5.
交代して臨時の宿直室に入った融崇甫は、早速窓を開けた。
(急がねば、万が一呼び出しがないともかぎらんからの)
彼は鞄から簪を取り出し懐にしまうと、窓枠を跨ぐ。
(部屋が1階で助かるわい。さすがにこの歳で2階から降りられん)
スポーツマンでもない老人なのだ。股関節が硬い。
その窓枠を越えるのも、失敗した跳び箱から降りるようにノロマな動き。
事実、2階からでは降りられなかっただろう。
(以前からそれとなく計画を練って、『機会があれば』とは思っていたが。
これだけ文句のない条件が揃うことも、そうはないだろうて)
ここで決めねばならない。
もはや使命感にも似た何かが融崇甫をせっつく。
彼は庭へ降りると一転。
窓枠も苦労した足腰とは思えない動きで、夜の闇の中へ駆け出していった。
暗闇の中を走るのは危ない。
本来なら灯りのひとつも持っているべきである。
が、人に見られてやましい人間は目立つものを持てない。
悩ましき自業自得である。
街灯もなければ老人の目もあって、もはや墨汁の中を泳ぐ気分だが、
不意に、闇を切り裂いて届く光の群れがある。
蛍か千切れ飛ぶ狐火にも見えるそれは、
まばらに覆われた水面が反射する月の光。
待ち合わせの睡蓮池である。
やがて真っ黒な闇の中にも、より凝り固まったシルエットが現れる。
件の光の真ん中、包まれて照らし出されるそれは、
桟橋で池の中ほどまで迫り出した榭。
目を凝らすと屋根の下に、小さなオレンジの光が揺れている。
蝋燭だろう。どうやら韋氏はすでに到着しているらしい。
融崇甫はグルリと桟橋まで池を回り込むあいだ、今度は歩調を落とした。
なんだか、息切れした状態で相手と対峙したくなかった。
余裕がない状態を見られるのも嫌だったし、
向こうに気付かれなくとも、勝手に自分から飲まれてしまう気がしたのだ。
『急がば回れ』でもないが。
いち早く戻りたい彼でも、必要な時間の間合いであった。
桟橋に入り、中ほどまで進む。
すると卓上のランタンに照らされて、韋氏がはっきり韋氏であると浮かび上がる。
彼女は椅子に座り、こちらを見ている。
(睡蓮か月でも見ておればよいものを)
さしづめ、レッドカーペットの先で勇者を待ち受ける魔王の構図。
上座下座に関しては向こうが先に来たのだから、奥にいて当然なのだが。
それでも気に入らない。
気に入らないヤツは何をしたって気に入らない。
融崇甫は、せっかく歩いてクールダウンした神経が逆立つのと同時に、
『むしろこれが臆しそうな決意に薪をくべ続ける』
と冷静に計算する自分を自覚した。
「やっと来たのかい」
韋氏はあくびをひとつ。
融崇甫が屋根の下に入る手前あたりで声を掛ける。
「静かにせんか。灯りも点けおって。誰ぞに見られたらどうする」
「そう気にするんだったら、もっと早めに来るんだね。
自分から誘っといて遅れるんじゃないよ」
「『日付けが変わって以降』と言うたろうが。何時とは言うとらん」
「なら日付けが変わるまえにはいるのが、誘った側の礼儀じゃないのかい」
ぐうの音も出ないが。
いや、出ないからこそ黙らせる必要がある。
融崇甫は懐に手を入れる。
「そもそもねぇ。男が女を待たせたとき、事情があろうと口答えしちゃいけないんだよ」
「その忠言は30年遅かったな。お互いに。
それよりほら、オマエさんの欲しいものを持ってきたぞ。
さっさと済まそうではないか」
「ん」
ついに韋氏との距離は半歩の間合い。
融崇甫は簪を取り出す。
「ん? 銭じゃないね。なんだいそりゃあ」
「さる妃嬪から『妻へ』といただいたものじゃ。
今日は金で用意する時間がなかったでな。これでも換金すればいい値段になる」
「ふーん」
韋氏は融崇甫が握る簪に顔を寄せ、首の角度を変えつつジロジロ見ている。
金工芸も暗闇では光が弱く、価値があるのかパッと見で分からないのだろう。
「まぁいいや。さっさと寄越しな」
ようやく韋氏が顔を離し、
「うむ」
顔の動きが止まった、狙いを付けやすくなった瞬間、
「くれてやる!」
融崇甫は逆手に持った簪を振りかぶり、
「ぎゃああ!!」
尖った先端を、韋氏の左目に突き立てる。
彼とて手術で人の体を縫ったり切開したことはある。
が、眼球を潰す感触。
肉とは違う、ブチュリと柔らかい質感が手に伝わる。
鯛の兜煮で目玉を食べたことがある人ならイメージしやすいか。
そんな全身が怖気立ち、ともすれば怯んでしまいそうなところを。
幸いにも韋氏が悲鳴をあげたことにより、融崇甫は焦りで塗り潰すことができた。
「このっ!」
彼は韋氏の頭をつかんで逃げられないようにすると、
手のひらで簪をさらに押し込む。
簪は人体の内側へズブズブと飲み込まれていき、
「ぎっ、あっ、お」
眼球とは違う感触。
鋭利な先端が脳に達した韋氏は、
目は見開いて濁り、口は半開き。
それこそ鯛のお頭のような表情で、ピクリとも動かなくなった。
融崇甫は崩れた体勢で椅子に座る彼女を見下ろしながら、
「……ふん。業突くババアには最高の死に方じゃろ」
捨てゼリフに恨み言ひとつ。
池の水で手に付いた血を洗うと、
あとはまた、夜の闇を急いで走り去る。
が、まだこれで終わりではない。
宿直室に戻って枕を高くするには、もうひと仕事残っている。
(本当に、もう30も若かったなら!)
融崇甫が老体の全力疾走で向かった先は、
神鷹殿。
粛妃の部屋である。
建物に侵入し、堂々と行ったわけではない。
敷地内で庭を通り、今は寝室の窓の外に立っている。
そう、この窓こそ、
「よし」
夕方、蝶番の釘を緩めておいたところ。
融崇甫が窓板をつかんで引っ張ると、
いとも容易く窓枠から外れた。
彼はそれを芝生の上に落とし、
「ふう」
ようやく残すは帰るだけ。
しかしそれが最後の山場。
ここ何年分のシャトルランが始まった。
「ヒィ、ヒィ、ヒィ、ヒィ」
声を出さないのが吉。
とはいえ乱れる息を抑えられず。
融崇甫はなんとか宿直室の近くまで戻ってきた。
庭にいるかぎりでは、特に騒ぎは聞こえてこない。
殿下の容態も安定していれば、自身の不在がバレてもいないようだ。
「よかった、よかった」
間に合ってしまえばあとはどうとでもなってかまわない。
部屋に戻って、ずっと寝ていたフリをするだけ。
全力疾走を続けた体は、息切れや鼓動もそうだが、脚がもうプルプルしている。
「早いところ、本当に寝ようぞ」
最後の力を振り絞り、窓枠を乗り越えようと近付いて、
「ニャアオ!」
「ぬおっ!」
黒い影が飛び出す。
どうやら窓の下に何かがいたらしい。
鳴き声だけで確認するまでもないが。
ようやく暗さに慣れてきた目で見ると、
こちらを睨み返す、灰色に光る瞳は、
「確か、麦だったか米だったか」
友殿下が飼っている猫。
放し飼いか脱走かは分からないが、こんなところをウロウロしているとは。
「猫じゃ猫じゃ。疲れとるところに、敵わん敵わん」
融崇甫は声を上げてしまったことと心拍の増加を誤魔化すようにつぶやくと、
逃げるように室内へ入り、窓を閉めた。
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