18.
翌朝。融崇甫はいつものように出勤し、詰所へ向かう。
よくも悪くも連動しているのか。
今朝の空は彼の気分のように清しい青であった。
「たまには降ってくれてもいいんじゃぞ?
ずっと乾燥していたら、それはそれで喉風邪が流行るでな」
今の彼には、好天に文句を言えるほどの余裕すらある。
さて、詰め所には融崇甫が一番乗りだったらしい。
静寂という侘び寂びをお供に茶を啜っていると
「おぉ、融先生」
ややあって二番手に曹立が現れた。
「おはよう」
「おはよう。本当にお早いご出勤だな」
「貴殿もな。とはいえワシは今朝、特別機嫌がよくてのう。最高の目覚めじゃった」
「それはいい。自律神経が安定している」
実に医者らしい返事をくれる曹立だが。
彼は融崇甫の隣に腰を下ろすと、
「しかし、世の中安定せんものも多い」
急に険しい顔で、経営者か政治家みたいなことを言い出す。
相手の顔を見ず遠い目をしているので、哲学者かもしれない。
「何かあったのか」
「うむ」
融崇甫が茶を差し出すと、曹立は唇を湿らせる。
本当に湿らせる程度。ほとんど口に入ってすらいない。
「殿下の熱がぶり返した」
「なんと!」
ここで曹立はようやく融崇甫と目を合わせる。
「なので、折入って頼みがある」
「うむ」
言われるまえから融崇甫には内容が察っせられた。
ごく最近に同じことがあったのだから。
事例から判断するのは医療の大前提である。
「もし今日手間が空いているなら、前回と同じように宿直を頼めまいか」
「任されよう」
融崇甫はふたつ返事で受けた。
韋氏は殺してしまったので、もうアリバイ作りは必要ない。
しかし、
(おいしい仕事ゆえな)
搾り取られた分の財産も取り返さなければならない。
1作目のランボー状態である(違う)。
「こんなこともあろうかと、宿直室はあのままにしてある。
今日は昼から安心して入ってくれ」
「助かる」
それから融崇甫は午前の診察を滞りなく終えた。
田妃のところへは行かなかった。
必要がないから。
粛妃のところへも行かなかった。
必要がない
以上に、合わせる顔がないから。
向こうからしても、わざわざ追い詰める証拠を並べた相手である。
会いたくはないだろう。
ちなみに融崇甫も、
『このまま行けば粛妃が犯人ということで幕引きになるだろう』
とは聞いている。
何も思わないことはなかった。
が、ほくそ笑まなかったかと言われれば、嘘になる。
「後宮医の融崇甫じゃ。曹先生から話が行っていると思うが」
「お待ちしておりました」
昼食を終えた融崇甫は太乙殿へ向かった。
食後の眠気が続くうちに、さっさと布団へ潜り込む算段である。
「こちらへ」
「前回来たでな。案内は無用じゃ。曹先生に『来た』と伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
特別あいさつやら説明事項やらも必要ない。
「お茶をお持ちしましょうか?」
「いや、寝られなくなるでな」
「では、今晩はよろしくお願いいたします。ごゆっくり」
とんとん話が進み、融崇甫はひとりになった。
「さて、寝るか」
特にすることもなければ、睡眠を妨げる懸念事項もない。
融崇甫はさっさと夜に備えることにした。
慣れるほど通った場所でもないが。
融崇甫は迷わず真っ直ぐ宿直室へたどり着いた。
侍女の案内を断っただけはある。
ドアに鍵は掛かっていない。
融崇甫は中に入ると、デスクに鞄を置き、
「うむ」
なんとなくシーツを手で均し、ベッドに横になる。
枕の上で両手を組み、後頭部を乗せ、天井をぼんやり眺める。
(今朝はタジのヤツも来なんだ。
事件の日にワシはここにいた、ということを崩せんのであろう。
もし今日1日、ヤツが現れなんだなら。
いつ粛妃の犯行と決定されるかは分からんが、
『逃げ切った』
と見てよいであろうか)
思考を巡らせているうちに、脳の隅から眠気が滲み出る。
『このままいい夢を見よう』
融崇甫が瞼を閉じようとした
そのとき
「うぅ、む」
何か不快な感覚が彼を苛む。
激しい痛みや苦しみではないが。
どうにも気になって入眠を妨げる。
この絶妙に気に触る感覚は、
「痒い」
手の甲がざわざわする。
ちょっと掻かずにはいられない。
融崇甫は上体を起こし、手を前に持ってくると、
「ん……。
ふ、ふぁ、
ブワックシャイッ!!」
急に鼻がムズムズして、はげしいクシャミが出た。
しかも、
「ブアックショイ、アックショイ、クシュッ! ああ!」
一切止まる様子がない。
「こ、これは!」
融崇甫の目から涙が出る。
クシャミに釣られて出る分だけではない。
彼はこの感覚を知っている。
誰かが噂しているとかではなく、これは。
融崇甫は枕を手に取り、確認する。
真っ白なカバーの上。
よく見れば数本散っている、
少なくとも東洋系の毛髪には見ない、オレンジと金の中間みたいな色の毛は。
「これは、
猫じゃ!!」
堪ったものではない。
融崇甫にとっては死活問題である。
いや、アナフィラキシーで死亡するほどのアレルギーではないが。
言葉の綾である。
それはさておき。
融崇甫はバネ仕掛けのようにベッドを飛び出し、勢いそのまま窓を開ける。
板も割れんばかりである。
今度は反対側へ行ってドアを開け、廊下へ向かって叫ぶ。
「誰か! ヴッヘ! 侍女の方は、おるかぁ!」
本来ならあまり大声を出したり息を吸ったりしたくないが。
融崇甫は怒鳴りレベルの声を上げる。
決して悪質なクレームではない。
『はーい!』
「まったく、猫はダメじゃと言うておろうが。
何が『そのままにしておいた』じゃ。
掃除くらいしておかんか。そのまますぎるわ」
正当な怒り。
こちらへパタパタ走ってくる足音へ、どうぶつけてくれようか。
廊下で待ち構え(室内にいられないし)、予習するようにつぶやく融崇甫であったが、
「お待たせしました〜」
「あのですなぁ!
いったい何をし
て……」
背後からの声に振り返ると、全て一気に吹き飛んでしまった。
なぜなら、
「いかがされましたか?」
「あ、お、おぬしは……」
そこに立っていたのは、侍女ではなく、
「寝酒でしたら、馬乳酒でもお持ちいたしましょうか?」
北方の騎馬民族の格好をした女だったから。
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