4.
「私はもう、おかげさまで」
融崇甫は別の侍女が運んできた椅子に腰を下ろす。
粛妃も上体を起こす。
ベッドサイド、目と鼻の距離。
粛妃は精神を病んで以来、1日のほとんどをベッドの上で過ごす。
その虚ろな瞳、声、佇まいを見るたび。
融崇甫は胸にキュッと来るものを感じる。
真に手前勝手な話ではあるが。
自分が産み出した林貴妃の姿を重ね、
勝手に贖罪としている面は否めない。
だが、そういった事情の有無に関わらず。
患者を診るのは彼の仕事であるし、
偽善とは本人の中にあるもので、世に出せば善である。
「それで、最近また外にお出になられた、と」
「はい」
粛妃が俯き加減になる。
枯れかけの白百合、とでもいう風情。
「鍵を開けることを、覚えてしまったようで」
別に彼女は
『幼児退行していろいろ忘れている』
とか、
『外出禁止で座敷牢に幽閉されている』
わけではない。
いや、事実精神を病んでいるがゆえに、神鷹殿に隔離されているのだが。
では何が問題かと言えば、
「ふむ」
融崇甫はドアを見る。
部屋の内側からも、後付けの錠前機構が設けられている。
次に、ベッドサイドの棚を見る。
そこには先ほどの錠の鍵が入っている。
粛妃が抱える問題。
それは
『睡眠時遊行症』
いわゆる『夢遊病』である。
簡単に説明すると、
『眠ったまま無意識で動き回ってしまう病気』
彼女は息子を亡くした強いショックから、睡眠障害を発症したのだ。
ゆえに、こうした措置が取られている。
頻繁に行方不明になられては困るから。
「やはり外鍵にして、侍女に預らせた方がよいのでしょうか」
「いえ、それでは逆にあなたが不便すぎる。
夜中に厠へ行きたくなったときなど、困るでしょう。
侍女より先に目が覚めてしまった場合もそうだ。
みんなが起き出してくるまで寝室から出られない」
「それは、はい」
ということで。
夢遊病はあくまで寝ているあいだの病。
起きているあいだ自由に行動するのは問題ない。
なので支障が出ないようにしていた結果、
最初は
『鍵が掛けられている』
で対策できていた脱走が、
『日中の鍵を開けて出る動作を脳が学習し、夢遊病の無意識でも反復可能になった』
ということらしい。
「どうしましょう、先生」
融崇甫の斜め後ろから、侍女の心配そうな声が降ってくる。
「そうですな」
しかし彼にも、長年の蓄積された知識がある。
「これからは鍵を棚にしまうのではなく、
水を張った盆の中に沈めておいてくだされ」
「水?」
「えぇ。そうすれば、鍵を取ろうとしたとき、必ず手が濡れることになる。
手は人体のなかでも感覚神経が密集した部位です。
そこが
『濡れる』
という異常を検知した場合、大抵の人間は目が覚めます。
やや強引ですが、
『寝ているあいだに制御不能で動いてしまう』
のが問題であれば、
『動いたときに起きてしまえばいい』」
「「確かに」」
粛妃と侍女の険しい顔から、ポッと険が抜けたところで、
「ご安心いただけましたかな?
やはりこういうのは、なんといっても安心することが一番!
あとは質のよい睡眠をとれば、自ずと快方へ向かうものです。
さ、おふたりで散歩に行ってらっしゃい。
外気を浴び、体を動かし、心を軽くさせるのです
まだ夕方で陽のあるうちに」
「はい」
差し当たっての懸念が解決し、気が楽になったのであろう。
粛妃は素直にベッドを出ようと動く。
「私は少し、寝具を確認させていただく。
綿が死んで寝心地が悪くなっていることもありますからな」
「そんな! それは私たち侍女で仕りますから」
「いやいや、医者の目で」
こう言われて、あえて押せる素人はいない。
いや、他の筋なら
『いかにプロとは言え、妃嬪のベッドに触るなスケベジジイ!』
くらいは言えるかもしれないが。
相手は医者である。
健康に関わるし、時には肌を見られる相手でもある。
「私は確認が終わりましたら勝手に引き上げますので。お見送りは不要です」
「分かりました」
粛妃と侍女は頷くと、
やがて運ばれてきた上掛けだけ羽織って、散歩へと出掛けた。
「さて」
融崇甫は椅子から腰を上げる。
もちろん散歩に行かせるのも、デタラメで騙したわけではない。
ただ、
第一の目的が、人払いであっただけ。
融崇甫は棚を開ける。
そこには鍵だけではなく、いくつかの日用品が入っている。
薬だったり、女性としての最低限の化粧品や手鏡、
かつて皇帝より賜りしアクセサリー。
融崇甫はそのなかから、複数ある簪の
一番先端が鋭利なものを選び、カバンにしまった。
代わりに中から、釘抜き付きのハンマーを取り出すと、
「む、よっ。……うむ」
両開きの窓を支える蝶番。
枠と繋ぎ止めている方の釘を、窓板が自重で落ちない程度に抜いた。
先ほど粛妃の姿に『胸がキュッとする』などという件があったが。
結局こういうことをするのだ。
真に手前勝手な話である。
その後、
「おぉ、融先生! よく来てくださった! 感謝に堪えん!」
「その代わり、ワシが困ったときはお頼み申し上げますぞ」
融崇甫は時間どおり太乙殿へと到着した。
「いや、まったく。必ずお力にならせていただく。
こちら、引き継ぐべき患者の情報をまとめてありますゆえ」
「これはありがたい」
曹立から書類を受け取り、握手を交わしたところで、
「先生、よろしくお願いいたします」
「うむうむ」
侍女の先導で友親王の寝室へ向かう。
ここからは日付けが変わるまで、真面目な医者のターンである。
いや、今までも真面目に医者をしていたに違いないのだが。
しかし別段、なんの手術をするでもないのだ。
投薬なども曹立が済ませている。
融崇甫の役目は経過観察だけ。
万が一容態が急変した場合に対応するくらいである。
で、結論から言うと、特にそんな事件はなく。
「ふむ、時間か」
融崇甫は何事もなく、無事、担当時間を乗り切った。
強いて言うなら。むしろ事件もなく待機だけで夜更かしするのが、老人にはキツかったか。
「融先生」
「おぉ、曹先生」
で、向こうも
『来てもらっている』
という意識があるのだろう。
曹立は起こしにいくまでもなく交代にやってきた。
「殿下は」
「依然変わりなく、ですな。
じゃが薬が効いてきておるのじゃろう。息が楽そうになっておられる」
「おぉ、それは重畳!」
曹立の、寝起きだけが理由ではない表情も柔らかくなる。
「このままよくなるじゃろうて。
こちらこそ感謝しますぞ? 見ていただけで、殿下より感謝していただける。
おいしいところだけ噛ませてくださってな」
「いやいや」
「ではワシは約束どおり、一応1階で待機しております。
が、用はないでしょうからな。よい夢を見させてもらいますぞ」
「思う存分」
融崇甫は笑って部屋をあとにする。
彼は振り返りもせず、心の中で繰り返す。
(本当に感謝しますぞ。このような機会をくださってな)




