そんな分かりやすい所に隠しておくはずがない。
私は机に買い物してきた物を置くと、台所の開き戸の中にしまっている小さめの薬缶を引っ張り出した。そして蓋を開けて中身を確認する。
「大丈夫。お金は無事みたい」
姪に薬缶の中身を見せると、彼女は胸を撫でおろして「そんな所に。」と呟いた。
「台所は興味がないらしく、お皿の種類とか杯の数とか全く覚えていないから、ここが一番安全なの」
これでもいろんな所に隠してきた経験によるもので、他の場所は根こそぎ持っていかれた。
「でも、これも明日には他人が飲んだ酒代に消える」
友人は付けの支払いは構わないと言ってくれたが、そんな訳にはいかない。もし足りなくても精一杯の返済はするべきだと思う。
「夕飯の前に、掃除ね」
「手伝います」
「誘拐犯の妻に気遣いなんていらないんだからね」
「そのかわり食事はきっちり頂きます。さあ、とっとと片付けてしまいましょう」
書類を集める少女の背中を見ていると、今日という日にこの家に人が居てくれることに救われているような気がする。
いろんなことがボロボロと私の掌から零れ落ちていくような一日だった。もし私一人だけでこの日を迎えていたら、こんな風に散らかった部屋を片付けられることが出来ていただろうか。
「……きっと泣いていたわ」
「テレサさん、この辺りにとにかく集めますね」
「こっちの袋に入れてくれる?後日片付けるから。こんなことで感謝祭を過ごすのは嫌だもの」
「良かった。もう、お腹がペコペコだったんです」
神様に感謝します。ここに彼女を遣わせてくれて。
私はじわっと滲む自分の目じりの水分を指で攫って、袋に物を放り込んでいく。
そしてこの日の夜は二人で、遅い夕食を食べた。そして明日の為に料理の仕込みをしている間に、姪は長椅子で眠りについていた。
眠る少女に毛布を掛けながら、この子をどうやってバシーノさんに返したらいいのかと考えた。無策に街を歩き回っても、そう簡単に見つけられるはずもない。
「そうだ、あの護衛官たちに聞き込みすれば良かった」
文官の私よりは、護衛官を務める武人たちの方がよほどバシーノさんとの接点が多いに決まっていた。せっかく、一堂に会していたのにあの時どうして思いつかなかったのだろう。
人間、結局は保身が第一だってことなのかもしれない。私は、夫の罪を無かったことにすることで自分の地位を守ろうとした。彼女の事を考えてあげていなかった。
「ごめんなさい」
私は部屋の明かりを消して、台所へ戻った。そして野菜で出汁をとるために、大きな同鍋を用意した。
次の日、日が昇ってすぐに私は友人の酒屋へ足を運んだ。昨日の大群衆が嘘みたいに、市場通りは閑散としていて、波の音が聞こえてきそうだった。
友人宅の郵便受けに現金を入れた封筒を入れて、「ごめんね」と呟いてその場を離れた。
感謝祭二日目の早朝に神殿で祈ることが、私の数少ない決まり事だった。神殿は感謝祭期間は一日中、扉が開いているので、こんな朝日の登り始めた時間でも受け入れてくれるのだ。
大聖堂への通い慣れた道を進んで、昨日と同じように敷地内に入って、神殿へと向かう。大聖堂の入り口部分にあたる神殿は、大神殿とも呼ばれていて、グッタでは一番大きな神殿だ。
高さのある大きな両開きの白い重厚な扉は彫刻が凝らされていて豪奢で、いつみても人が手で作り出したようには見えない。
開かれた扉をくぐって、内部に入ると、そこはもう、空気が違った。
冷えた中に静謐さがあって、花の香が仄かにする。あの香は神殿にしか焚くことを許されていない、高価な香らしい。
神殿の壁は植物の彫刻が掘られ、天井には美しい花の絵が描かれ、窓という窓には色とりどりの色ガラスが嵌められていて、床は磨かれた石に青い絨毯が真っすぐに祭壇まで伸びている。白い植木鉢がそこら中に並べられ、季節の花を咲かせていて、神様を祀る祭壇にはたくさんの切り花などでおおわれている。これらの花は信者が巡礼の際に持ち寄ったもので、僧侶が飾ったものではない。
私は祭壇の前まで進み、ぽっかり空いた空間に寂しさを感じた。
「やっぱり、もう居ないんですね」
天窓のすぐ下にあたるこの場所に、巫リーベ様は眠っていた。棺のような大きな透明の硝子箱に入って、枯れることのない花々に囲まれながら綺麗に眠っていた。決して老けることは無く、側の花も枯れたりもしない。
神殿の案内人の話によれば、その硝子箱には魔法がかけられており、時を止めておくことが出来るという。そして箱は中からしか開けることが出来ない。つまり、リーベ様が自ら開けない限りは、その硝子箱が開くことは決してないという。
現に多くの暴漢に叩き壊されそうになったらしいが、傷一つ付けることはできなかったと聞いたことがあった。
祭壇の前で膝をついて、神様に問うてみる。
「私はどうすればよいのでしょう」
本来ならば、一年の豊穣に対し感謝を述べるのが通例で、悩みを問いかけるのは間違っている。
神には感謝を述べ、僧侶に道を説いてもらうというのが、この神教の流れだ。でも、私には悩みを打ち明けられる僧侶様を知らないし、人には言いにくい内容でもある。
「夫は、ある僧侶様に予言された通りの人生を歩みたいようなのです。ですが、それでは生きてはいけません。英雄になる日とはいつなのでしょうか」
浮世離れした大人に世間は冷たいし、働かなければ生きていけない。私が支えているからこそああして、自由に遊びまわっているが、私が見放せばあの人はどうなってしまうだろうか。
「夫なのだから、見捨てずに最後まで見守ってやれと仰せですか?」
神々しいほど祭壇には花が満開で、まるで花と対話しているような気分になってくる。聖人は死後、花に宿って人々を見守るという言い伝えがあり、僧侶たちは花を摘んではならないという掟がある。
神は二百六十年もの長い間、一人の女性を見守り続けた。私が信じる神様は「夫を見守りなさい」と言うかもしれない。
私は家から持ってきた一輪の花を祭壇に供えて、神殿を後にした。
そして朝日を浴びながら一つ伸びをして、目一杯に新鮮な空気を吸って帰ろうとした時だった。
「テレサさん、こんな早くから仕事ですか?」
大聖堂の庭で背の高い男性がこっちに向かってくる。よく見ると、近所に住む馬借を営むマッジーニ家の次男だ。
「メサン。どうしてここに?」
「先に質問したのはこっちですが」
そうそう、彼はもともと武人で少し態度が大きい所があった。
「あ、ごめんね。私は神様に感謝祭の挨拶をしに来たの」
「俺は、僧侶様が馬をご入り用だというので、連れて来たんですよ」
「馬なんて軍部にいくらでもいるでしょう?どうしてわざわざ馬借に用立ててもらうのかしら」
「さあ?お偉い方の考えは分かりません。こっちは仕事があって嬉しいですが、感謝祭の朝に働くのは嫌ってもんです」
メサンは大の馬好きだが、仕事があまり好きではない。その辺りはうちの人と話が合うらしく、たまに二人で飲みに行ったりしているようだった。
「そうだ、さっきダルセに会いましたよ。夫婦そろって朝が早いんですね。歳のせいですか?」
歳って、まだ四十代だけどと怒ってやりたかったが、神殿の前で癇癪を起すのは止めておくことにする。
「あの人、どこをウロウロしてた?」
「うちの厩の近くです。急いでいるようでした」
「何をしてるんだか」
再び夫に呆れた時、聖堂の裏口がある方向から、一人の男が走って来た。
「メサン、ちょっと待て」
「なんだよ。あの馬じゃあ不満か?」
警戒に走って来たのは、軍服を着た男で、その顔にどこか見覚えがあった。
「いやいや、馬はあれで十分だ。それより、供え物が余ってるから、持って帰らないか?」
「供え物って、僧侶様方で分けるのが慣例だろ?」
信者は神には花を供えて、僧侶には野菜や果物などを持ってくる。税金の徴収ではなく、善意の供え物で、供え物の高価さなどで祈祷の種類が変わったりはしないらしい。
「俺たち護衛官に巫様が下さったんだが、みんな料理とか苦手でさ。断る訳にもいかず、腐らせるわけにもいかない。俺たちの手に余るものは持って帰ってくれると助かるんだ」
護衛官も今日の昼から明日まで休暇が与えられたらしいが、そのかわりに自炊をしなけらばならなくなって、料理の得意な人間がいなくて困っているらしい。
「良かったら、何か作りましょうか」
軍部では補給担当の料理人がいるので、彼らが料理をすることは少ないと聞く。護衛官以外は実家に帰っているだろうから、おそらく給湯室で生野菜を転がして途方に暮れているのだろう。武人が野菜や文房具を貰って、困っている場面を何度か見たことがある。
「テレサさん、いいんですか?」
軍服の男がなぜか私の名前を知っていた。その声を聞いていると、ようやく彼が誰なのか思い出しのだった。
「もしかして、昨日、立ち上がった私を支えた人?」
「覚えていてくれたんですね」
「ええ、忘れはしませんよ。貴方のせいで、作戦が失敗しそうになったんですから」
メサンと昨日の男は目を丸くさせて、私の方をじっと見ていた。
「とにかく、朝ごはんもまだなんでしょう?簡単なもので良ければ作ります」
なぜかメサンも彼と一緒に喜んで、三人で給湯室へと向かった。
そして腹を空かせている屈強な男たちに朝食を作り、大いに感謝され、名前を覚えられ、帰り際にはカボチャや麦などの野菜をたくさん持たせてもらった。
荷物が多く、メサンが家まで荷物を半分持ってくれるというので、その言葉に甘えることにした。
「テレサさん、実家に帰る時間の無かった我々にとって家庭料理を出してくれた貴女はまさに女神です。このご恩は決して忘れません」
昨日の男が大袈裟に芝居がかった言い方で褒めるので、私も調子に乗ってお願いをすることにした。
「なら、お願いがあるんです。バシーノさんを見つけてくれませんか?」
「お安い御用ですよ。俺たち明日まで暇なんで」
若々しい護衛官たちは清々しいくらいに食事を平らげてくれたので、私としても気分が良かった。学食の料理人になった気分だった。
バシーノさんを見つけたら、マッジーニ馬借屋に情報を届けてくれると約束してもらい、私たちは家に帰ることにした。
給湯室を出ると、太陽は真上に差し掛かろうとしていて、姪を独りで残してきたことを思い出して速足になった。
「ただいま。おそくなってごめんね」
野菜の入った袋を抱えて帰宅すると、出迎えたのが姪ではなく夫だった。
「テレサ、おかえり。今年も神殿へ行ってきたの?」
「……帰ってきてたんだ」
「感謝祭だからね」
夫はいつにも増して満足そうな笑顔を浮かべている。どうやら良いことがあったらしいが、その事には何も聞かない方がいいだろう。どうせ碌なことではないだろうから。
「あの子、起きてる?今からご飯用意するね」
「お腹空いてたんだ」
人の気配がしない。狭い家だ。こうして台所から見渡せばだいたい見渡せてしまう。視界のどこにも少女の姿が見えない。
「ねえ、あの子はどこ?」
「そうだ、テレサ。これから外に食べに行こうよ」
「何言ってるの。感謝祭なんだからどこも店なんてやっていなわ。そもそも外食するお金もないの」
私は家中を歩き回って、風呂場や厠などを見て回るが、姪の姿はどこにも無い。
「お金の心配はいらない。ここにあるから」
夫は子どもの様に陽気で、なぜか懐から大金を取り出して見せびらかせた。どうみても真っ当な働きで手に入る金額ではない。
「こんな大金、どうしたの?」
「それは内緒」
「人殺しでも請け負ったの?」
「人を殺すなんて恐ろしくて出来るわけないよ」
嫌な汗が引き出そうなほどの大金で、これだけあれば小さな一軒家が買えるくらいだ。
「なら、何をしたらこんな大金が手に入るの?」
「それは、テレサには言えない」
夫はにやにや笑いながら質問に答えようとしない。
さっき、メサンが厩の近くで見かけたと言っていた。マッジーニ家の本店はこの家の近所だが、馬を管理する場所は住宅街から外れた場所にある。あの辺りは少し治安が良くなくて、浮浪者や怪しい輩が幅を利かせていると聞く。
「今すぐにそのお金を返して来て」
「え、なんで?」
「とにかく、怪しいお金は貰ってはいけないの」
「怪しくないよ。ちゃんと雇用契約を結んだから貰ったんだ」
「働く気になったの?」
神様への相談が実を結んだのか、ようやく夫は仕事をする気になったと、前金を貰って来たんだと少し喜んだ時だった。
「うん。あの子がね」
嫌な予感がする。確実にかなり悪い感覚だ。
「ダルセ、どういう意味?」
「あの子がね、テレサに感謝の気持ちとして受け取ってほしいって、これを貰ったよ」
夫はお金を一旦机の上に置き、長椅子に置いていた黒い布袋を見せてきた。それは姪がいつも胸元に肌身離さず抱えていた鞄だった。
「テレサ、見てみて。これ、ランテルナが配っていたという祝福のランタンだよ」
布袋を開くと、中から強烈な光が溢れ出てきて、目がくらんでしまいそうだ。
「このランタンを売れば、大金持ちになれるよ。もう、働かなくたっていいんだ」
ランテルナの祝福の灯は一人一人に配られる大切な灯だということは知っている。そんな貴重なものを誘拐犯の妻に渡すはずなどない。夫が巻き上げたに違いない。
胸の奥が焼けるように燃えている。熱い血液が体中を巡って、今にも目から血が噴き出しそうだ。こんなに怒りが込み上げてくるのは初めての感覚だった。
そして机の大金をもぎ取って、へらへら笑っている夫の顔面を平手打ちした。
「どこの店か言いなさい!このお金はあの子を娼館に売ったお金なんでしょう」
感謝祭に開いている店は少ない。開店しているのは賭博場や娼館くらいだ。この金額から考えても人間を売るぐらいでなければ有り得ない金額だった。
「テレサ、あの子だって生きていく為には仕事が必要なんだ。身分証明書がない人間が働けるのはそういう店しかないんだよ」
「あんたに諭されたくない。そのランタンを渡して」
夫はランタンを両腕に抱きしめて、放そうとしない。
「これで億万長者になるんだ。そうしたら、テレサを幸せにしてあげられる」
何が私の幸せだ。全部、自分の幸せの事しか考えていないじゃないか。他人を不幸にしてでも自分が幸福ならばこの人は満足だという事なのだ。
「呆れた。もういい。あんたとは離婚よ」
あの的外れのような驚いた顔を見てしまうと、ますます今までの自分が馬鹿らしく思えてくる。
私はお金を手近にあった袋に詰め込んで、家を飛び出した。そしてあの子が売られたであろう娼館を探すことにした。
例の娼館はあっという間に見つけた。なぜなら店の従業員が店の前で右往左往していたからだ。
「あの子を早く見つけろ!」
「若い娘だ。砂色の髪で、華奢な子だ。すぐにわかるはずだ。探せ!」
そう大声でわめき散らかしているのだから、すぐに彼らの探し人が姪だと分かった。
私は店の店主であろう、派手な女に全額返金し、彼女をもう探さないでとお願いした。
「あんた、あの男の奥方かい?」
「一応そうです」
「感謝祭に子どもを売るなんて普通じゃないよ。あんな男はすぐに捨てた方がいい」
女店主はそう私に情をかけてくれて、今回の契約は破棄してくれると約束してくれた。しかし、喜んだのも束の間、今度は姪を探し出さなければならない。人通りは少なくなったが、このルクスという街には古くから言い伝えがある。それは「ルクスで待ち合わせは出来ない。人は探せない」というものだ。
この土地は海に近く、嵐や長雨のせいで度々河川が氾濫したり、海水面が上昇したりと水害に見舞われることが多かった。そのため、浸水したり水で削られた部分を何度も整備し家を建て直してきたせいで、まるで迷路のように複雑に入り組んでしまう形になってしまったのだ。
昨日の様に市場通りのような大通りに人が集中するのも、路地では迷ってしまって目的地に辿り着けないからだ。
「ああ、名前すら知らないわ」
姪の名前すらちゃんと知らず、どうやって探せばいいのだろう。