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2.

 一旦太乙閣を出て。

 融崇甫が向かったのは、


「よういらしたの、先生」

「ご機嫌麗しゅう」


 海鷹殿(かいようでん)1階。

 日当たりのいい、南向きの列にある、


 田(ティエン)妃の部屋である。


「だいぶお顔色もよくなられましたな」

「うむ」


 診察ではあるが、田妃は椅子に座ってテーブルに左肘をつく。

 苦しげにベッドに横たわっている様子もない。


「やはり暑(・)気(・)あ(・)た(・)り(・)だったのであろうよ。

 この頃涼しうなって、とんと楽になった」

「そのようで」

「若かりし頃は平気であったがのぅ。妾(わらわ)も歳を食った」

「まだまだお若いですぞ」


 飾らない性格。

 それが妃嬪にしては質素な、最低限の家具しかない部屋にも現れている


 と見えて、


「年(ねん)ごと若い娘が来る後宮じゃ。四十(しじゅう)の見えた身が若いつもりでは笑われよう。

 まぁ、先生から見れば皆、若造かもしれんがの」


 田妃は茶を口に含む。

 その言葉には、融崇甫の老齢を指す字面どおりの意図の他に、


『若く美しいことが全ての後宮、女社会』

『男には分かるまい』


 というプライドも滲んでいる。


 しかし彼も後宮で長い。

 妃嬪の念をぶつけられるのは慣れたもの。

 今時分はまだ、秋風の方が肌を驚かせる。


「お元気そうで何よりでございます」


 患者がすっかり回復して、皮肉に頭が回るようになった。

 そんなデータにしかならない。


「ではまた参ります」


 融崇甫が椅子から立ち上がると、田妃はケラケラ笑う。


「そう頻繁に来ぬでもよいぞ。妾は母の功、持病もなく頑健である」


 融崇甫もニヤリと返す。


「しかしこのたびの体調不良も、こうしてマメにお伺いしておりますれば分かったこと。

 それにあなたさまが頑健なのは、ワシの腕がよいからですぞ?」

「ふはは、失礼したの」


 融崇甫が出口へ体を向けると。


「お見送りしてまいります」

「うむ」


 ずっと無言で控えていた中年の侍女、韋(ウェイ)氏が着いていく。

 田妃は手を振りながら、ふたりを見送った。






「田妃さまの体調管理で何かを気を付けることは?」


 海鷹殿の楼門は目と鼻の先。


「特にはないかの。これから寒うなるから、衣替えの準備をな」


 あと数歩で敷居を跨ぐ


 というところで、



「何か足りないんじゃない?」



 背中へ投げ掛けられた声に、融崇甫の足が止まる。


 心なしか速まっていた歩調とは逆に、ゆっくり振り返ると


 韋氏が左袖に右手を突っ込み、モゾモゾ動かしている。


 微かに聞こえる、チャリチャリという音。

 銭である。


 それが老いた融崇甫に聞こえたかは定かではないが。


「……」


 彼はジェスチャーだけで全て理解する。



 何せ、もう幾度となく繰り返したやり取りなのだから。


 融崇甫は1歩も動かず睨み返す。


「今は、持ってきておらん」


 対する韋氏は、


「へぇ? 大きく出たもんだねぇ、態度が」


 アゴを上げて、嘲笑う調子。



「バラしていいのかい? アンタの命ぁ、アタシが握っているんだよ?」











 それは遥か昔、先帝の治世のころ。30年はまえになろうか。


 林(リン)貴妃という、それはそれは若く美しい妃嬪がいた。


 先帝の寵愛凄まじく、入内後トントン拍子で貴妃になったほど。

 先の飛貴妃に並ぶような具合であった。



 そうなれば、体質に問題でもなければ、いつかは身籠る。

 林貴妃は新たな親王をその身に宿し、先帝の喜びようは


『かつて皇后が太子を産んだときに比肩する規模の大赦(たいしゃ)が行われた』


 と記録に残るほど。


 ある意味では大事件であった。






 が、そうなると迷うのが人の性(さが)。

 得てして本当の事件にしてしまうもの。


 先帝がある日、酒の勢いで近習に漏らしたという。

 曰く



『林貴妃のお腹の子が男子であれば、その子に天下を譲りたいものよ』



 どこまで本気であったかは分からない。

 冗談であったり、


『言うだけならタダ』


 くらいの気持ちであったかもしれない。






 が、それでは済まない人がいる。

 皇帝の迷いが迷わせたのは、


 皇后であった。


 あるいは、聞いた誰かが胸に秘めておけば。

 大人の対応をすれば全て平和だったのか。


 それとも王の無道たる振る舞いを阻止したファインプレーかは分からない。


 が、事実としてその『内意』は皇后の耳に入り、彼女に



『それは我が息子を廃嫡(はいちゃく)するということか!』



 と叫ばせるに至った。


 ここだけ見れば、皇后は一方的な被害者。

 同情を買う存在であり、抗議する権利もある。

 実際そうすれば、国家の重鎮たちも


『それが道理なり』


 と彼女に味方し、たとえ冗談であろうと皇帝を戒めたことだろう。






 しかし皇后はやり方を間違えた。


 この件を受けて、彼女が秘密裏に呼び出したのが、



『そなたの師は、林貴妃の担当医であったな』


『御意にございます』



 若き日の融崇甫であった。


 皇后が彼に託したことは、


 あまりにも予想可能で



『のう、融崇甫。

 国家の順序が乱れ、大乱となるのを防ぐ天道である。



 なんとか薬でも盛って、林貴妃の御子を流産させてたもれ』



『な……!』


 かつ、逆らうには大きすぎることだった。



 いや、あるいは皇后の言うとおり。


『そもそもの火種を絶つ』


 と思えば、むしろ正しいやり方だったのかもしれない。



『そなたは今、官吏どもの相手をしておるのであったな』

『は、は、はい……』


 当時の彼もすでに医者の端くれではあったが、後宮医ではなかった。


 同じ大京城内でも後宮の外。

 例えば飛燕のような下っ端武官などに、保健室の先生をするのが仕事。


 よって同じ医者でも待遇は全然違う。

 給料も低ければ、城内に住まいも与えられていない。


『大変だろうのう』

『それは』


 ゆえに彼ら医生は常々、『いつかは後宮医に』と思っているのだが。


 当時の融崇甫たちが保険医なら、後宮医は


『大学病院のエリート医師』。


 そこいらとは隔絶したスキルが必要とされる。

 残念ながら見習いのキャリアだけ積んだとて、昇格できるとは限らなかった。


 それを、


『のう。もしそなたが立派にやり遂げたなら、



 必ず後宮医になれるよう計らってやるぞ?』



『!』


 皇后は悪魔の囁きに変えた。






 で、融崇甫はどうしたか。


『……』


 その晩、彼は



 師が林貴妃に処方している頭痛薬に、別の粉を混入させた。



『後宮医の保証』は抗いがたい魅力があったから。


 それ以上に、



 拒否すれば逆に、その未来が閉ざされるどころか、

 まず明日すらない可能性があったから。






 結果どうなったかといえば。


 事実としてこの国の歴史では、


 ほどなくして、皇帝は失意により生前で退位し、


 正しく太子が即位し、



 一方で林貴妃は気の病(やまい)から衰弱し、この世を去った、



 とされている。






 残る記述はこの程度。


 一連のことはこのまま歴史の闇に葬り去られる



 はずだった。






 そ(・)れ(・)が染み出してきたのは、去年のことである。


 現在を見れば当然だが、融崇甫は後宮医として勤めていた。



 その日彼は田妃の腰痛を診察し、こ(・)と(・)は終わったあとであった。


 一度詰め所へ引き上げようとした彼の背中に、


『あのぉ』


 見送りに来た侍女が声を掛けてきた。


『なんでしょう』


 融崇甫が振り返ると、彼女は怖いぐらいに真っ直ぐ目を合わせてくる。



『私のことを、覚えておいでですか?』



『それはもちろん、田妃さまの侍女頭として』

『そうじゃない』


 彼の返事に、侍女頭は笑った。



 壮絶な笑みだった。


 ガパリと開いた口の中は燃えるように赤い。

 血の滴(したた)る肉を、生きたままの人間を食いちぎったように赤い。


 復讐の炎が、口から漏れ出た赤であった。



 さすればその笑みは、


『過去の恨みを、やった側は忘れている憎しみ』


 と


『だからこそ復讐する正当性がある喜び』


 が混ざった、

 およそ並の人生を送った者には浮かべられぬ笑みであった。



 彼女は、韋氏は震える声で、上擦った高い声で告げた。


『私は30年まえ、



 林貴妃さまにお仕えしていた女だよ』



 融崇甫は全身が固まるのを感じた。

 あの日皇后に命じられた瞬間が、鳥肌のひと粒まで蘇った。


 もはや彼には、


『なぜ今頃』

『どこからバレた』

『どこまで知っている』

『誰にまで伝わっている』


 その全てがどうでもよかった。


 ただ今は、目の前の鬼と



『復讐してやるよ。アンタも残りの人生、たっぷり苦しんで死ぬんだ』



 その宣言が全てだった。











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