10.
明くる朝。
融崇甫は曹立とともに、太乙殿を訪れていた。
「余もずいぶんと具合がよくなった。これも卿らが献身の功である」
場所は友親王の寝室。
いまだ熱発のある殿下だが、顔色はグッとよくなり、声も明るい。
「ありがたいお言葉ですが、殿下。風邪は治り掛けこそが肝要。
『百里を行く者は九十を半ばとす』
と申します」
「今朝も秋めいて寒うございまするぞ。ささ、横になりなされ」
曹立も融崇甫も口々に宥めるが。
起こした上体をベッドに沈められる殿下は、その動きもスムーズ。
「食べて寝て、余計なことをせねば熱も引くな」
「2、3日もあればの」
医師たちの見解も楽観的であった。
ゆえに、
「そなたらには褒美を取らせる。持ってまいれ」
殿下のひと声で、盆を高く掲げた侍女たちが現れる。
「「ははーっ」」
医師たちもまだ風邪が寛解していないながら、先に受け取る姿勢で頭を下げる。
「それぞれに絹と、曹立には白璧を。
融崇甫は酒好きと聞いている。玉斗を与える」
「「ありがたき幸せ」」
融崇甫の前に出された盆には、絹のロールと緑がかった白翡翠の器。
絹は服を仕立ててもいいし、換金すればいい値になる。
玉斗は家宝レベルである。
(割のいい仕事であったな)
今までも後宮医として、大病を治して褒美を貰ったことは多々ある。
しかしこうもチョロい仕事でとなると、いまだに笑みが溢れる融崇甫であった。
「では私は、まだこちらに患者がいるのでな」
「うむ」
ということで。
殿下のもとを辞去し、太乙殿を出たのは融崇甫だけ。
とりあえずいただきものを詰所へ置きに戻ろうと歩いていると、
「おや、融先生ではありませんか」
「む」
左手側から声を掛けられる。
よく知っている声であり、
「タジくんかね」
あまり聞きたくない声。
彼が必死に考えた偽装工作を、いとも容易く疑ってみせた女なのだから。
「こんにちは」
タジは軽く会釈をすると、ズレてもいない帽子の位置をなおす。
「奇遇ですね、こんなところで」
「奇遇?」
そんなわけはない。
太乙殿にいる妃嬪は皆、皇帝の子を産んだ者たちである。
別に子育てに忙殺されているわけではない。
それだけで性欲が霧散するわけでもない。
が、『妃嬪としてはアガリ』。
『寂しさ・満たされなさから後娼を呼ぶ』
ということはないし、第一、親王を産んだ者に自覚なき行動は許されない。
つまり、
『後娼がこんなところに用があるわけはない』
『いるわけがない』
のだ。
なのにタジは『奇遇』と言った。
わざと偶然を装った。
となると、
「おや、そちらは?」
「あぁ、これは友殿下が流感に罹られてな。治療の褒美じゃ」
「それはそれは。お勤めご立派です」
「お互い、よいお小遣いのある業種じゃてな。では」
「あぁ、そうだ。ちょっとよろしいですか?
お聞きしたいことがあったんです」
(ほれ見ぃ、来たぞ)
少なくとも誤魔化しをされた相手、
「なんですかな?」
「例の、韋氏殺人事件について」
融崇甫にとって、愉快でない含みがあるのは明らかである。
「あー、あー、あー。夢遊病について詳しくお知りになりたいのですかな?」
融崇甫はそれとなく話を『粛妃犯人説』の方へ寄せていくが、
「いえ、私が聞きたいのは
『韋氏の交友関係について』
です」
「は?」
やはり思ったとおりにはコントロールできない。
「それはやはり、『一応動機がある人間を洗い出しておきたい』と?」
「それもありますが。
どうやら犯人は、彼女の知り合いで間違いないようでして」
「なんですと?」
どころか、彼の計算の遥か上空を越えていく。
人にそれが可能かはともかく。
気持ちの上では、顔が青ざめるのを堪える融崇甫に対し、
「であればやはり、面識のない粛妃が犯人というのはあり得ない」
タジはにっこり笑う。
融崇甫の手が震え、盆の上の玉斗が鈍い音を立てる。
やはり鉱石だけあって、陶器とは音が違う。
「それは、そうだが。
『そうであれば』
じゃ。
どうして『犯人は被害者と面識がある』と?」
「はい」
タジは小さく頷き、ズレてもいない帽子の位置をなおす。
「亡くなった韋氏。あんな時間にあんな場所で、何をしていたんでしょうね?」
「ワシに聞くのか?」
急なパスにとぼけて見せる融崇甫だが。
(迂闊なことは言えんぞ、これは)
真相は『融崇甫と金の受け渡しをするため』。
ここへタジを近付けさせないための、ピンチとチャンスが同時に来ている。
「夜に睡蓮池じゃろう? 普通に考えて、月か睡蓮でも見に来ていたんじゃろう。
寝れないときは散歩をする人も多かろう」
別に無理のある話ではない。
「それは違います」
しかしタジは一瞬で、はっきり切り捨てる。
「なぜそう言い切れる?」
「彼女の死体、桟橋の方を向いた椅子に座っていました」
「……それが?
あそこは壁がないから、椅子に座っていても睡蓮は見える。何もおかしいことは」
「桟橋の方を向いた、です」
タジは念を押すように融崇甫の顔を覗き込んでくる。
老齢で縮んだ彼より、タジの方が背が高い。
「あそこには円卓を囲むように、4つ椅子が配置されています。
そのなかで、唯一視線の先に睡蓮もなければ、月も見えない席に座っていたんです。
韋氏は何かを鑑賞していたわけではない、これは明白です」
「犯人が殺したあとに座らせたのやも」
「なんのために?」
タジは左右の目の色が違う。
厳密には片方の瞳孔が開いている。
暗くて深い瞳には圧がある。
「夢遊病に理屈はあるまいて」
「普段は引き籠りの妃嬪が、寝ながら死体を持ち上げる腕力を?
ちなみに、あの椅子の真下以外には、特に血痕は落ちていませんでしたよ」
「……」
融崇甫が口籠ったところで。
タジは『満を持して』という様子で人差し指を立てる。
「それより、こう考えた方がスッキリしませんか?
『誰かが桟橋を渡ってくるのを、じっと待っていた』
『誰かと待ち合わせをしていた』
と」




