3.
それから融崇甫の地獄の日々が始まった。
とは言え、以外にもその内容は
『定期的な金銭の要求』
いわゆる強請りでしかなかった。
暴露されるとか、家族に危害が及ぶとか。
そういったケースにまでは至らなかった。
言ってしまえば、融崇甫も高給取りである。
金で済むならまだ助かる方だ。
あの日の、その場で刺し殺されそうな気迫。
悪を塵すら残さず焼き尽くす、忠誠と復讐の炎。
あれも案外、ビビらせて無抵抗にするためのふっかけだったのかもしれない。
だったらまぁ、かまわない。
知り合いにも、爺さんにもなって女を囲っているヤツがいる。
アレと違って楽しみはないが、実質同じことをしていると思えば。
金で浮気を黙らせるのも、金で過去を黙らせるのも大差ない。
自分が特別損をしているわけではない。
己が行いの報いにしては、なんなら割のいい方だろう。
融崇甫も、なんとか心の整理はつけられていた。
要求額が徐々にエスカレートしていくまでは。
「……今は持ってきておらんが、夜渡す」
「へぇ?」
そして、時は戻って現在。
融崇甫は今もこうして、抵抗できないままでいる。
「どうして急に?」
「今日は患者の兼ね合いで、後宮に居残りするのだ。
いつも診察のあとに渡しておるとは言え、本来なら人目につかん方が都合よかろう。
お互いに」
「ふーん」
かつて融崇甫は、韋氏に尋ねたことがある。
『どうして金を要求するのだ』
『妃嬪の侍女頭ともなれば、安くはない金額をもらっているだろう』
と。
しかし案外、そうでもなかった。
韋氏曰く、
『あの部屋を見たら分かるだろう』
『田妃さまは自分が若さや美貌で競う歳じゃなくなってから、
「妃嬪と言えど天下万民のため、不要な富貴は戒めねばならん」
などと言い出した』
『その質素倹約趣味は、私たち侍女にまで強制されている』
『商人が売りにくる日用品から、給料まで』
とのことらしい。
なるほど、やはりあの顔は復讐心だったのだろう。
しかしそれは、忘れ得ぬ主人の仇としてではなく、
『今をときめく、これからも約束された貴妃の侍女』
から
『金も上がり目もない職場』
へ追いやられた恨みとして。
となると、
「今までは無事でも、次は人に見られんとも限らん。
お互い過去やら強請りやらを白状せなんだとしてもじゃ。
『人から金を貰っていた』
こと自体に、田妃がいい顔をせんじゃろう」
「確かにね」
そもそも韋氏がいくら金を貯め込み、贅沢品を買ったとて。
使う機会がないとは思われるのだが。
それも『金を奪う』こと自体が目的なのだろう。
じわじわと増額していく恐怖も含めて。
何より、
『いつまで要求が金に収まるか分からない』
現実の脅迫も、恐ろしいのはここだという。
特に融崇甫には、実際にとんでもない要求をされたトラウマがあるのだから。
それが全ての発端なのだから。
『残りの人生、たっぷり苦しめる』
と韋氏は宣言した。
からには、手の込んだ演出もするのだろう。
「だから今日の金は夜渡す」
「時間は?」
「日付けが変わってから、睡蓮池の榭*で待っていてくれ」 *東屋やガゼボの一種
「そんな時間にかい?」
「その方が人目にも付かなければ、海鷹殿から抜け出すのも容易じゃろうて。
察するに、田妃の目は厳しかろう。
ワシもちょうど今日は宿直があってな」
「そうかい」
せめて抵抗できないなりに、一方的に条件を押し付けると。
融崇甫はようやく門の敷居を跨ぐ。
「さ、早く戻れ。見送りに時間を掛けすぎては、田妃が怪しむぞ」
「そんな若妻みたいな人でもないけどね」
「ではまた、のちほど」
否、違う。
抵抗できないのは今日までのこと。
海鷹殿を出たこの足は、始まりの1歩となるのだ。
その後、融崇甫は一度後宮を出て、自身の住居に向かった。
退勤後は中に戻れないが、逆に日勤中なら何度でも出入りできる。
彼は釘抜き付きの金槌を鞄に詰め、後宮へと戻った。
あとは詰め所にて患者に備えつつ。
特に何事もなく過ごし、正午よりまえに早めの昼食。
それから16時ごろまで休憩・仮眠をとり、
夏より夕暮れも早くなり、曹立との交代まであと1時間ほど。
融崇甫は神鷹殿を訪れていた。
妃嬪たちの住まいは複数あり、作中でもいくつか名前が出てきたが。
実は大まかにジャンルが分けられているのだ。
先ほどの海鷹殿や郭妃が住んでいる龍驤殿などは、
『子どもを産んでいない妃嬪たち』
が住んでいる。
小鳥が住む瑞鶴殿は以前にも書いたが、『少女』と世話役の侍女だけ。
貴妃となると、飛貴妃の祥鳳閣のように戸建てが貰える。
ちなみに使い回しなので今は欧陽貴妃が入っている。
そのなかで、ここ神鷹殿はというと、
『先帝の妃嬪たち』が住まう館である。
お役御免となった妃嬪はようやく
『後宮を出るか残るか』
の自由を与えられる。
親王たる息子の任地へ行ったり、実家へ帰る妃嬪がいる一方で、
当然『残る』選択をする妃嬪もいる。
が、基本的に皇帝が先帝の、『親父のオンナ』を継承することはない。
そのため、彼女らは次代の妃嬪のために場所を開けねばならず、
その『老後施設』とでも言うべき、静かな終の棲家が神鷹殿なのである。
そこを訪れたからには当然、融崇甫の次の患者もそういった妃嬪
ではない。
彼は部屋へ向かう途中の廊下で、出迎えの侍女に訊ねる。
「粛妃さまのご加減はいかがかな?」
侍女は困った顔をする。
「それが、ついに鍵を開けることを覚えてしまったようで……。
ここ数日、また徘徊を」
「困りましたな」
話しているうちに目的地へ着く。
その妃嬪の部屋は1階にあるのだ。
階段から落ちると危ないから。
玄関のほど近くにあるのだ。
外に出るまでが長いと、廊下の窓から出ようとして危ないから。
応接間やリビングを抜け、寝室へ。
「妃さま、融先生が参られました」
『どうぞ』
「粛妃さま、ご機嫌麗しゅう」
融崇甫が室内に入ると、そこには
田妃の部屋以上。
つまづくと危ないということで、ベッドとタンスひとつ以外、全てが排除された空間。
そのベッドの上。
昼なお寝巻きで横たわる、30歳前後の女性が、
「先生も、ご健勝でしょうか」
件の粛妃である。
現皇帝の妃嬪にして、
親王たる息子を亡くし精神を病んだ、悲劇の女性。
どこかで聞いたような話である。




