9.
自殺に偽装した。
我ながらうまくできたと思った。
だからこの件は自殺で処理され、何も起きないはずだと……
それが昼間の仕打ちである。
「なんてこと」
煌々とした月をワシミミズクが横切る。
昨晩と同じようにコオロギが鳴いている。
しかし心は軽くならない。
江貴妃は後宮の庭、池の上に突き出た東屋で月を眺めている。
椅子に座り、テーブルに頬杖。
貴妃には珍しく、侍女は連れていない。
紅茶が用意されているが、飲まないまま冷めてしまっている。
部屋にいても息苦しいのだ。
貴妃たちはそれぞれ楼閣を与えられ、住んでいるとはいえ。
正直言って構造や設えはどこも似たり寄ったり。
彼女の部屋も当然、殺害現場と似ている。
落ち着けるものではない。
「はぁ……」
月は澄み、水面がそれを映す。
美しい。
が、夜ゆえにそれ以外は黒々としていて、自ら光らぬものは映らない。
江貴妃も人間ゆえ、ホタルイカのようには光らない。
だから映らない。
それが、
『汚れた自分では、美しき水面の世界に映る価値がない』
『自ら光らぬ、光を失った者だから陛下に捨てられたのだ』
という審判に思えて。
(ひとりになるんじゃなかった)
ため息が溢れる。
誰かといるのも緊張して、逃げ出してきたのだが。
孤独は苦しみを深くし、何より自力では抜け出せない。
江貴妃が頬杖にもたれすぎて、角度が斜めになっていると、
「お加減はもうよろしいので?」
不意に後ろから声が掛かる。
負のスパイラルを外から破壊する光。
のはずなのに。
江貴妃は振り返る首が異様に硬く、軋む感覚がした。
それもそう。
声の主は
「タジ」
「お昼ぶりです、江貴妃さま」
彼女を今の気分に突き落とした張本人なのだから。
タジはちょうど庭と東屋に伸びる橋の境目に立っている。
が、江貴妃が気付いたと見るや、遠慮なく近付いてくる。
「顔色は、暗くてよく見えませんが。出歩いていて大丈夫ですか?」
「なんでも寝ていれば治るものではないわ。特に悲しみは」
「それはそう。でしたらお独りもなんですし。ご一緒しても?」
言っていることに間違いはない。
今の江貴妃にとって、タジが致命的に避けたい相手であることを除けば。
しかし彼女はすでに、向かいの椅子の横に立っている。
居座る気満々である。
「よく効く薬の手土産もあります」
タジが右手を挙げると、縄が握られていて、先には土器の壺が吊るされている。
「へぇ」
「実は『お役目』の帰りでして。さる貴妃よりのいただきものです。味は保証しますよ」
「あら」
「湯浴みはして参りましたのでご安心を」
「でも杯がひとつしかないわ」
「おや」
なんだかんだ言って、彼女は椅子の横を動かない。
このまま同席を許可するまで粘りそうな雰囲気である。
江貴妃はまた、ため息ひとつ。
「いいでしょう、お座りなさい。私との回し飲みを許すわ」
「ありがとうございます」
江貴妃がカップの紅茶を飲み干すと、タジが壺の中身を注ぐ。
どうやらブドウの洋酒らしい。ポート・ワインといったところ。
高級品にして珍品である。確かに貴妃クラスのところへ行ってきたのだろう。
以前にもらったものを引っ張り出してきたのでなければ。
「では、どうぞ」
「あなたの貰い物なのに、申し訳ないわね。先にご馳走になるわ」
「いかがでしょう?」
「なかなか上等ね。はい」
「うん、甘くておいしい。黄酒より好きかもしれない」
普通のワインとは違う、強いブドウの甘み、アルコール感。
江貴妃は意識を集中して、気分を紛らわせる。
その矢先。
「あ、そうだ」
そういった殻も、会話は破ってしまう。
後宮は女の園だけあって、基本的に高い声が飛び交う。
その中にあって、タジの声は低く落ち着きがある。
『女子校の王子さま枠』と同じノリか。癒しとされることが多いのだが。
そんな声が不快に聞こえるとは。
「何かしら」
しかし顔に出すわけにもいかない。
『味わっているところを邪魔された』とすれば、出てもおかしくないのかもしれないが。
やましいことがある江貴妃には、
『何がボロになるか分からない』
と過剰に構える心理がある。
それに、
「昼に祥鳳閣でお尋ねしたことですが」
得てして嫌な予感は当たる。構えていて正解だったと言えるだろう。
「まだ何かあるの?」
「はい」
「『私は何も知らない』と答えたはずだけど」
「そうなんですけどね」
タジはテーブルに肘をつき、少しでも距離を詰めてくる。
「あれからご助言いただいたとおり、飛貴妃の侍女方に聞き込みをしたんです」
「賢明ね」
「するとですね?
飛貴妃、亡くなる直前あなたを自室に招いていたそうじゃないですか。
しかも内密で」
また嫌なところに手を掛けられた。
江貴妃はワインを呷る。
多少は表情が隠れるはず。
「それが何か?」
「『何も聞かされてはいない』
とはお聞きしました。
では
『何か様子がおかしかった』
というようなことは?」
「さあ」
「飛貴妃はその日、陛下の宴席のお召しも断っていたそうで。
普段は必ず参加する、いや、断れない陛下のお召しを。
つまりそれだけの事情があった、いつもと違ったはずなんです」
「何もなかったと思うけど。強いて言えば具合が悪そうだったかも、くらいよ」
このままタジに話させていても息苦しい。
江貴妃はカップを置く。
「自死だったんでしょう?
後宮では思い詰めた乙女が身を投げることなど、珍しい話ではないわ。
あなたも後娼ならご存知でしょう。
以前にも亡くなるまえに、それとなくあいさつに来てくれた娘がいたわ。
むしろさっぱりしていて、まったく気付かなかった。
そういうものよ」
「ですか」
「そもそも遺書があったんでしょう? そう聞いたわ。
理由もそこに書いてあったって。
それが全てじゃない。
そして、雀はもう死んでしまった。
今更何を深掘りして、あの子が生き返るというの?
むしろそこまで遺書に書いたのだから。
書かなかったことまで暴いては、死者に対する辱めだわ」
ここまで強めに言えば、さすがに誰も踏み込めないだろう。
渾身にして奥の手とも言える、温めておいた牽制なのだが、
「それがですね。
自死ではない可能性がありまして」
「な……ん、ですって?」
捜査の手は、すでに江貴妃の想定より内側のラインに入り込んでいた。
「じゃ、じゃあ、事故ってこと?」
「いえ、
殺人です」
「なんてこと……」
「しかもですね」
タジは江貴妃の手元に置かれたカップを取り、ワインを注ぐ。
一旦喉を湿らせてから、さっきよりも大きくテーブルに乗り出してくる。
「犯人像も見えてくるんですよ」
内緒話として顔を寄せているのか、それとも。
「あなた先ほど、
『飛貴妃に会ったとき、変わった様子はなかった』
『強いて言えば具合が悪そうだったかも』
とおっしゃいましたよね?」
「え、えぇ」
自分の話した内容を、わざわざ引用してくる語り口。
江貴妃は言葉にしにくい、致命的な予感がした。
「つまり、
『飛貴妃に心身の不調はなかった』
ということになります」
余計なことを聞かれたくないために、知らぬ存ぜぬでいたことが牙を剥く。
しかし効いているふうではマズい。
江貴妃はなんとか会話を保たせに掛かる。
「それであなたは
『自殺する理由はなかった。だから他殺だ』
と言いたいのね?
でもそれはさっきも言ったみたいに、最後にあいさつに来てくれる娘でも」
「そうではありません。
私が言っているのは犯人像です」
タジはピシャリと相手の発言を切る。
そのうえで表情はニヤリとしているのが、江貴妃にはなんとも憎たらしい。
「事件は宴席の日に起きていますからね。
犯人は『欠席した飛貴妃』に会えているわけです。
よろしいですか? 飛貴妃からすれば
『宴席は欠席したのに人と会っていた。会える状態だった』
『欠席した理由が病気や用事ではない』
『陛下のお誘いを正当な理由なく蹴った』
ということが、その相手には知られてしまう。
決して人に知られてはいけないことが。
つまり犯人は
『その状態の飛貴妃に会える』
『知られても他言しないだろうと思われている』
『相当信頼されている人物』
ということになるのです」
「そうね」
「ちょうど、あなたのような」




